ルーファウスが「ただいま」と言ってからの数日は、嵐の後に訪れる静かな潮の満ち引きみたいだった。

最初の一日は、ただ抱きしめ合って終わった。みみが泣いては笑い、笑ってはまた涙ぐみ、そのたびにルーファウスは「もう大丈夫だ」と耳元で囁きながら、背中をゆっくり撫で続けた。彼自身も本当は、目の奥に刺さるような疲労と、どうしようもない安堵で立っているのがやっとだったが、それを悟られまいとしていた。

翌日から、現実は静かに割り込んでくる。

ルーファウスは、ヴィラのリビングのテーブルにノートPCと端末を並べると、手際よくスケジュールを組み替え始めた。神羅ビルのホログラム画面とは違う、小さな画面に映るカレンダーに、彼の指が淡々と予定を配置していく。

「……本当に、そんなに長く休めるんですか」

キッチンからお茶を持ってきたみみは、信じられないような顔で画面を覗き込んだ。

「長く?」

ルーファウスは、片眉だけをわずかに上げてみせる。

「三か月だ。君からすれば、短いほうだろう?」

「いえ、一般的な会社員から見たら、とても長いです」

「私は一般的ではない」

即答だった。

「それに——」

彼はカレンダーを閉じ、みみに視線を移す。海の光を反射した青の瞳が、ゆっくりと柔らかく細められる。

「ずっと何年も君と離れていたんだ。俺は君との時間を取り戻したい」

さらりと告げられる。

みみの心臓が、ばくん、と一回り大きく跳ねた。

「三か月では、短いくらいだ」

甘い笑みを浮かべてそう続けられてしまえば、否定の余地などどこにもない。頬の内側が熱くなり、手に持っていたティーカップの取っ手をきゅっと握りしめる。

「で、でも……副社長のお仕事が……」

「その言い方から改めたいところだが、仕事については――」

ルーファウスは肩をすくめた。

「必要最低限の決裁と緊急連絡は、リモートで対応する。各部の部長には既に通達した。『副社長は健康上の理由により長期休暇を取る』とな」

「健康上の理由……」

「嘘ではないだろう?」

彼は、ほんの少しだけ自嘲を滲ませる。

「数年ろくに眠らず、地下で資料と訓練ばかりだった男が、海の見える場所で休暇を取る。医師も賛成したよ。『やっと人間らしい判断をされた』とな」

その言い方に、みみは思わず笑ってしまう。確かに彼の目の下には、以前よりも深い影がある。けれど、目元の色は不思議と明るく見えた。

「……私のせいで、仕事が立て込んだりしませんか」

不安はまだ消えない。自分の存在が彼の負担になるのではないかという思考は、長年染みついている。

「君のせいで休むんだ」

ルーファウスはあっさりとそう言った。みみの肩がびくりと震える。

「君と過ごすために、俺は仕事を削っている。それは誰のせいでもない。俺自身の選択だ」

その目は、冗談を挟む余地もなく真剣だった。

「だから、君がそこに負い目を感じる必要はない」

じっと見つめられて、みみは視線を彷徨わせる。逃げ場を探そうとして——結局見つからずに、彼の瞳に戻ってしまう。

「……そんなふうに言われたら、何も言えなくなってしまいます」

「言えなくていい」

ルーファウスは、ようやく少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべた。

「君は三か月、俺に甘やかされる覚悟だけしていればいい」

「か、覚悟……?」

「そうだ」

彼は椅子から立ち上がると、くい、と指先で彼女の手首を軽く引いた。力の加減は驚くほど慎重で、けれど拒む隙も与えない。

「俺は決めた。ここにいる間、君には『仕事』をさせない」

「えっ」

「炊事洗濯、その気になればやるが、基本的には俺がやる。君がやりたいと言ったら、手伝わせてやる」

「た、手伝わせてやる……?」

思わず聞き返してしまう。どちらがどちらを手伝うのか、よく分からない。

「書類仕事もさせない。俺のスケジュール管理もしなくていい。君にしてもらうのは、朝起きて、俺の隣にいて、食べて、笑って、時々泣いて——それだけだ」

あまりに極端な言い分に、思考が一瞬止まる。

「それは……」

「不満か?」

「……贅沢すぎます」

絞り出した答えに、ルーファウスは満足げに目を細めた。

「なら、問題はない」

彼の手が指先から掌へと滑り、しっかりと絡めとるように握られる。手のひらの硬さと体温の差に、みみの指先がじんわりと熱くなっていく。

---

その日から、ヴィラの空気は少しずつ変わった。

朝、みみが目を覚ますと、キッチンからカップ同士が触れ合う小さな音が聞こえることが増えた。寝室のドアをそっと開けると、白いシャツの袖を肘まで捲ったルーファウスが、慣れない手つきでコーヒーを淹れている。

「……副社……」

言いかけて、彼の視線がこちらを向く。その青い目が、じっと彼女を捉える。

「その呼び方はやめろと言ったはずだが?」

穏やかな声なのに、少しだけ拗ねたような色が混じっていた。

「プライベートでは、だ」

「す、すみません。習慣で……」

みみは慌てて頭を下げる。

「じゃあ、その……ルー……」

最後の一音が、どうしても小さくなる。頬が一気に熱くなり、耳までじわじわと火が回るような感覚に襲われる。

ルーファウスの口元が、途端に緩んだ。

「……ああ」

満足そうに目を細める。

「それでいい」

「まだ慣れません……」

「すぐ慣れる」

平然とそんなことを言いながら、彼はマグカップを二つトレイに乗せると、みみに一つ渡した。彼の指がカップ越しにほんの少し触れる。その何気ない触れ方すら、以前の彼なら決して見せなかったものだ。

食事のときも同じだった。みみが気を抜いて「副社長」と呼びかけると、そのたびに「ルーだ」と訂正される。最初は彼の名前を呼ぶたびに胸がどきりと跳ね、言葉の最後が変に上擦った。けれど、一日、二日と過ぎるうちに、少しずつその呼び方が自分の中に馴染んでいく。

「ルー、座っててください。料理くらい私が——」

「座っていると、君の背中しか見えない」

「え?」

振り返ると、カウンター越しに腰を預けて彼女を見ているルーファウスと目が合う。淡い目が、ただ穏やかに笑っているだけなのに、視線の熱は隠しきれていなかった。

「今は、君の手を煩わせるより、君の顔を見ていたい」

そのまっすぐな言葉に、みみは手に持っていたフライ返しを危うく落としそうになる。

「……そんなことばっかり言うようになりましたよね、ルー」

「日記のおかげだな」

「日記のせいで、ですね」

軽口を叩き合いながらも、心のどこかで、あのノートに書いた一文がいつもちらついていた。プライベートでは副社長と呼ぶのをやめろ——という彼の言葉は、「秘書と副社長」という枠の外へ、確実に自分を連れ出そうとしていた。

食事が終わると、ソファで過ごす時間が増えた。テレビは相変わらず娯楽用の番組しか映らないが、それで十分だった。コスタの観光番組を半ばぼんやり眺めながら、ルーファウスは当然のように彼女の隣に座る。

最初のうちは、ソファの端と端。やがて、少しずつ距離が近づく。何日目かには、彼の肩に頭を預けることが自然になっていた。

「重くないですか」

「君を支えられないほど、ひ弱ではない」

返ってくるのは、迷いのない声だ。

彼の腕が、やがてみみの肩をゆっくりと抱き寄せる。その動きに、彼が地下で鍛えた筋肉の確かさが滲む。けれど、力の込め方は限りなく優しい。

「こうしていると、本当に……夢みたいです」

思わず漏れた声に、ルーファウスが小さく笑う。

「夢なら、夢から覚めたくないな」

耳元に落ちる低い響きに、全身がぞくりと震えた。

夜になれば、スキンシップはさらに濃くなる。

最初は、眠る前に長く長く抱きしめ合うだけだった。みみがベッドに入ると、ルーファウスも隣に横たわり、静かに彼女を腕の中に収める。額に唇を押し当て、髪を梳く。何度も何度も、「もうひとりで泣かなくていい」と囁く。

ある夜、彼の胸に顔を埋めたまま、みみが小さく笑った。

「……ルー、甘やかしすぎです」

「甘やかすと決めた」

彼は即答する。

「ここで過ごす間、君には『泣く』『笑う』『甘える』以外の仕事はない」

「それは仕事なんですか……?」

「俺がそう定義した」

そんなふうに会話しながらも、彼の指先は絶えずどこかに触れている。頬、耳の後ろ、首筋、指先。必要以上にいやらしくはないのに、ひとつひとつの触れ方が、あまりにも意識を攫っていく。

「プライベートでは副社長と呼ぶな」と言ったのも、その一環だと彼は言った。

「『副社長』と呼ばれると、どうしても距離を意識してしまう」

寝室の薄暗がりの中で、彼はそうこぼした。

「君を、組織の一部としてではなく、『俺の女』として見る時間が、どうしても必要だ」

「……っ」

あまりにも直球の言葉に、みみは枕に顔を押し付ける。耳まで真っ赤になっているのは、自分でも分かった。

「君はずっと、俺を『雇い主』として見ていた。『副社長』として敬ってくれていた。それはありがたくもあり、息苦しくもあった」

彼の指が、そっと顎を持ち上げる。視線が絡む。

「今は、違ってほしい」

「違う……?」

「俺は、君の『愛してしまった相手』でありたい」

その一言に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

「だから、少なくともこのヴィラにいる間は、『副社長』ではなく、『ルー』でいてほしい」

「……わ、分かりました」

やっとの思いでそう答えると、ルーファウスは満足そうに笑った。

「いい返事だ」

そう言って、彼はみみの額にそっと唇を落とす。続けて、こめかみに。頬に。まるで、長い間触れられなかった分を取り戻すかのように、ひとつひとつの場所にキスを置いて回る。

「……くすぐったいです」

「慣れろ」

簡潔な返事と共に、もう一度額にキスが落ちる。

三か月という時間は、紙の上では数字に過ぎない。だが、コスタ・デル・ソルの小さなヴィラで過ぎていく一日一日は、その数字の一つ一つに、確かな重みを与えていった。

朝、カーテンを開けたときに隣にいる人。

昼、バルコニーで並んで海を眺める人。

夕方、キッチンで些細なことで言い合いになる人。

夜、ベッドで「おやすみ」と囁き合い、「おかえり」と重ねた言葉を胸の中で反芻する人。

——その全てが、「副社長」と「秘書」の関係では決して得られなかった時間だった。

そしてルーファウスは、その一瞬一瞬を逃さないようにとでもいうように、ことあるごとに彼女の手を取り、髪を撫で、名前を呼んだ。

「みみ」

甘く掠れた声で。

「俺は本当に、三か月では足りないと思っている」

彼は、夜の静けさの中でぽつりと呟いた。

「君が嫌と言わない限り——この先も、何度でも休暇をここで過ごすつもりだ」

「嫌だなんて……」

「なら、君は覚悟しておけ」

耳元で囁きが降る。

「これからずっと、『ルー』と呼ばされ続ける人生になる」

その予告は、みみにとって何よりも甘い約束に聞こえた。