長期出張の名目でタークス本部に放り込まれてから、数年が過ぎていた。

窓のない地下の空気にも、妙な静けさにも、ルーファウスの身体はある程度慣れてしまっていた。慣れたくなどなかったが、肉体とは残酷なほど順応性が高い。訓練室のマットの硬さも、資料室の紙の匂いも、タークスたちの無駄口も、その全てが日常の風景になりかけていた頃——ようやく鎖の緩む日が来た。

「長期出張、終了だとさ」

レノがいつもの調子で笑いながらそう告げに来たとき、ルーファウスは手に持っていた報告書から視線を上げなかった。紙の視界の向こうで、心臓だけがひどく静かになる。

「社長サマも、さすがにいつまでもあんたを地下に閉じ込めとくわけにはいかねぇってこった。表向きの仕事も色々あるしな」

「……そうですか」

短い返事をして、ページをめくる。レノは肩を竦めた。

「ま、詳しい話は上で聞きゃいいっすよ。ひとまず、『出ていい』ってことだけ伝えろってさ」

「出ていい」という言葉の軽さに反して、その意味はあまりにも重かった。

それから数日後、形式的な「復帰のための面談」をいくつかこなし、社内の立ち位置を再確認し、今後の動き方について遠回しな牽制をいくつも受け——それでも確かに、鎖は外れていた。完全に自由というわけではないが、少なくとも自分の行き先を自分で決められる程度には。

最初にしたことは、仕事でも挨拶でもなかった。

「……ひとつだけ、確認しておきたいことがあります」

人事や総務の担当者と、今後の出張予定について話していたとき、ルーファウスはさりげなく切り出した。声色も表情も、あくまで事務的なままで。

「過去数年、私の秘書だった女性社員——みみの動向を、把握しておきたい」

「……」

担当者たちの表情が、一瞬だけ凍る。すぐに取り繕われるが、その間にルーファウスは十分な情報を読み取った。

「彼女は『過労による休職』という扱いで、保養地に送られたまま……のはずですが」

「その保養地は、どこですか」

淡々とした問い。

担当者のひとりが、わずかに視線を泳がせる。

「社長から——」

「父から、場所を伏せるよう命じられていたのは知っています」

ルーファウスは遮った。

「だが、私は既に長期出張を終え、復帰している。機密情報の扱いについては、他の誰よりも心得ているつもりだ」

静かな圧力を宿した視線を向けると、担当者は喉を鳴らした。

「……コスタ・デル・ソルです」

短く、観念したように答える。

「コスタ・デル・ソルの高台にある神羅保養施設のひとつに、専用のヴィラを用意して——そこに、現在も」

「生きているわけですね」

思わず、言葉が口をついて出た。担当者は目を見開き、それから慌てて頷く。

「ええ、もちろん。休職扱いですので、給与も一部支給されていますし、定期的に健康状態の報告も……」

その先は、ルーファウスの耳には入らなかった。

コスタ・デル・ソル。高台のヴィラ。専用の保養施設。

場所さえ分かってしまえば、あとは簡単だった。出張予定を「各支社の視察」として組み替え、その途中でコスタを経由する経路をさりげなく差し込む。書類の上では、ごく自然なルートにしか見えないように。

ただ——。

(怒っているだろうな)

飛空艇の窓から見える海と空の境目を眺めながら、ルーファウスは珍しく、自嘲にも似た感情を覚えていた。

彼女がこの仕打ちを受けることになった切欠を作ったのは、紛れもなく自分だ。アバランチと共謀し、父を引きずり下ろそうとした計画に、彼女を巻き込んだ。それを知っていながら、止めるどころか「何があっても着いてくるか」と問うたのも、自分だ。

結果、彼女は社長の前で首を縦に振り、社長秘書の申し出を断り、コスタへの軟禁を強いられた。

(怒って当然だ)

感情の軽い女なら、さっさと自分を切り捨ててくれていたほうが楽だったかもしれない。だが、みみはそういう女ではない。誇りを捨てない代わりに、自分の首を絞める選択を平気でする。

長期出張を終えてすぐに会いに行けば、彼女がまだ自分の傍に戻るつもりでいてくれるのか確認できるだろう。それを理解していても、胸の奥には妙な不安が渦巻いていた。

何年もの間、この仕打ちを受ける切欠を作った男を想い続けるほど、彼女は愚かではないのではないか——そんな考えが、どうしても頭をよぎる。

(さすがに愛想を尽かされているほうが、現実的だ)

そう結論づけてしまえば、期待も同時に殺せる。理屈としては正しい。だが、理屈をいくら積み上げても、不安は勝手に膨らみ続けた。

自分は、まだ彼女に「会いたい」と思う資格があるのか。

飛空艇がコスタ・デル・ソルの空港に降り立つ頃には、その問いが胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。

---

ヴィラは、高台の斜面の途中にひっそりと佇んでいた。

白い外壁に、テラコッタ色の屋根。窓枠は深いブラウンで、玄関脇には神羅のロゴも名前もない。一般客の目に触れることのない、特別な保養施設。

車から降りたルーファウスは、短く息を吸った。潮の匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。

「こちらです、副社長」

案内役の社員が玄関の前で立ち止まる。鍵は、既に事前に開けられているのだろう——ドアノブを軽く回すと、あっさりと扉が開いた。

「みみは?」

思わず口をついて出た問いに、社員は少しだけ視線を泳がせる。

「先ほど、医師の指示で散歩に出られました。健康維持のため、決められた範囲での外出が許可されております」

「……そうですか」

(散歩)

その単語に、妙な安堵と胸の痛みが同時に湧く。少なくとも、寝込んでいるわけではない。外を歩けるだけの健康は保っている。それだけでも、どれほど救われることか。

「私はここで待ちます。君は戻って構わない」

「畏まりました。何かご入り用がありましたら、備え付けの電話から——」

社員の言葉を最後まで聞かず、ルーファウスは軽く頷いた。

玄関の扉が閉まり、ヴィラの中が静かになる。

一歩、足を踏み入れる。

空気が違った。

船や飛空艇のような無機質な空気とも、タークス本部の地下の重たい空気とも違う。ここには、人の生活の温度がほんのりと残っていた。

リビングに進むと、ソファとローテーブルが目に入る。テーブルの上には、読みかけの本と、裏返されたマグカップ用のコースターが置かれている。キッチンには、洗って乾かしたばかりの皿が伏せられ、シンクの端には布巾が整然と掛けられていた。

(彼女らしい)

無意識にそう思う。派手さはないが、不自然な乱れもない。何もない場所でも、自分の居場所を「整える」癖は、ここでも変わっていないのだろう。

窓の外から、風の音と海の匂いが流れ込んでくる。バルコニーのガラス戸は施錠されておらず、わずかに開いていた。高台だから侵入者の心配は薄いにせよ、人間の習性として不用心に思えてしまう。

「鍵ぐらい、きちんと……」

小さく顔を顰め、ルーファウスはため息をひとつ落とした。指先でそっとガラス戸を閉め、鍵を回す。こういうところは、どれだけ時間が経っても変わらないらしい。

視線を室内に戻すと、デスクがひとつ、窓際に置かれているのが見えた。

シンプルな木製の机。その上には、万年筆とインクボトルと、数冊のノートがきちんと重ねられている。窓際にあるせいか、さきほどの風で、ノートの上部のページが少しだけめくれ上がっていた。

ルーファウスは、その机の前に立った。

(……ノート)

表紙には、何のラベルも貼られていない。濃いグリーンや紺の布張りで、手触りが良さそうだ。どのノートも、使い込まれた気配を纏っている。角は少し丸くなり、ところどころにインクの色が染み出している部分も見えた。

ふと、風でめくれたページの端に、見慣れた二文字が目に入った。

——副社長

一瞬、心臓が跳ねた。

視線を逸らそうとしたが、指先は勝手に動いた。ノートの端をつまみ、そっとページをめくる。

そこには、小さな字でびっしりと、文字が並んでいた。

日付。天気。食事の内容。今日走った距離。読んだ本のタイトル。管理担当者との短い会話。夕焼けの色。波の高さ。

そして、その合間に——。

「——今日もあなたからの連絡はありませんでした」

「副社長、今どこで何をしていらっしゃるのでしょう」

「危険だから来るなと仰ったときの顔を思い出します。私も同じことを、あのとき言ったのに。勝手なものですね」

乾いた喉の奥に、何かが引っかかった。

ページを一枚めくる。そこにも、同じように日々の記録と共に、彼への言葉が綴られている。

「今日はランニングをしました。息が切れるまで走ると、余計なことを考えないで済みます。でも、走り終わると、やっぱりあなたのことを考えてしまいました」

「副社長なら、タークス本部で訓練をなさっているでしょうか。レノさんやルードさんにしごかれて、珍しく筋肉痛になっていたらいいな、とか……失礼ですね」

思わず、苦笑が漏れそうになる。自身の現状を言い当てられたようで、妙な気分になる。

目線だけで、次々と文字を追ってしまう。

このノートは、一冊だけではなかった。横に積まれた同じサイズのノートが、何冊もある。ざっと見る限り、数年分の密度を孕んでいることは間違いなかった。

(全部、ここで書いたのか)

自分が窓のない地下で資料を読み漁り、汗まみれで訓練をしていたのと、同じ時間。

彼女は、海の見えるこの部屋で、毎日ノートを開き、ペンを動かしていた。

ルーファウスは、一瞬だけノートを閉じようとした。

これは、みみの「内側」だ。誰のためでもなく、彼女自身だけのために書いた記録と想い。覗き見るのは正しくない。今ここで蓋を閉じ、何も見なかったふりをして彼女を迎えれば——少なくとも、自分の良心は保たれる。

そう理性的に理解しているのに、指先はそのとおりに動かなかった。

ページの端を、無意識にめくってしまった。

別の日付。別の季節。別の想い。

「——今日は、あなたの夢を見ました」

「相変わらず眠れていない顔をしていました。夢の中のあなたに向かって、『ちゃんと眠ってください』と怒鳴ってしまいました。起きてから、恥ずかしくて枕に顔を埋めました」

「もし、いつか本当にお会いできたら、まずは『眠れていますか』とお伺いすると思います。きっとあなたは、『君も私の心配ばかりしているな』と呆れるでしょう」

文面だけで、彼女の表情が脳裏に浮かぶ。怒っているのに泣きそうな目。呆れながらも嬉しそうな笑み。その全てが、あまりにも鮮明だった。

もう一枚——と、指先がまた紙を送る。

気づけば、ノートの終わりに近いページに辿り着いていた。インクの色が少し濃く、筆跡に迷いの跡が滲んでいる。

「——今日は、ひとつだけ、はっきりと自覚したことがあります」

「副社長への想いは、恋と呼ぶにはあまりにも重くて、長くて、深すぎるのだということです」

「恋と言ってしまえば、いつか『いい思い出』にできるかもしれない。そうやって自分を誤魔化すこともできるかもしれない。でも、数年経っても薄れるどころか増していくこの感情を、思い出として棚にしまえる気は、正直まったくしません」

行間が少し広い。ペン先が何度も止まっては進んだことが、字のかすかな歪みから伝わってくる。

その先を読む前に、ルーファウスは僅かに呼吸を整えた。胸の奥で、何かが予感めいた形でうごめく。

「だから——」

「だから、ここに書きます」

「副社長、私はあなたを愛してしまっています」

その一文を見た瞬間、時間が止まったように感じた。

紙の上のインクが、少しだけ滲んでいる。書いている最中に、涙が落ちたのだろうか。それとも、手が震えたのだろうか。文字は丁寧で、急いで書いたものではない。むしろ、一画一画を刻むように書かれている。

「……」

喉の奥から、ゆっくりと息が抜けていく。肩が、知らず知らずのうちに強張っていたことに気づく。

愛している——ではない。「愛しています」でもない。「愛してしまっています」。

「しまう」という余計な二文字が含んでいるものの重さを、ルーファウスは嫌というほど理解していた。意図せず、想定外に、どうしようもなく、そうなってしまった、という告白。

自分で招いた軟禁。自分がいない間の孤独。情報を遮断されたまま生きる時間。その全ての中で、なお彼女は「勝手に」自分を愛してしまったのだと、そう書いている。

(……勝手なんかじゃない)

胸の奥で、誰に向けるでもない反論が生まれた。

これは、自分が強いた結果だ。自分が選び、彼女も選び、ふたりで歩んで来た果てに、彼女が自分の中に見つけた言葉だ。それを「勝手」などとは、とても言えない。

ページの端に、追記のような一文がある。

「——この感情を、なかったことにはしません」

「たとえあなたにとって迷惑でも、重すぎても、私の中ではもう変えられません」

インクの色が、最後の部分だけわずかに濃い。書き直そうとしてペン先を重ねたのかもしれない。消そうとして、結局消さなかったのかもしれない。

ルーファウスはそっとノートを閉じた。

デスクの上で、ノートの表紙の布地が指先に触れる。その感触が、妙に鮮やかに指先の神経を刺激する。

数年分のノート。どれも同じような重みを持っている。その中身の全部を読むことはしなかった。読もうと思えば、いくらでも時間をかけて読み漁ることもできるだろう。彼女の生活も、涙も、笑いも、全て紙の上に残っている。

だが——それをすると、自分が取り返しのつかない場所まで踏み込んでしまう気がした。

今目にした数ページだけで、十分すぎるほどの重さが胸にのしかかっている。その重さは、罪悪感と幸福感と、どうしようもない愛おしさの奇妙な混合物だった。

(怒っているどころか)

彼女は、自分を愛していると言葉にしてしまうほど、ここで自分を想い続けていた。

それは、狂気じみていると言ってもいいし、愚かだと言ってもいい。だが同時に、これ以上ないほどの忠誠であり、救いでもあった。

視界が、わずかに滲む。涙ではない、と自分に言い聞かせながら、ルーファウスは目を閉じた。

「……君は、本当に」

低い声が、リビングの静けさに紛れて消える。

「俺の想像を、軽々と越えていく」

彼女が愛してしまった男は、果たしてその期待に応えるに足る人間なのか。

コスタに来るまで胸にあった「愛想を尽かされていたほうが楽だ」という卑怯な逃げ場は、紙の上の数行によって無残に閉ざされた。もう、逃げられない。

バルコニーの外から、風がまた吹き込んでくる。さきほど閉めたはずのガラス戸の隙間から、どこか懐かしい匂いが混じった潮風が入り込んだ気がした。

いや、それは——。

玄関方向から、かすかな足音が聞こえた。

砂を踏む音。階段を上る靴の音。金属製のドアノブに触れる、わずかな金属音。

ルーファウスは、デスクの上のノートにそっと手を置いたまま、顔を上げた。

心臓が、先ほどまでとは違うリズムで鳴り始める。地下の訓練室でも、タークスとの実戦まがいの殴り合いの最中でも感じなかった種類の鼓動だった。

鍵の開いている玄関の扉が、ゆっくりと内側に動く音がする。

長い髪を、海風に揺らしながら——コスタ・デル・ソルで「愛してしまった」と書いた女が、このヴィラに帰ってくる。

ルーファウスは、その気配を正面から受け止める覚悟を固めるように、ゆっくりと立ち上がった。