ルーファウスがコスタに来てからというもの、みみの一日はやたらと忙しくなった――心のほうが、だ。

キッチンで包丁を握っていれば、背後からそっと腰に腕を回される。ソファで本を読んでいれば、当然のような顔で肩に顎を乗せてくる。バルコニーで海を眺めていれば、隣に立った彼の指先がいつの間にか手の甲を撫でている。

いちいち意味のあるような触れ方ではない。けれど、あまりにも頻繁で、あまりにも自然で、そのたびにみみの胸は忙しく跳ね回った。

「……ルー、近いです」

「遠くにいる時間のほうが長かった」

即答である。理屈として間違っているとは言い切れず、かといって素直に頷けるほど図太くもない。結局、みみは頬を赤くして「そういう問題じゃ」と小声で抗議するしかなかった。

そんな日々が続いた、ある夜。

いつものように、ふたりは並んでベッドに横になっていた。カーテンは閉じられ、部屋の灯りも落としてある。窓の外から、波の音が低く響く。薄闇に目が慣れてくると、天井の輪郭がぼんやりと見えた。

「……まだ眠れない?」

ルーファウスの声が、すぐ耳元で落ちる。腕の中に収まった体は、彼の胸の緩やかな上下と同じリズムで上下していた。

「波の音が落ち着いて……眠れそうな気もするんですけど」

みみは、彼のシャツの胸元を指先でつまむ。夜になると、どうしても彼の鼓動を数えてしまう。そこに確かなリズムがあるだけで、心が少し落ち着いた。

「君が眠れないなら、付き合う」

「ルーこそ、今日もお仕事してたでしょう。少しは――」

「君のほうが気になる」

何度聞いても慣れない台詞だ。反射的に「もう」と言いかけた口を、ルーファウスの指先がそっと塞いだ。

「……?」

声にならない疑問を浮かべた瞬間、その指が静かに離れていく。代わりに、柔らかな感触が唇に触れた。

いつもの、軽い口づけ。眠る前に何度も交わす「おやすみ」の儀式のようなキス。みみは一瞬身を固くするが、すぐに力を抜き、目を閉じた。

一度、二度。短く触れては離れる唇。三度目が、ほんの少しだけ長かった。触れるだけだったはずの感触が、わずかに押し寄せてくる。啄むように、形を確かめるように、何度も。

息を整える間もなく、再び唇が重なる。今度は引き際が遅い。閉じた口元を、内側へと促すように、優しく、しかし執拗に押し当てられる。呼吸をしようと僅かに口を開いた瞬間、その隙を逃さず、温かなものがそっと入り込んできた。

「……っ」

驚きで目を見開く。暗闇に慣れた視界に、間近な彼の輪郭がぼんやりと浮かぶ。鼻先が触れ合うほど近い距離。彼の吐息が、頬に熱くかかる。

ルーファウスの舌が、躊躇いなくみみの口内に触れる。触れて、引いて、またそっと追いかけてくる。どこか探るような、確かめるような動き。

頭の奥まで熱が駆け上がる。どう息をすればいいか分からない。逃げるように後ろへ下がろうとしても、背中はすでに彼の腕とベッドに挟まれていて、行き場がない。

(どうしたら……)

戸惑いの隙間を埋めるように、舌が唇の内側をなぞる。水が触れ合うような、かすかな湿った音が暗闇に溶けた。みみは、その音が自分のものだという事実に気づいて、さらに顔が熱くなる。

苦しくなって、息継ぎをしようと僅かに口を開ける。そのタイミングを読んでいたかのように、ルーファウスの舌が奥へと深く入り込んだ。

「……っ、ん……!」

喉の奥から、かすれた声が漏れる。自分のものかどうかさえよく分からない。舌が絡み合うたび、身体の芯にまで熱が伝わり、どこに力を入れればいいのか分からなくなる。

暗闇の中、ふと目が合った。

ほんの数センチの距離。薄闇に慣れた目には、ルーファウスの瞳がはっきりと見える。普段は氷のように冷静な青が、今は熱を帯びて揺れていた。獲物を捉えた獣のような激しさではなく、長い渇きをようやく潤す水を前にした人間の、それでもなお理性を手放すまいともがいているような光。

その視線に射抜かれて、みみの抵抗はふっとほどけた。

怖くは、ない。

むしろ、こんなにも自分を求めている色を、向けられたことがなかった。自分のためだけに乱れている表情を、こんな距離で見せられることが――どうしようもなく、嬉しかった。

ぎこちなく、みみも舌を動かす。どうしていいか分からず、彼の動きを真似するように触れ、逃げ、追いかける。絡み合った舌が離れて、また触れ合うたび、身体のどこかがじんと痺れた。

ルーファウスの腕の力が強くなる。やがて、彼はキスをしたままゆっくりと体をずらし、完全に覆い被さる形になった。ベッドがきしむ。肩越しに、シーツの感触が遠くに感じられる。

金髪が視界の端で揺れる。額が軽く触れ、鼻先が擦れ合う。唇は離れない。呼吸は乱れ、喉の奥から漏れる自分の声が、恥ずかしいほど耳に残る。

「……っ、は……」

ほんの一瞬、唇が離れたところで、ルーファウスの吐息が落ちた。熱く、掠れた声。

「……君が欲しい」

耳元で囁かれる。言葉そのものは短いのに、その中に詰め込まれているものがあまりにも多くて、胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。

欲しい――仕事でも、能力でもなく。

「君が欲しい」と、彼は言った。

頭のどこかで警鐘が鳴る。ここから先は、今までの甘いだけの時間とは違う領域だと、直感で分かる。

喉の奥まで上ってきた熱が、恐怖と期待とで綯い交ぜになる。頭が真っ白になりかけたところで、かろうじてひとつの言葉が浮かんだ。

(言わないと)

今言わなければ、タイミングを失う。彼はきっと、こちらの態度を尊重して止まってくれるだろう。けれど、その前に自分のことを伝えなければ、彼への裏切りになる。

「ルー……!」

ひときわ強く鼓動が跳ねる。彼の肩に手を置き、必死に声を絞り出した。

「わ、たし……こういうの、経験なくて……!」

言いきった瞬間、心臓が破裂しそうになる。顔が熱いどころではない。身体中が火照って、どこか浮ついたような感覚さえあった。

一瞬、時間が止まった。

自分の上にいたルーファウスの身体が、ぴたりと固まる。暗闇の中で、彼の目が大きく見開かれたのが分かった。

「……」

数秒の沈黙。みみは思わず目をぎゅっと閉じる。後悔がじわじわと込み上げる。こんなタイミングで言うことではなかったのではないか。もっと落ち着いた場所で、もっと穏やかに伝えるべきだったのではないか。

(でも、嘘はつけない)

心のどこかでは、それを選べたことだけは間違いではないと分かっていた。日記に「自分には嘘をつかない」と書いた夜を、思い出す。

やがて、頭上からかすかな息が降りた。

それは、さっきまでとは違う種類の熱を帯びていたが、次に来たのは、期待していたものとはまるで違う感触だった。

ルーファウスは、ゆっくりと体を起こした。覆い被さっていた重みが消え、代わりに肩のあたりに彼の手がそっと置かれる。

「……悪かった」

低く、押し殺したような声。

「焦りすぎた」

みみは驚いて目を開けた。暗闇の中でも分かるほど、彼の表情は真剣そのものだった。熱に浮かされた獣じみた影は引き、代わりに、どこか自分自身を責めるような硬さがある。

「君のことになると、どうにも加減が効かない」

苦い笑みが、かすかに浮かぶ。

「経験がないと知っていて、このまま進むのは、俺の矜持に反する」

「矜持……」

思わず復唱してしまう。ルーファウスは小さく苦笑した。

「君を大切にすると決めたのに、己の欲で曇った目で見てどうする」

そう言ってから、もう一度みみの隣に横になる。距離はさっきよりほんの少し空いているが、それでも腕はきちんと彼女の身体を囲んでいた。引き離すのではなく、抱きしめ方を変えただけ。

「……嫌だったか」

ぽつりと落ちた問いに、みみは慌てて首を振る。

「ち、違います……!嫌じゃ、ないです……」

息が少し上ずる。

「びっくりして……どうしていいか、分からなくて……でも、嫌とか怖いとかじゃなくて……」

言葉がうまくまとまらない。けれど、どうにか伝えようと必死に紡ぐ。

「ルーだから……よかった、です」

最後の部分は、ほとんど囁きに近かった。

暗闇の中、ルーファウスの腕に僅かな力がこもるのを感じる。

「……そうか」

押し殺したような息と一緒に、短い言葉がこぼれた。

「それなら、なおさらだな」

「なおさら……?」

「今夜は、ここまでにしておく」

ルーファウスは、そのまま彼女を抱きしめ直す。首筋に、軽く唇が触れた。先ほどまでの熱量とは違う、静かな、しかし確かな温度。

「君の純潔を、勢い任せに奪うつもりはない」

耳元で囁かれたその言葉に、全身が粟立つ。恥ずかしさと共に、胸の奥がじんと熱くなる。

「ちゃんと、君が望んでいると分かるときに」

「今も、望んでないわけじゃ……」

「みみ」

名前を呼ぶ声が、柔らかく遮る。

「君は、自分が思っているよりずっと俺に弱い」

あっさりと言われて、反論できない自分が悔しい。

「だから、今はまだ、俺が止まる」

ルーファウスは、自分自身に言い聞かせるように言葉を重ねた。

「君は、ただここにいればいい」

その言葉の背後で、彼の内心がどれほど激しく渦巻いているのか、みみには分からない。ただ、腕の中にいると、不思議とその嵐の中心は穏やかに感じられた。

ルーファウスは、暗闇の中で目を閉じた。

みみの告白は、予想していなかった類のものだった。この数年、彼女がどんな場所でどんなふうに生きてきたか、ノートの行間から読み取ってきたつもりでいた。だが、「誰の手も、その素肌に触れていない」という事実は、頭では理解してもなお、胸の奥で別種の火を灯す。

誰も知らない、誰も触れていない場所まで、全部自分のものになり得る――その可能性は、男としての本能をいやでも刺激する。

(だからこそ、だ)

ベッドの中で、みみの髪をそっと撫でる。指先に絡まるカシスブラウンの柔らかな感触。頬に触れる体温。細い肩。呼吸のリズム。

ここで欲に流されてしまえば、一生悔やむことになるだろう。彼女を「大切にする」と誓ったのは、言葉だけではない。行動でその責任を引き受けると決めたからだ。

「……ごめんなさい」

胸元で、小さな声がした。

「驚かせてしまって……」

「謝るのは、俺のほうだ」

ルーファウスは即座に返す。

「君が勇気を出してくれたから、俺は踏みとどまれた」

「ふみとどまるって……」

「君がどれだけ危なかったか、分かっていないな?」

ほんの少しだけ、からかうような調子が混ざる。

「あと数分、君が何も言わなかったら、多分俺は止まれていなかった」

「……そんなこと言わないでください……」

枕に顔を擦りつけながら、みみは抗議の声を上げた。耳まで熱い。彼女の反応に、ルーファウスの喉からかすかな笑いが漏れる。

「安心しろ」

彼は、少しだけ腕に力を込めた。

「君が『嫌じゃない』と言ってくれたのは、ちゃんと受け取った」

「でも、俺は君の『まだ怖い』も見逃さない」

その言い方に、みみは胸の奥がじんとした。自分の中の矛盾ごと丸ごと見透かされているようで、悔しくて、ありがたい。

ルーファウスの手が、彼女の背中をゆっくりと撫でた。さっきまで高鳴っていた心臓は、次第に穏やかなリズムを取り戻していく。

唇の熱も、まだ完全には引かない。けれど、その熱はもはや怖いものではなくなっていた。

彼の腕の中で、みみはそっと目を閉じる。

暗闇の中、波の音が遠くで続いている。窓の外の世界は何も知らないまま、ただ夜を重ねていく。けれどこの小さなヴィラの中では、一度きりの「告白」と、一度きりの「踏みとどまり」が、確かにふたりの未来を変えていた。

ルーファウスは、彼女の静かな寝息を感じ取るまで、ずっとその背中を撫で続けていた。