それからのルーファウスは、昨夜ぎりぎりのところで踏みとどまった男とは思えないほど、しかし別の意味で容赦がなかった。

朝、キッチンでトーストを皿に移しているとき。ふいに背後から腕を伸ばされ、カウンターと彼の体に挟まれる形で抱き寄せられる。視界がふっと暗くなったと思った瞬間、頬に触れた指が顎を軽く上向かせた。

「ルー?」

呼びかけ終える前に、唇を塞がれる。

最初は、いつもの軽いキスだと油断していた。ところが、そのまま離れる気配がない。形を確かめるようにゆっくりと押し当てられ、やがて一瞬の隙を見て、柔らかな感触が唇の内側をそっとなぞる。

「っ……」

小さく息が漏れる。昨日ほど長くはない。けれど、確かに「深い」キスだった。息が混ざり、胸の奥まで熱が落ちてくる。

「おはようの、練習だ」

唇が離れたあと、ルーファウスは何ともない顔でそう言った。

「おはようの、れんしゅう……?」

「昨夜言っただろう。いきなりは無茶だ。だから、少しずつ慣れてもらう」

「な、慣れるって……」

みみが抗議を続けようとすると、彼はわざとらしく真面目な顔をした。

「深いキスのひとつもまともにできない男が、君の『初めて』を引き受けるなど笑い話だろう?」

「そういう言い方やめてください……!」

耳まで熱くなり、みみはトーストの皿を持ったまま固まるしかなかった。

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昼間も、隙あらばそれは突然やってきた。

バルコニーで洗濯物を干していると、いつの間にか背後に影ができる。振り向いた瞬間、目の前に彼の顔があって、反射的に後ずさりしたところで腰を支えられる。

「危ない」

「び、びっくりしただけです……!」

「なら、ついでに」

「ついでって……」

言い終える前に、また唇が塞がれる。

今度は、最初から深い。軽く触れただけのキスでは終わらせてくれない。唇を啄むように何度か触れたあと、息を吸おうとわずかに開いた隙間に、彼の舌が滑り込んでくる。

「ん……っ」

体がびくりと震える。昨日ほどの動揺ではないが、それでも慣れたとはとても言えない。どう息をすればいいかまだ分からない。それでも、彼の動きに合わせて必死に呼吸を整え、舌を動かす。

そのたびに、膝からすとんと力が抜ける。掴むものを求めて、無意識に彼のシャツの胸元を握っていた。

ルーファウスは、その変化を見逃さない。

キスの合間に、ほんのわずかに身体を離し、彼女の表情を覗き込む。細い肩がかすかに震え、頬は火照り、目の縁に涙が滲む。けれど、その目に浮かんでいるのは恐怖ではなく、戸惑いと、どうしようもない甘さだった。

(……やはり、敏感だな)

内心で、静かに結論を下す。

触れ方を変える。荒々しくではなく、ごくゆっくりと、唇の角をなぞり、少しずつ深さを増やす。彼女が息を詰めたところでいったん離れ、苦しそうに息を吸った瞬間に、また合わせる。

「っ、ルー……」

名前を呼ぶ声が、半分涙声になっている。そこに宿る音色があまりにも甘くて、ルーファウスは喉の奥で小さく息を呑んだ。

(怖がってはいない)

それだけははっきり分かる。震えは恐怖からではなく、感覚が追いつかないほどの刺激から来ている。身体が経験したことのない熱に触れて、どう反応していいか分からず、全身が戸惑っているのだ。

「……嫌か?」

キスの途切れ間に、彼は必ずそう確認した。息が荒く、自分の声色まで熱を帯びている自覚があっても、その一線だけは外せない。

「……嫌じゃ、ないです」

みみはいつも、恥ずかしさに耐えながらそう答える。声が震え、目を逸らし、それでもきちんと首を振ってみせる。

そのたびに、ルーファウスの胸の奥で何かが強く鳴った。

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夜になると、練習はさらに本格的になる。

ベッドの上。並んで横たわり、いつものように彼の腕の中に収まる。静かな波の音を聞きながら、軽いキスから始まり、少しずつ深さを増していく。

「ん……、ふ……」

舌が触れ合うたび、みみの喉からかすかな声が漏れた。最初は驚いて押し殺そうとしていたそれも、数日も経つと完全には抑えられなくなっていた。

ルーファウスの腕の中で、彼女は本当にあっさりと力を抜いてしまう。肩から力が抜け、背中がシーツに落ちていく。上気した頬。薄く開いた唇。濡れた睫毛。

(これは……)

唇を重ねたまま、ルーファウスは腹の底に何か熱いものが溜まっていくのを感じた。

彼女の反応は、あまりにも素直だった。触れたところがそのまま表情に現れ、音になって零れる。誤魔化そうとしても、すぐに顔色に出る。緊張で震えているのかと思えば、服の上から手を滑らせただけで、まったく別の震えが返ってくる。

(敏感すぎる)

キスの合間に、そっと手を動かす。肩を撫で、背中を抱き寄せ、腕の線をなぞる。直接的な触れ方は避けているのに、それだけでみみは息を呑んだ。

「、ん……っ」

服の上から、腰の辺りを支えるように掌を当てた瞬間、甘い声が漏れた。押し殺そうとして、かえって喉の奥で震えるような声になる。

「……っ、ごめんなさい……!」

みみは自分で口元を押さえる。声が出てしまったことが恥ずかしくて仕方がない。けれど、ルーファウスの指先が服越しにそっと腰を撫でると、また小さく身体が跳ねた。

「謝ることではない」

彼は耳元で低く囁く。

「君がどう感じているか、俺には分かりやすくて助かる」

「た、助かるって……!」

「俺は鈍いほうじゃないが、人の内側までは読めない」

さらりと言いながらも、その瞳はあまりにもよく見ている。みみが少しでも身を固くすれば、すぐに動きを変え、逆に力が抜けたときにはそっと支え直す。

(これで、まだ服の上からだというのだから)

内心で、ルーファウスは深く息を吐いた。

彼女の反応を見ていると、自分の中の理性がひどく試されているのが分かる。これ以上求めれば、簡単に崩れてしまいそうな繊細さと、少し触れただけで溶けてしまうような甘さが同居している。

「……ルー」

名前を呼ぶ声が、だんだんと掠れていく。みみは半分涙ぐんだ目で彼を見上げていた。暗闇に浮かび上がったその表情は、怯えではなく、ただ戸惑いと熱に染まっている。

「本当に……慣れるんでしょうか、私」

「慣れる」

即答だった。

「君は覚えが早い」

「どこを褒められてるのか分かりません……」

「褒めている」

キスの途中で息を整えながら、ルーファウスは小さく笑った。

「君は自分の感じ方を誤魔化さない。怖ければ怖いと言うし、嫌なときは嫌と言う。その上で、『嫌じゃない』と伝えてくれる」

彼の手が、服越しに背中をそっと撫でる。それだけで、また甘い震えが走った。

「だから俺は、どこまで踏み込んでいいかを測れる」

そう言いつつ、その「どこまで」の線を、自分の中で何度も引き直しているのは彼自身だ。

(我慢が、大変だな)

胸の奥で、苦笑が生まれる。

問いかけもせず、何も言わず、ただ欲のままに彼女を抱いてしまうことは簡単だ。今の彼女なら、戸惑いながらも受け入れてしまうかもしれない。深いキスひとつでここまで身を委ねてしまうのだから、さらに先へ進めば、どれほど甘く乱れるのか想像することもできる。

だからこそ、彼はぐっと堪えた。

背中に回した手に、ほんの少しだけ力を込める。その力は、衝動を抑え込むためのものでもあった。

(君の全部に触れるときに、後悔を残さないためにも)

コスタでの三か月は、短い。

だが、短いからこそ、一つひとつの段階を雑に踏み越えたくなかった。彼女が自分の身体をどう感じているのか、自分のことをどこまで信じてくれているのかを確かめながら、きちんと進みたい。

欲がなければ、そんなことは考えないだろう。

欲があるからこそ、止まらなければならない場所があることも分かる。

「……ルー?」

彼の腕の中で、みみが小さく首を傾げる。キスの合間のほんのひと呼吸の隙に、彼の胸の鼓動がいつもより強くなっていることに気づいたのだろう。

「どうしました……?」

「いや」

ルーファウスは、喉の奥に残った熱を飲み込んだ。

「君があまりにも可愛くて、我慢が大変だと、少し思っただけだ」

「っ……!」

その正直すぎる告白に、みみは枕に顔を埋める。耳まで真っ赤になっているのが、自分でも分かった。

「そんなこと、言わなくていいんです……!」

「嘘はつかない主義だ」

静かな声。

「君の日記を読んだ男が、自分だけ曖昧な言葉で逃げるわけにはいかない」

その言い方に、みみの胸がじんわりと熱くなる。

深いキスはまだ慣れない。触れられると、すぐに力が抜けて困る。自分の声があまりにも甘くて恥ずかしい。けれど、そのどれもを「怖くない」と思えるのは、腕の中の男が踏み越えていい線を自分で引きながら、それでも欲を隠さずに見せてくれているからだと、薄々分かっていた。

みみは、彼の胸元をぎゅっと掴んだまま、そっと囁く。

「……じゃあ、もう少しだけ」

「もう少し?」

「練習……付き合ってください」

自分で言って、自分で布団に潜りたくなるほど恥ずかしい。けれど、言葉にしなければ伝わらないことを、彼から教わり続けている。

暗闇の中で、ルーファウスの喉がひくりと鳴る音がした。

「……ああ」

低く、熱の混じった返事。

「喜んで」

その一言のあとに続いたキスは、やはり容赦がなかったけれど——みみはもう、それを「怖い」とは思わなかった。