言葉が落ちた瞬間、みみの世界から音が消えた。

「……」

自分の胸の内側で、さっきまで暴れていた心臓の音だけがやけに大きく響く。ルーファウスの唇が「愛してしまっていた」と確かに動いたのを見ているのに、意味だけが頭に追いついてこない。

「ちょ、っと……待って……ください」

ようやく絞り出した声は、震えていた。足元が頼りなくて、一歩も動けない。手だけが勝手に胸元の布を掴んでいる。

「私……」

何を言えばいいのか分からない。謝るべきなのか、笑うべきなのか、泣くべきなのか。数年分の「もし会えたらこう言おう」が山ほど日記に並んでいるはずなのに、そのどれひとつとして口から出てこない。

「愛してしまっていた…って、それは……」

問いかけの途中で、言葉が途切れる。

ルーファウスは一度目を伏せ、小さく息を吐いた。まつ毛の影が頬に落ちる。その仕草のどれもが懐かしくて、同時に、見たことのない重さをまとっている。

「君がここに来る前からだ」

静かな声だった。

「君を秘書にスカウトした夜、カウンター越しの君を面白い女だと思った。仕事を任せるたびに、予想以上の結果を出す君に惹かれていった。ミスをしても、誰かのせいにせず、必ず自分で立て直そうとするところも」

ひとつひとつ、指折り数えるように言葉が続く。

「給湯室の前で噂話を聞いていたとき、君を見せつけるように業務の話を振った自分を、『みっともない』と自覚していた。あれは、ただの上司の庇い方ではなかった」

みみの胸に、その日の光景が鮮明に甦る。廊下の空気、給湯室から漏れていた声、彼の前に立ったときの緊張。

「残業中に君がふらついたとき、支えた腕の中で『離したくない』と思った。あそこでタクシーを呼んで君を帰したのは、理性の残骸だ」

淡々とした言い方なのに、その奥にある熱が隠しきれていない。

「そして——あの日」

彼の視線が、彼女の唇のあたりでほんの少し止まる。ガラス扉の前、衝動的に奪ったキス。あの一瞬に詰まっていたものを思い出させる。

「君を食事に行かせたくないと、初めて露骨に思った。権利がないと分かっていても、身体が勝手に動いた」

ルーファウスは苦い笑みを浮かべた。

「そのどれもを、自分の中で『上手くやれる秘書を手放したくないだけだ』『希少な人材に執着しているだけだ』と理由を付け替えてきた。そうしておけば、君を巻き込んだ責任も、少しは軽くなると思っていたのかもしれない」

「……そんなこと」

みみは思わず首を横に振った。彼が自分の感情を「責任」と同じ皿に載せていることが、苦しくてたまらない。

「でも、その言い訳はもう通用しない」

ルーファウスの目がまっすぐ彼女に向く。青い光の中に、覚悟の影が差していた。

「君が日記で『愛してしまっています』と書いたのを見て、ようやく自分のしてきたことの卑怯さに向き合えた。君はたったひとりで、ここでその言葉を選んだ。私は、君の隣にいながら、そのどの言葉も選ばずに逃げていた」

みみの喉から、小さく息が漏れる。

「……逃げてなんて……」

「逃げていた」

彼はそれを重ねる。

「父に逆らうことも、神羅の在り方を変えることも、君を守ることも——全部を一度にやろうとして、結局どれも中途半端になった。その結果が、君の軟禁だ」

その言葉に、みみの肩がびくりと跳ねた。

「だからこそ」

ルーファウスはゆっくりと彼女との距離を詰める。もう、手を伸ばせば簡単に触れられる位置だ。それでも、彼はぎりぎりのところで止まって、問いかけるように目を細めた。

「今ここで君に『愛している』と告げるのは、許されないことか?」

みみは、そこで初めて顔を上げた。

「……許されないなんて」

声が震える。涙が今にも溢れそうになるのを、力いっぱい睫毛で支える。

「そんなこと……言えるわけないじゃないですか」

息を吸い込むたび、胸が痛い。何年も日記に書き続けてきた言葉だ。「どうか生きていてください」「会いたいです」「あなたが眠れていますように」。けれど、そのどれとも違う重さの一言が、目の前にある。

「私、ここで……勝手に、愛してしまったんです」

自分で書いた文を、そのまま口に出しているのだと気づいた瞬間、顔が熱くなる。それでも、止まらない。

「あなたがどこにいるかも分からなくて、生きてるのかどうかも分からなくて、それでも毎日『好きです』『会いたいです』って日記に書いて……」

喉が詰まり、そこで言葉が途切れる。唇を震わせながら、なんとか続ける。

「そんな私に、今さら『愛している』なんて言っていただけるなんて……」

俯いたまま、ぎゅっと拳を握りしめる。

「嬉しいに決まってるじゃないですか」

最後の一言だけは、涙に滲みながらもはっきりと出た。

ルーファウスの表情が、そこでふっと緩む。安堵とも、自嘲ともつかない微妙な笑み。

「そう言ってもらえる資格が、まだ私に残っているのなら——」

彼はそっと手を伸ばした。指先が、みみの頬に触れる寸前で止まる。

「触れても、いいか」

その問いかけに、みみは一瞬だけ目を閉じた。そして、ほんの少しだけ顎を上げて、頬を彼の手に預けるように動かした。

「……はい」

その返事を聞いた途端、ルーファウスの指がそっと彼女の頬に触れた。かつてよりも固く、しかし確かな温度を持った指先。体を鍛えたせいか、手のひらには以前よりも厚みがある。それでも、触れ方だけは変わっていなかった。乱暴に掴むのではなく、壊れ物を扱うように慎重に。

「痩せたな」

呟きのような声。

「いえ、むしろ……」

みみは苦笑する。

「コスタに来たばかりの頃より、少し丸くなったかもしれません。ここの料理が美味しくて」

「そうか」

小さく笑い声が漏れる。その笑いに、ひどく救われる。

彼の手が、頬から耳の後ろへとすべり、伸びた髪の束を一筋すくい上げた。

「……髪」

ルーファウスの指に絡んだカシスブラウンの髪が、光を受けて揺れる。

「短くしたと、日記に書いてあったな」

みみの心臓が、そこでまた跳ねる。

「やっぱり……そこも……」

「ああ」

彼は正直に頷く。

「『贅沢な牢屋』で、ミッドガルから離れるために、決意を込めて切ったと書いてあった」

「元の長さまで完全に戻ってはいないが——」

彼は髪の束を指先で軽く撫でる。

「こうして見ると、どちらの君も捨てがたい」

「も、う……やめてください……」

恥ずかしすぎて、思わず抗議の声が漏れる。頬が火照って、彼の手のひらの温度と混ざり合う。

ルーファウスは、くすりと笑った。数年分の重さを背負った笑みなのに、その端に浮かぶ柔らかさは、昔バーのカウンターで見たそれと同じだった。

「君の日記を読んだことは、何度謝っても足りない」

そう言って、彼はゆっくりと手を離した。

「だが——あれを読まずにいたら、私はきっとまた『曖昧なまま』に君に会いに来ていただろう。君に『お疲れ様』と言い、『戻ってきてくれ』と言い、何も告げずにまた危険な場所へ行ったはずだ」

みみは、ぎゅっと唇を噛む。想像できてしまうからこそ、何も言えない。あの頃の彼なら、確かにそうだった。

「君にとって、それは優しさではない」

ルーファウスの声が、少しだけ低くなる。

「だからこそ、自分の想いを曖昧なままにしておくのは、やめる」

言葉を区切るたびに、胸の奥で何かが整っていくようだった。

「君がここで一人で戦ってきた時間を、私の『沈黙』で汚したくない」

その言葉が、何よりも重く響いた。

みみは、息を飲む。

「……私」

喉の奥で、言葉がもつれる。

「日記を……読まれたのは、正直、恥ずかしいです」

これは、どうしようもなく本音だった。

「副社長への愚痴も、たくさん書きましたし……」

「知っている」

ルーファウスは即答した。

「『もっと寝てください』『無茶をしないでください』『危ないところにひとりで行かないでください』——そのどれもが、痛いくらいに正論だ」

みみは思わず目を丸くする。そこまで読まれたのかと狼狽える一方で、その一行一行を彼が覚えていることが、たまらなく嬉しい。

「ラブレターみたいになってしまったページも、破らずに残しておいたと書いてあった」

少しだけ、口元が緩む。

「君が自分の感情から逃げずに、紙の上に残してくれたから、私は今ここで同じだけの言葉を返せる」

何かを決意するように、ルーファウスは一歩近づいた。

今度は、本当に距離がなくなる。彼の体温と香りが、はっきりと届く。訓練で変わった身体つきのせいか、同じ距離でも以前より包まれる圧が強い。

「みみ」

低く、自分だけのために落とされた声。

「君がそれでも、私の隣に立ちたいと思ってくれるのなら——」

喉の奥で、言葉が震える。

「私はもう、君を『秘書』としてだけ扱うつもりはない」

その宣言に、みみの胸が大きく跳ねた。

「……副社長」

思わず、一歩彼に近づいていた。自分でも驚くほど自然に。

「私は」

数年分の日記の中から、一行を引きずり出す。

「いつか『おかえり』と言える日が来ますように、と書きました」

あの夜、震える手で綴った願い。

「今、言わせてください」

喉が焼けるほど熱い。涙が視界をぼやかす中、彼の顔だけははっきり見えていた。

「おかえりなさい、副社長」

それは、軟禁のヴィラで何度も練習してきた一言だった。けれど、実際に口にしてみると、予想していたどの響きとも違っていた。もっと重くて、もっと甘くて、もっと痛い。

ルーファウスの目が、そこでかすかに揺れた。

「……ああ」

短く、息のような返事。

「ただいま、みみ」

その一言を聞いた瞬間、みみの身体から力が抜けた。長い間張りつめ続けていた何かが、ぷつりと切れる。膝が折れそうになったところを、ルーファウスの腕が支えた。

「っ、ごめんなさい……」

情けない、と自分でも思う。再会の瞬間に崩れ落ちるなんて——。

「謝ることは何もない」

ルーファウスは腕に力を込め、彼女の身体をしっかりと抱き留める。以前よりもたくましくなった腕の中に、彼女の全てが収まる。骨ばっていた肩は厚みを増し、胸板も固くなっている。それなのに、抱きしめられた感触だけは、ずっと変わらない場所に繋がっていた。

耳元で、静かな声が落ちる。

「君がここで泣いてきた分だけ——今は泣いていい」

堰を切ったように、涙が溢れた。

コスタ・デル・ソルの小さなヴィラ。そのリビングの真ん中で、数年分の想いと後悔と安堵が、静かに絡まり合う。

玄関には、彼の見慣れた革靴が並べられている。デスクの上には、風でめくれたノートと、乾きかけたインク。海の向こうでは、陽がゆっくりと沈みかけていた。

——日記の中で何度も繰り返した言葉が、ようやく現実と重なり始める。

副社長、私はあなたを愛してしまっています。

その一行に、彼の「私もだ」がそっと重なり、ふたりだけの秘密のように、ヴィラの空気に溶けていった。