27
玄関のドアノブに触れた瞬間、みみはいつものように鍵を回そうとして、そこで指を止めた。
回す感触がない。すでに解錠されている。
(……あれ?)
外出する前に鍵を閉めた覚えは、確かにある。健康維持のために許可された散歩は、決められた範囲を歩くだけの短いものだが、それでも出かけるたびに戸締まりだけは念入りに確認していた。ここが保養施設で、外部からの侵入はほとんど考えにくいと分かっていても、習慣になっていた。
胸に小さな違和感を抱えたまま、彼女はそっと扉を押し開けた。
ひんやりとした室内の空気が、日中の熱を含んだ外気と入れ替わる。潮の匂いと、木の匂いと、いつもならそこに混じるはずの、自分自身の生活の匂い。
靴を脱ごうとして、玄関の土間に並んだ見慣れないものに気付いた。
黒い革靴。
つやのある上質な革。細身でありながら、よく手入れされた靴底。神羅の上層にいる男たちが履く類のもの。けれど、みみには、それが「よくある誰かの靴」ではなく、ひとりの人物の足元だけを思い出させるものだとすぐに分かった。
(この靴……)
何度もエレベーターフロアで見た。副社長室の前で、自席からそっと視線をやったときにも見た。会議から戻ってくる足音とともに、視界の端に映っていた黒。
喉が一瞬だけ固まる。
どうして——という思いと、本当に——という期待と、まさか——という恐怖が、同時に胸の奥でぶつかり合う。
バッグを玄関に置き、音を立てないように一歩ずつ中に入る。リビングへ続く短い廊下を抜けると、視界が開けた。
そこに、彼がいた。
窓から差し込む西日の光が、リビングのソファの近くに立つ男の輪郭を縁取っている。白いシャツに、ダークスラックス。上着は脱いで、ソファの背に無造作に掛けてある。肩幅が、記憶よりも広い。胴回りも、以前よりわずかに厚みを増している。線の細い貴族的な印象はそのままだが、その下に感じるのは、鍛えられた筋肉の存在だった。
何より目を引いたのは、顔だった。
かつて長めに降りていた前髪が、今はきれいに上げられて額が出ている。整えられた金髪は以前よりも少し短く、無造作でありながら計算されたように流れている。そこにあるのは、若さだけに頼らない落ち着きと、目の奥に刻まれた夜の色。
「……副社長……?」
自分でも驚くほど、声は小さかった。
その呼びかけに、男がゆっくりと振り向く。淡い青の瞳が、光を受けて僅かに揺れる。見慣れたはずの色なのに、何度も夢に見てきたせいか、現実感が追いつくまでに少し時間がかかった。
「みみ」
たった一言、自分の名前を呼ばれただけで、足元がふらつく。
夢にしては、光がまぶしすぎる。音も匂いも、肌に触れる空気も、あまりに生々しい。いつものように目を覚ませばベッドの上、という現実には繋がらない種類の感覚だと、頭のどこかで理解する。
「……ほんとうに……」
言葉が続かない。何から問えばいいのか分からない。どうしてここにいるのか。いつミッドガルを出たのか。どこまで自由なのか。生きていたのか——そんな問いが一気に押し寄せて、喉で絡まる。
代わりに、彼のほうが先に口を開いた。
「ただいま、というべきなのかもしれないが」
少しだけ自嘲を含んだ声だった。
「……驚かせたな」
みみは、かすかに首を振った。驚きだけではない。胸の奥で何かが溶け出しそうになっている。安堵と混乱と、何年分もの「会いたかった」が、全部一度に溢れかけている。
「どうして……」
ようやく絞り出した問いは、あまりにも小さくて、こちらが拍子抜けするほどだった。
ルーファウスは一歩、彼女のほうへ近づき——そこで足を止める。距離はまだ、数歩分あった。彼のほうも、どこまで踏み込んでいいのか測りかねているようだった。
「ここに君がいると知ったからだ」
淡々とした言い方だったが、その奥にある焦燥を、みみは感じ取る。
「長期出張の名目で鎖につながれている間、君の居場所は伏せられていた。ようやく解かれてすぐに、私はそれを確認した」
彼は一度視線を逸らし、近くのデスクにちらりと目をやった。みみの視線もそれを追い——そこで、胸の内側がさらに冷たくなる。
デスクの上。さっきまで閉じていたはずのノートの角度が、微妙に違っている。置きっぱなしにして散歩に出た万年筆が、位置を変えている。ページを閉じた紙の端に、乾いたインクの匂いが残っている。
「……もしかして」
喉が勝手に動く。
「日記を……?」
ルーファウスは、わずかに眉をひそめ、それから正面から彼女を見た。
「……ああ。風でページがめくれていてな」
言い訳めいた言葉を並べることはしなかった。彼らしくないくらい、率直だった。
「『副社長』という文字が目に入って——好奇心に負けた」
短く息を吐く。
「勝手に読んだ。許されないことをした」
みみの心臓が、一段と強く脈打つ。顔の血の気が、さっと引いていくのが自分でも分かった。
何年分もの生活と、何年分もの想い。そのすべてを誰にも見せずにここに積み上げてきた。そこには、彼への愚痴も、弱音も、祈りも、あろうことか「愛してしまっています」という一文までもが含まれている。
それを——彼が。
「……全部……?」
かろうじてそう問うと、ルーファウスはわずかに首を振る。
「全部ではない。数ページだけだ」
胸の奥で、ほんの少しだけ安堵が揺れる。だが、それもすぐに打ち消される。
(数ページでも、十分すぎる)
あの一文を含んだページを読まれていたとしたら。自分で自分の首に「愛」という縄をかけた文字列を、本人に見られていたとしたら——考えただけで、足元がぐらりと揺れそうになる。
みみは視線を落とした。喉が焼けるように熱い。言葉を選ぼうとしても、全部空回りする。
ルーファウスは、彼女の沈黙を責めることなく続けた。
「……君に対して、最初にしなければならないのは、謝罪なのだろう」
ゆっくりとした口調だった。
「日記を盗み見たことも。君をこの仕打ちに巻き込んだことも。社長の前にひとり立たせ、あの男の言葉を受けさせたことも」
みみの肩が、わずかに震える。社長室の空気が、一瞬鼻の奥に蘇った。
「本来なら、謝るだけで済む話ではない。私は君に、あまりにも多くの負債を作った」
一歩、彼が近づく。距離がわずかに縮まる。
「それでも——私は、ひとつだけ謝らないと決めたことがある」
みみは顔を上げた。ルーファウスの瞳が、真っ直ぐに彼女を捉える。
「君の想いを読んでおきながら、自分の想いを曖昧にしたままでいることだ」
その言葉が、ゆっくりと胸の中に落ちていく。
「君の日記を読んだのは、不誠実だ。君の知らないところで、君の内側を覗いた。そのこと自体は——本当にすまないと思っている」
たどたどしさはない。ただ、いつもの彼よりも少しだけ生々しい。
「だが、君があれほどまでに想いを綴っていたという事実を、見てしまった以上。『何も知らなかった顔』をして距離を取るのは、もっと不誠実だと思った」
彼はゆっくりと言葉を継いだ。
「君が、私を愛してしまったと書いていた。その言葉を、知らないふりをして、ただ雇い主と秘書の距離に戻ろうとするのは——君に対しても、私自身に対しても裏切りになる」
みみの息が、そこで止まる。
(読まれている……本当に、あの一文まで)
耳の奥がじんじんと熱くなる。恥ずかしさと恐怖と、どうしようもない安堵が、全部混ざって押し寄せてきた。
「そ、れは……」
声にならない。顔を両手で覆いたくなる衝動を、必死で堪える。ここで視線を逸らしてしまったら、もう二度と彼の目を見られない気がした。
ルーファウスは、彼女の反応を静かに受け止めていた。
「君は、自分にだけは嘘をつかない女だ」
淡い青の瞳が、少しだけ細められる。
「その君が、自分のノートに『愛してしまっています』と書いた。その重さを知りながら、それを見て何も言わないのは、あまりにも卑怯だ」
彼は一度、言葉を切った。深く息を吸い、吐く。
「だから——私は、君の想いを踏みにじらないためにも、自分のほうも曖昧にするのをやめようと思う」
みみは、ほんの少し唇を震わせた。
「……曖昧に、していたんですか」
やっと出た言葉は、それだった。彼が自分に向けていた感情を、ずっと測りかねていた。仕事上の信頼なのか、情なのか、欲なのか、その全部なのか。どの名前を付けても、どこかでしっくり来なかった。
「していた」
ルーファウスはあっさりと認める。
「君を秘書として誰よりも信頼しながら、『それ以上』の言葉を自分に許さないようにしていた。君が私に抱いているのは憧れや忠誠だと、自分に言い聞かせていた」
「そうであれば、楽だったからだ」
自嘲の笑みが、口元に浮かぶ。
「だが本当は、あの夜——君を引き止めてキスをした頃から、曖昧にしておくことなど、とうに出来なくなっていたのだと思う」
みみの喉が、きゅっと締め付けられる。あの夜の感触が、一気に蘇る。ガラス扉の前。唇の温度。彼の「すまない」という声。
「それでも私は、君が距離を保とうとするのを、都合よく見て見ぬふりをしていた。仕事の隙間の雑談で、少しずつ境界を揺らしながら、決して最後の一言だけは言わないようにしていた」
淡い青の目が、まっすぐに刺さる。
「それが、どれほど卑怯なことかは、君の日記を読んでようやく自覚した」
ルーファウスは一歩、さらに近づく。もう手を伸ばせば届く距離だった。彼はそれでもまだ、触れなかった。
「君があれほどの言葉を書いたのだから——今度は私が、自分の言葉で君に答える番だ」
みみは胸の前で指を握り締めた。恐ろしくて、逃げ出したくて、それでも一言も聞き漏らしたくない。
リビングには、波の音と、ふたりの呼吸の音しかない。
ルーファウスはほんの少しだけ視線を落とし、それからもう一度彼女を見た。
「みみ」
呼びかける声が、以前より少し低く、重く響いた。
「君が私を愛してしまったというのなら——」
喉の奥で、言葉がひとつだけ震えた。
「私はとうの昔に、君を愛してしまっていたのだと、ここで認めよう」
その一言は、日記のどの一文よりも、まっすぐに彼女の胸に突き刺さった。
回す感触がない。すでに解錠されている。
(……あれ?)
外出する前に鍵を閉めた覚えは、確かにある。健康維持のために許可された散歩は、決められた範囲を歩くだけの短いものだが、それでも出かけるたびに戸締まりだけは念入りに確認していた。ここが保養施設で、外部からの侵入はほとんど考えにくいと分かっていても、習慣になっていた。
胸に小さな違和感を抱えたまま、彼女はそっと扉を押し開けた。
ひんやりとした室内の空気が、日中の熱を含んだ外気と入れ替わる。潮の匂いと、木の匂いと、いつもならそこに混じるはずの、自分自身の生活の匂い。
靴を脱ごうとして、玄関の土間に並んだ見慣れないものに気付いた。
黒い革靴。
つやのある上質な革。細身でありながら、よく手入れされた靴底。神羅の上層にいる男たちが履く類のもの。けれど、みみには、それが「よくある誰かの靴」ではなく、ひとりの人物の足元だけを思い出させるものだとすぐに分かった。
(この靴……)
何度もエレベーターフロアで見た。副社長室の前で、自席からそっと視線をやったときにも見た。会議から戻ってくる足音とともに、視界の端に映っていた黒。
喉が一瞬だけ固まる。
どうして——という思いと、本当に——という期待と、まさか——という恐怖が、同時に胸の奥でぶつかり合う。
バッグを玄関に置き、音を立てないように一歩ずつ中に入る。リビングへ続く短い廊下を抜けると、視界が開けた。
そこに、彼がいた。
窓から差し込む西日の光が、リビングのソファの近くに立つ男の輪郭を縁取っている。白いシャツに、ダークスラックス。上着は脱いで、ソファの背に無造作に掛けてある。肩幅が、記憶よりも広い。胴回りも、以前よりわずかに厚みを増している。線の細い貴族的な印象はそのままだが、その下に感じるのは、鍛えられた筋肉の存在だった。
何より目を引いたのは、顔だった。
かつて長めに降りていた前髪が、今はきれいに上げられて額が出ている。整えられた金髪は以前よりも少し短く、無造作でありながら計算されたように流れている。そこにあるのは、若さだけに頼らない落ち着きと、目の奥に刻まれた夜の色。
「……副社長……?」
自分でも驚くほど、声は小さかった。
その呼びかけに、男がゆっくりと振り向く。淡い青の瞳が、光を受けて僅かに揺れる。見慣れたはずの色なのに、何度も夢に見てきたせいか、現実感が追いつくまでに少し時間がかかった。
「みみ」
たった一言、自分の名前を呼ばれただけで、足元がふらつく。
夢にしては、光がまぶしすぎる。音も匂いも、肌に触れる空気も、あまりに生々しい。いつものように目を覚ませばベッドの上、という現実には繋がらない種類の感覚だと、頭のどこかで理解する。
「……ほんとうに……」
言葉が続かない。何から問えばいいのか分からない。どうしてここにいるのか。いつミッドガルを出たのか。どこまで自由なのか。生きていたのか——そんな問いが一気に押し寄せて、喉で絡まる。
代わりに、彼のほうが先に口を開いた。
「ただいま、というべきなのかもしれないが」
少しだけ自嘲を含んだ声だった。
「……驚かせたな」
みみは、かすかに首を振った。驚きだけではない。胸の奥で何かが溶け出しそうになっている。安堵と混乱と、何年分もの「会いたかった」が、全部一度に溢れかけている。
「どうして……」
ようやく絞り出した問いは、あまりにも小さくて、こちらが拍子抜けするほどだった。
ルーファウスは一歩、彼女のほうへ近づき——そこで足を止める。距離はまだ、数歩分あった。彼のほうも、どこまで踏み込んでいいのか測りかねているようだった。
「ここに君がいると知ったからだ」
淡々とした言い方だったが、その奥にある焦燥を、みみは感じ取る。
「長期出張の名目で鎖につながれている間、君の居場所は伏せられていた。ようやく解かれてすぐに、私はそれを確認した」
彼は一度視線を逸らし、近くのデスクにちらりと目をやった。みみの視線もそれを追い——そこで、胸の内側がさらに冷たくなる。
デスクの上。さっきまで閉じていたはずのノートの角度が、微妙に違っている。置きっぱなしにして散歩に出た万年筆が、位置を変えている。ページを閉じた紙の端に、乾いたインクの匂いが残っている。
「……もしかして」
喉が勝手に動く。
「日記を……?」
ルーファウスは、わずかに眉をひそめ、それから正面から彼女を見た。
「……ああ。風でページがめくれていてな」
言い訳めいた言葉を並べることはしなかった。彼らしくないくらい、率直だった。
「『副社長』という文字が目に入って——好奇心に負けた」
短く息を吐く。
「勝手に読んだ。許されないことをした」
みみの心臓が、一段と強く脈打つ。顔の血の気が、さっと引いていくのが自分でも分かった。
何年分もの生活と、何年分もの想い。そのすべてを誰にも見せずにここに積み上げてきた。そこには、彼への愚痴も、弱音も、祈りも、あろうことか「愛してしまっています」という一文までもが含まれている。
それを——彼が。
「……全部……?」
かろうじてそう問うと、ルーファウスはわずかに首を振る。
「全部ではない。数ページだけだ」
胸の奥で、ほんの少しだけ安堵が揺れる。だが、それもすぐに打ち消される。
(数ページでも、十分すぎる)
あの一文を含んだページを読まれていたとしたら。自分で自分の首に「愛」という縄をかけた文字列を、本人に見られていたとしたら——考えただけで、足元がぐらりと揺れそうになる。
みみは視線を落とした。喉が焼けるように熱い。言葉を選ぼうとしても、全部空回りする。
ルーファウスは、彼女の沈黙を責めることなく続けた。
「……君に対して、最初にしなければならないのは、謝罪なのだろう」
ゆっくりとした口調だった。
「日記を盗み見たことも。君をこの仕打ちに巻き込んだことも。社長の前にひとり立たせ、あの男の言葉を受けさせたことも」
みみの肩が、わずかに震える。社長室の空気が、一瞬鼻の奥に蘇った。
「本来なら、謝るだけで済む話ではない。私は君に、あまりにも多くの負債を作った」
一歩、彼が近づく。距離がわずかに縮まる。
「それでも——私は、ひとつだけ謝らないと決めたことがある」
みみは顔を上げた。ルーファウスの瞳が、真っ直ぐに彼女を捉える。
「君の想いを読んでおきながら、自分の想いを曖昧にしたままでいることだ」
その言葉が、ゆっくりと胸の中に落ちていく。
「君の日記を読んだのは、不誠実だ。君の知らないところで、君の内側を覗いた。そのこと自体は——本当にすまないと思っている」
たどたどしさはない。ただ、いつもの彼よりも少しだけ生々しい。
「だが、君があれほどまでに想いを綴っていたという事実を、見てしまった以上。『何も知らなかった顔』をして距離を取るのは、もっと不誠実だと思った」
彼はゆっくりと言葉を継いだ。
「君が、私を愛してしまったと書いていた。その言葉を、知らないふりをして、ただ雇い主と秘書の距離に戻ろうとするのは——君に対しても、私自身に対しても裏切りになる」
みみの息が、そこで止まる。
(読まれている……本当に、あの一文まで)
耳の奥がじんじんと熱くなる。恥ずかしさと恐怖と、どうしようもない安堵が、全部混ざって押し寄せてきた。
「そ、れは……」
声にならない。顔を両手で覆いたくなる衝動を、必死で堪える。ここで視線を逸らしてしまったら、もう二度と彼の目を見られない気がした。
ルーファウスは、彼女の反応を静かに受け止めていた。
「君は、自分にだけは嘘をつかない女だ」
淡い青の瞳が、少しだけ細められる。
「その君が、自分のノートに『愛してしまっています』と書いた。その重さを知りながら、それを見て何も言わないのは、あまりにも卑怯だ」
彼は一度、言葉を切った。深く息を吸い、吐く。
「だから——私は、君の想いを踏みにじらないためにも、自分のほうも曖昧にするのをやめようと思う」
みみは、ほんの少し唇を震わせた。
「……曖昧に、していたんですか」
やっと出た言葉は、それだった。彼が自分に向けていた感情を、ずっと測りかねていた。仕事上の信頼なのか、情なのか、欲なのか、その全部なのか。どの名前を付けても、どこかでしっくり来なかった。
「していた」
ルーファウスはあっさりと認める。
「君を秘書として誰よりも信頼しながら、『それ以上』の言葉を自分に許さないようにしていた。君が私に抱いているのは憧れや忠誠だと、自分に言い聞かせていた」
「そうであれば、楽だったからだ」
自嘲の笑みが、口元に浮かぶ。
「だが本当は、あの夜——君を引き止めてキスをした頃から、曖昧にしておくことなど、とうに出来なくなっていたのだと思う」
みみの喉が、きゅっと締め付けられる。あの夜の感触が、一気に蘇る。ガラス扉の前。唇の温度。彼の「すまない」という声。
「それでも私は、君が距離を保とうとするのを、都合よく見て見ぬふりをしていた。仕事の隙間の雑談で、少しずつ境界を揺らしながら、決して最後の一言だけは言わないようにしていた」
淡い青の目が、まっすぐに刺さる。
「それが、どれほど卑怯なことかは、君の日記を読んでようやく自覚した」
ルーファウスは一歩、さらに近づく。もう手を伸ばせば届く距離だった。彼はそれでもまだ、触れなかった。
「君があれほどの言葉を書いたのだから——今度は私が、自分の言葉で君に答える番だ」
みみは胸の前で指を握り締めた。恐ろしくて、逃げ出したくて、それでも一言も聞き漏らしたくない。
リビングには、波の音と、ふたりの呼吸の音しかない。
ルーファウスはほんの少しだけ視線を落とし、それからもう一度彼女を見た。
「みみ」
呼びかける声が、以前より少し低く、重く響いた。
「君が私を愛してしまったというのなら——」
喉の奥で、言葉がひとつだけ震えた。
「私はとうの昔に、君を愛してしまっていたのだと、ここで認めよう」
その一言は、日記のどの一文よりも、まっすぐに彼女の胸に突き刺さった。