その夜、自分の身体がいつもと少し違うことに、みみはうすうす気付いていた。

きっかけは、ベッドに入る前の何でもない瞬間だった。シャワーを浴びて、髪を乾かし、ルームウェアに着替えて寝室に戻る。ベッドサイドのランプだけが灯った薄暗い部屋で、先に横になっていたルーファウスが、いつものように片側の腕を広げる。

「おいで」

ほんの少し笑みを含んだ声。

いつものことなのに、その「おいで」に胸がどくんと跳ねた。指先が妙に熱い。足元までざわつくような感覚が、じわじわと広がっていく。

(……変だ)

思う。腕の中に収まってもいないのに、既に彼の体温を求めている自分がいる。恐くはない。むしろ、そのぬくもりに触れないまま夜を終えることのほうが、ひどく心もとない気がした。

ベッドに上がり、そっとルーファウスの隣に横たわる。彼の腕の中に収まると、胸の奥にあったざわつきが、少しだけ落ち着く。けれどそれも束の間で、すぐに別の熱へと変わっていった。

「今日は、よく眠れそうか?」

耳元で問われる。みみは彼の胸元に顔を預けたまま、小さく首を振った。

「……分かりません」

「そうか」

短い返事と共に、彼の手が背中をゆっくりと撫でる。優しい、いつもの動き。なのに、今日はそこに妙な敏感さを伴っていた。布越しに背骨のラインをなぞられるだけで、肌の内側からじりじりと熱が上がってくる。

(なに、これ……)

戸惑いを飲み込むように、みみはそっと目を閉じた。

ルーファウスの唇が、額に触れる。それを皮切りに、こめかみ、頬、鼻筋――ゆっくり順を追うように降りてきて、最後に唇に触れた。

「ん……」

触れた瞬間、身体の奥で何かが弾けたような気がした。いつもと同じはずのキスなのに、今夜はやけに熱く感じる。唇が重なるたびに、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。

最初は軽く触れるだけだった唇が、やがて形を確かめるように押し当てられる。何度も繰り返してきた練習の延長線上のように、彼はタイミングを測りながら、少しずつ深さを増していった。

息を吸う隙間を探して口を開いた瞬間、舌が静かに入り込む。

「……っ」

舌と舌が触れ合う感触にも、もう以前ほどの恐怖はなかった。むしろ、その濡れた温度が落とす波紋が、身体の奥のほうで甘く広がっていく。

絡められるたび、思考が曇る。息が苦しいのか、それとも違う理由で苦しいのか分からなくなる。喉の奥で、押し殺せない小さな声が何度も震えた。

(おかしい……)

みみは、キスの合間にかすかに眉を寄せる。ルーファウスの胸板に触れている自分の指先が、じんわりと汗ばむのが分かる。その湿り気すら、いつもよりずっと生々しく感じられる。

唇が離れた短い隙間に、肺いっぱいに空気を吸い込む。けれど、酸素が足りないのは胸だけではなかった。身体のもっと奥、今まで意識したことのない場所にまで熱がこもっている。

「……みみ」

名前を呼ぶ声が、いつもより低く響いた。

「苦しいか?」

キスのあとに交わすお決まりの確認。いつもなら「少しだけ」と笑って言えるのに、今夜はうまく声が出てこない。

「……なんか、変です」

ようやくこぼれた言葉は、それだけだった。

「変?」

「いつもより……熱くて……」

絞り出すように告げると、ルーファウスの腕に僅かな緊張が走る。けれど、それを悟られまいとするように、彼は背中を撫でる動きを緩めなかった。

「熱があるのか?」

「ち、違います……そういうのじゃなくて……」

言葉にするのが恥ずかしすぎる。喉まで上がってきた形容を、必死で飲み込む。代わりに、胸の奥から零れ落ちそうになったものが、勝手に唇を震わせた。

「……もっと……」

「……?」

「……もっと……ルーの……」

聞き取れるかどうかぎりぎりの小さな声だった。自分でも、よくそんな言葉を口にできたものだと思う。言った瞬間、頭の中で恥ずかしさが爆発した。

逃げ出したくて顔を背けようとしたが、それより早くルーファウスの腕がぎゅっと強くなる。密着した身体が、さらに近づく。胸と胸が完全に重なり合って、彼の鼓動が、もう自分のものと区別がつかなくなる。

「……もっと、か」

耳元で、掠れた声が笑った。熱を含んだ、どうしようもなく甘い声音。

「そんなふうにねだられたら、理性が仕事を放棄しそうだな」

冗談めかした言い方なのに、その奥にある本音は隠れていない。みみの心臓が、また一段と速く打つ。

怖くは――やっぱり、なかった。

むしろ、彼の言葉の端々から滲む「我慢している」気配が、今まで以上に愛しく感じられた。自分のためにブレーキを踏み続けてくれていることが、身体の距離より強く伝わってくる。

だから、少しだけ勇気を出して、身体を擦り寄せた。

彼の胸に頬を押し付けていた顔を上げ、唇にそっと触れる。次の瞬間には、彼のほうから深く受け止められた。重なった唇の間から、静かに熱が流れ込んでくる。

口づけが深くなるにつれ、身体の内側のじりじりとした熱も増していく。胸の辺りから始まった火が、ゆっくり下へと降りていくような感覚。渇いた喉に水を注がれるのとは逆で、満たされるほどに余計に欲しくなる。

「ん……、ふ……」

甘い音が、どうしても漏れてしまう。舌が触れて、離れて、また絡む。そのすべてに身体が反応する。肩が震え、指先が彼のシャツを掴む。

ルーファウスは、その震えの質をよく知っていた。

(やはり、怖がってはいない)

最初に深いキスをした夜の、あのぎゅっと縮こまるような緊張とは違う。今のみみの身体は、確かに戸惑いながらも、どこかでその感覚を求めている。

唇を離し、額を軽く重ねる。乱れた呼吸同士が触れ合い、熱が混ざり合う。

「……みみ」

名前を呼ぶ声が、いつもより少し掠れていた。

「今からすることが、嫌だと思ったら、すぐに言ってくれ」

その前置きだけは、どうしても外せない。たとえ彼女が「もっと」とねだったあとでも。

みみは、息を整えながら小さく頷いた。

「……はい」

その返事を受け取ってから、ようやくルーファウスは一つ長く息を吐く。自分の中の何かを必死に抑え込むような、それでいてどこか解き放つような吐息。

背中に回していた手が、ゆっくりと動き出した。

これまでは布の上から撫でていた手が、そっと裾の隙間を探る。彼女の反応を確かめるように指先で生地をつまみ、胸の前で一拍置いてから、慎重に中へと滑り込ませた。

「……っ」

冷たくはないはずの指先が、それでもひどく鮮烈に感じられた。服の内側に入り込んだ瞬間、空気の温度がまるで変わる。柔らかな肌に、直接彼の手のひらの熱が落ちてくる。

背中をなぞる。腰のあたりを抱くように支え、ゆっくりと上へと滑らせる。肩甲骨の辺りを行き来しながら、指先で円を描くように撫でる。

「……ぁ……」

抑えきれずに漏れた声が、布団の中に閉じ込められて震えた。

自分のものとは思えないほど甘い音。みみは反射的に口元を手で押さえようとしたが、それより早くルーファウスがその手をそっと掴んだ。

「隠さなくていい」

低く囁きが降りる。

「君の声が、俺には必要だ」

耳まで熱くなる言い方をされて、逃げ場がなくなる。けれど、どこかでその言葉に救われてもいた。

背中を撫でる手が、さらに下へと降りていく。腰のくびれをなぞり、布の上から何度も触れてきた線を、今度は直接確かめるように指先で追う。

「、ん……っ」

息が詰まる。腰の辺りを包み込まれるように触れられるたび、膝の力が抜けていく。身体の芯がきゅうっと熱を孕んで、彼に手放されまいとするように自然と近づいてしまう。

(だめ……これ、だめ……)

頭の片隅で、かすかな理性がそう叫ぶ。けれど、それ以上に身体のほうが「もっと」と求めてしまっていた。さっき口にした言葉が、本当にそのまま形になっているようで、恥ずかしいのに気持ちよくて、困る。

ルーファウスは、それを全て分かったうえで、動きを少しずつ変えていく。

急がない。焦らない。

ただ、彼女の息が乱れ、指先が自分のシャツを掴む強さで、どこまでが「怖くない」のかを測る。

掌で、腰のラインを包む。指先で、背中の柔らかいところと骨ばったところの境目をなぞる。服の布が肌の上でわずかにずれるたび、そこに熱が置いていかれる。

「ルー……」

呼びかけは、もう名前だけで精一杯だった。

「怖いか?」

「……怖く、ないです」

途切れ途切れの言葉。それでも、その中に嘘はなかった。

「……気持ち、よくて……」

最後の一言は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。けれど、ルーファウスは確かにそれを拾う。

胸の奥で、何かが激しく脈打った。

(そこまで言わせておいて、なおも堪えろというのは――)

自嘲気味に笑いそうになる。男としては、あまりにも過酷な試練だ。目の前には、自分の腕の中で素直に震えながら、自分の名前だけを呼び、甘い声を漏らす女がいる。その肌に触れているのは、自分の手だけだ。

欲は、当然ある。むしろ今までにないほど強く。それでも――。

「……みみ」

もう一度、名前を呼ぶ。声が掠れているのを、自分でも自覚していた。

「今日は、ここまでにしておこう」

背中を撫でていた手が、ゆっくりと布の外に戻る。急に離さず、最後まで深く抱き寄せたまま。

「え……」

予想外の言葉に、みみは目を瞬いた。

「いや、嫌とかじゃなくて……」

「分かっている」

ルーファウスは、額を彼女の髪に押し当てる。

「君が『もっと』と言ってくれたのは、嬉しかった」

「だからこそ、ここで止まっておきたい」

それは、彼なりの矜持だった。

「君の身体がどう変化していくのか、君自身がきちんと分かってからでも、遅くはない」

「……ルーは、ずるいです」

じんわりと滲んできた涙を誤魔化すように、みみは胸元に顔を押し付ける。止められて、どこかホッとしている自分がいる一方で、その優しさに胸が締め付けられる。

「ずるい男だと、日記に書かれていたからな」

彼の喉から、小さく笑いが漏れる。

「君にそう思われているなら、本望だ」

その冗談めいた言い方に、力が抜ける。

背中を包む腕の中は、相変わらず温かい。身体の奥に残ったじりじりとした熱はすぐには収まらないが、その熱ごと抱き込んでくれるぬくもりが、何より心強かった。

みみは、彼の胸に耳を当てて、ゆっくりと呼吸を整える。

「……また、明日も」

囁くように言葉が漏れる。

「練習、付き合ってくれますか」

「もちろんだ」

即答だった。

「君が『もう十分だ』と言う日まで、何度でも」

波の音が、遠くで静かに続いている。

その夜、ルーファウスはしばらく目を閉じられなかった。腕の中の彼女の体温と、服の内側に触れた肌の感触を反芻しながら、何度も深呼吸を繰り返す。

自分の理性が、あとどれほどもつのか。その問いはもはや笑い話ではなかったが――それでも彼は、自分で選んだこの苦しさを、決して嫌だとは思わなかった。

みみの小さな「もっと」が、確かに次の扉を開いた夜だった。