37
海風が少し強い日だった。
窓を開けていると、波の音と一緒に潮の匂いが入り込んでくる。みみはリビングのソファに座り、膝の上に広げた本を眺めているはずなのに、目はほとんど文字を追っていなかった。
頭の中には、別のものがぐるぐると回っている。
——ルーって、やっぱり慣れてるんだよなあ。
自然に伸びてくる手。頬や髪に落ちるキス。抱き寄せるときの迷いのなさ。触れる場所も、触れる強さも、まるで最初から分かっていたみたいにちょうどいい。
昨夜の、自分の名前を何度も呼びながら溺れていった時間を思い出すと、胸の奥がじわりと熱くなる。ほとんど何も知らなかった自分が、あそこまで乱れてしまったのは、間違いなく彼の「上手さ」のせいだった。
その事実が、妙なところでみみの心を引っかいた。
(……慣れてる、ってことは)
当然、その前にも誰かがいた、ということになる。
頭では分かっている。ルーファウスほどの男が、誰とも関わらずここまで来たとは考えにくい。仕事柄、立場柄、関係を「持たされる」こともあっただろう。それに、彼自身、かつては退屈しのぎに女を抱いていたと、遠回しに匂わせたこともある。
分かっている。理解は、している。
——でも、やっぱり、もやっとする。
気づけば、本を閉じていた。ページの間に指を挟んだまま、みみはぼんやりと向かい側を見る。
ダイニングテーブルでは、ルーファウスが端末を片手に書類を確認している。長期休暇中だというのに、緊急の決裁や確認事項はどうしてもゼロにはならないらしい。白いシャツの袖を肘までまくり、顎に手を当てて画面に視線を落とす姿は、いつもの神羅ビルと何ひとつ変わらない「副社長」の顔だった。
(……あの人にも、誰かの「腕の中だった時期」とか、あったんだろうな)
想像した瞬間、胸の奥が小さくチクリと痛んだ。
彼の隣で笑った誰か。彼の指先に髪を撫でられて、嬉しそうに目を細めた誰か。彼のベッドに寝そべって、同じように名前を呼んだ誰か。
考えたくもないのに、一度意識すると、勝手に想像が膨らんでしまう。
「……はあ」
小さなため息が漏れた。
その音が聞こえたのか、向こう側から視線を感じる。顔を上げると、ルーファウスが端末から目を離し、こちらを見ていた。
「どうした。活字に敗北した顔をしているな」
軽い冗談だったが、みみの胸には、なぜかすっと入ってこなかった。
「……負けてるのかもしれません」
曖昧に笑ってみせる。けれど、胸のもやもやは少しも晴れない。
彼はその笑みの温度を、敏感に察したらしい。椅子から半ば腰を上げかけたところで、みみと目が合う。
(……あ)
いつもなら、そのまま「どうした」と歩み寄ってきてくれるに違いない。けれど、今日はなぜか、彼に歩いてこられるのが嫌だった。
——自分から行きたい。
ふと、そう思う。
自分でも驚くくらい唐突な衝動だった。けれど、身体は迷わなかった。
「……ルー」
本をそっとテーブルに置き、みみは立ち上がる。そのまま真っ直ぐ彼のほうへ歩いていき、椅子に座ったルーファウスの前で立ち止まった。
彼が何か言葉を探すより先に、みみは膝の上にそっと腰を下ろした。
「……?」
露骨に驚いた顔をされた。
無理もない。自分から彼の膝に乗るなんて、今までほとんどしたことがない。たどたどしく膝の上に体重を預けると、ぐらつきそうになった腰を彼の手が支えた。
「珍しいな」
低く笑う声がする。
「どうした、甘えに来たのか?」
「……そうかもしれません」
みみは、少しだけ首を傾げる。
腕を伸ばして、彼の首にそっと回した。喉元に頬が触れる距離まで身を寄せる。胸のあたりにじくじくと溜まっていたもやもやを、彼の体温で押し流してしまいたかった。
ルーファウスの呼吸が、少しだけ変わる。驚きと戸惑いと、それから、明らかな喜びが混じったような息の音。
「……みみ?」
「なんでもないです」
「なんでもない顔ではないな」
彼が顎を引き、上から覗き込んでくる。けれど、その視線から逃げるように、みみは首に回した腕にぎゅっと力を込めた。
「……ルーって」
胸に顔を押し付けたまま、小さな声を落とす。
「……昔から、こういうの……上手かったんですか?」
一瞬、彼の身体が固まるのが分かった。
数秒の沈黙。すぐに返ってこない答えに、みみは自分から話を継ぐべきか迷う。
「……なんだ、その質問は」
ようやく降ってきた声は、少しだけ笑いを含んでいた。
「今さら、そんなことを気にするとは思わなかった」
「気にしますよ……」
みみは、胸に押し当てていた顔をそのままに、小さく呟く。
「……その……」
言葉を選びながら、指先で彼のシャツの襟をつまむ。もやもやを、きちんと形にするのは難しかった。
「自然に甘やかしてくれるところとか……その……ええと……いろいろ、上手で……」
「いろいろ」
「言わせないでください……」
耳まで熱くなり、思わず首筋に額を押し付ける。
「だから、その……今までにも、そういうふうに誰かを甘やかしたり……上手にしたりしてきたんだろうなあって、考えちゃって……」
言いながら、ああもう、と心の中で頭を抱えたくなる。嫉妬しているのを、こんなにも分かりやすく伝えてしまうなんて、自分でも信じられない。
けれど、嘘をつくほうが嫌だった。
「……嫌です」
最後にぽつりと、本音が零れる。
「ルーが誰かにそうしてたって、考えるの……」
その一言で、ルーファウスの腕の力がはっきりと変わった。腰を押さえている手に、ぐっと力が込められる。彼女を膝の上でしっかりと抱き寄せるようにして、落ちないように支えた。
「……そうか」
彼は一度、短く息を吐く。
「君が、そこまで考えているとは思わなかった」
「……ごめんなさい。余計なこと……」
「余計ではない」
即答だった。
ルーファウスは、彼女の肩に頬を寄せるように身を傾けた。耳元にかかる息がやけに近くて、みみの背筋が少しだけ震える。
「確かに、過去に女がいなかったわけではない」
淡々とした言い方なのに、その奥にはどこか醒めた色があった。
「立場上、必要だったこともあるし、退屈しのぎに選んだ相手もいた。……そういう意味では、君の想像は間違っていない」
みみは胸のあたりをぎゅっと掴んだまま、返事をせずに聞き続ける。
「ただ」
そこで、彼の声の調子が変わる。
「みみほど、手放したくないと思った相手はいない」
耳元で落とされたその言葉に、身体がびくりと反応した。
「可愛いとか、綺麗だとか、そういう感情を抱いた女はいくらでもいた」
昔話をするように、彼は淡々と続ける。
「だが、あまりにも愛おしすぎて、壊したくなくて、怖くなるほど欲しくて……そういう意味で俺を追い詰めたのは、君だけだ」
「……追い詰めた、って」
「いい意味だ」
小さく笑う気配がする。
「君のいない地下で、眠れない夜をどれだけ過ごしたか、君は知らない。……いや、日記を読んだ以上、お互い様か」
「っ……」
思わず顔を上げそうになって、恥ずかしくなり、また胸に押し付ける。日記のことを持ち出されると、どうしても弱くなる。
「それに」
ルーファウスは、膝の上の彼女の指先を自分の片手で包み込んだ。絡めていた手の甲を、親指でそっと撫でる。
「君が、そんなことで嫉妬するほど、俺を想ってくれていることが——正直、嬉しい」
「……やきもち焼きで、面倒くさいだけかもしれませんよ」
「歓迎だ」
即答だった。
「俺は君に嫉妬されて不愉快になったことは、一度もない」
むしろ、と言葉を区切り、彼は少しだけ声を低くする。
「君のそういうところに、救われてすらいる」
「……救われて……?」
「自惚れかもしれないが、俺は人間的にそう好かれるタイプではない」
淡々とした自己認識だった。
「肩書きや家柄、金目当てで寄ってきた女は多い。だが、『俺だから』という理由で手を伸ばしてくる人間はほとんどいなかった」
胸元に感じる彼の声が、微かに震えた気がした。
「君は、そうじゃない」
地下で眠れず本を読み漁っていたあの頃、自嘲と諦めで固めていた自分に、ずっと届いていた「副社長へ」の言葉たち。日記に並んだ心配や想いを思い出し、彼は目を閉じる。
「だから、君が昔の女に嫉妬するのは……『今の俺』をちゃんと見てくれている証拠だ」
「……」
返す言葉が見つからない。みみはただ、胸の奥にじんと広がるものを持て余すように、彼のシャツをぎゅっと掴んだ。
少しの沈黙のあと、ルーファウスはふっと息を吐くように笑った。
「それに——」
「?」
「君のほうこそ、俺に散々嫉妬させてきただろう」
「えっ」
意外な方向から矛先を向けられて、みみはぽかんと顔を上げた。至近距離で、青い瞳と視線がぶつかる。
「バーで男と笑って話していた日のことは、覚えていないとは言わせない」
「……あれは」
「食事に行く男ができたと聞かされた日のことも」
「そ、それは……」
「そのあと、どんな顔で『楽しんでこい』と言ったか、自分では見えなかっただろうが」
苦笑とも溜息ともつかない響きが混じる。
「君を他の男に取られるかもしれないと考えただけで、どれだけ苛立っていたか、今でもよく覚えている」
「…………」
口をはさめない。というより、思い当たる節しかない。
「君がタークスに向ける信頼も、時々嫉妬した」
「タークスに、ですか?」
「レノやルードに対する態度は、確かに部下としてのそれだ。だが、怪我をして帰ってきたときの君の心配しようは、見ていて気分のいいものではなかった」
「えっ、そんな……」
「もちろん、理不尽なのは分かっている。彼らの仕事の性質を考えれば、心配するのは自然だ」
ルーファウスは肩をすくめ、わざとらしく視線を逸らす。
「だが、『俺のもの』が他の誰かのことで目を曇らせているのを見て、平然としていられるほど器用ではない」
「……ルーも、嫉妬するんですね」
ぽつりと漏らすと、彼はすぐにこちらを見た。
「当然だ」
間髪入れずに返ってくる。
「君ほど、深く独占欲を掘り起こしてきた相手はいない」
自嘲気味に笑いながらも、その言葉には、不思議と誇らしげな響きがあった。
「君の『初めて』を知ったときも、内心ではひどく昂った」
「……っ」
「同時に、そこまで誰にも触れさせなかった君を、俺だけのものにしてしまうことに——正直、自分でも驚くほど、強い快感を覚えた」
あまりに率直すぎる告白に、みみは顔を真っ赤に染めて彼の胸に再び額を押し付けた。
「そういうこと、さらっと言わないでください……」
「君が先に日記で先制攻撃を仕掛けてきたのだ」
小さく笑う。
「フェアだろう?」
小さく「フェアじゃないです」と文句を言いながらも、胸の奥のもやもやは、気づけばすっかり溶けていた。
ルーファウスは、膝の上の彼女の頭に顎を預けるようにして、少しだけ体重をかける。
「昔の女がどうだったかは、正直どうでもいい」
ぽつりと、本音が落ちた。
「今ここにいるのは君だけだし、これから先、俺がどう時間を使っていくかを決めるのも、もう君しかいない」
「……」
「だから、君がそこまで嫉妬してくれるなら——」
耳元に、静かな囁きが触れる。
「安心して、俺だけを独り占めしていろ」
言い方がずるい、とみみは思った。
同時に、(ああ、完全に負けた)とも思う。
胸の奥に重なっていたもやもやが、波にさらわれた砂のように綺麗になくなっていた。残っているのは、彼の腕の重さと体温と、胸の中でとくとくと鳴る鼓動の音だけだ。
「……じゃあ」
みみは、彼のシャツをぎゅっと掴んだまま、小さく呟いた。
「これからも、いっぱいやきもち焼きます」
「構わない」
迷いなく返ってくる。
「その代わり——君も覚悟しておけ」
「?」
「俺も、君以外に興味を向けるつもりはない」
さらりと言われた一言に、みみの胸が大きく跳ねた。
「それくらい、君にひどく依存している」
「い、依存……」
「自覚があるだけ、まだマシだと思ってくれ」
冗談めかした声。
けれど、その中に隠された本音は、膝の上で絡められた手や、首筋に触れる呼吸から、嫌というほど伝わってきた。
ふたりの間に、嫉妬や独占欲がないわけではない。むしろ、どちらかといえば濃い。けれどそれは、互いを縛る鎖ではなく、同じ場所に繋ぎ留めておくための、しなやかな糸のようだった。
みみは、首に回した腕にもう一度力を込める。
「……じゃあ、ずっとここにいますね」
「それでいい」
ルーファウスは、それが最上の答えだと言わんばかりに、満足げに目を細めた。
窓を開けていると、波の音と一緒に潮の匂いが入り込んでくる。みみはリビングのソファに座り、膝の上に広げた本を眺めているはずなのに、目はほとんど文字を追っていなかった。
頭の中には、別のものがぐるぐると回っている。
——ルーって、やっぱり慣れてるんだよなあ。
自然に伸びてくる手。頬や髪に落ちるキス。抱き寄せるときの迷いのなさ。触れる場所も、触れる強さも、まるで最初から分かっていたみたいにちょうどいい。
昨夜の、自分の名前を何度も呼びながら溺れていった時間を思い出すと、胸の奥がじわりと熱くなる。ほとんど何も知らなかった自分が、あそこまで乱れてしまったのは、間違いなく彼の「上手さ」のせいだった。
その事実が、妙なところでみみの心を引っかいた。
(……慣れてる、ってことは)
当然、その前にも誰かがいた、ということになる。
頭では分かっている。ルーファウスほどの男が、誰とも関わらずここまで来たとは考えにくい。仕事柄、立場柄、関係を「持たされる」こともあっただろう。それに、彼自身、かつては退屈しのぎに女を抱いていたと、遠回しに匂わせたこともある。
分かっている。理解は、している。
——でも、やっぱり、もやっとする。
気づけば、本を閉じていた。ページの間に指を挟んだまま、みみはぼんやりと向かい側を見る。
ダイニングテーブルでは、ルーファウスが端末を片手に書類を確認している。長期休暇中だというのに、緊急の決裁や確認事項はどうしてもゼロにはならないらしい。白いシャツの袖を肘までまくり、顎に手を当てて画面に視線を落とす姿は、いつもの神羅ビルと何ひとつ変わらない「副社長」の顔だった。
(……あの人にも、誰かの「腕の中だった時期」とか、あったんだろうな)
想像した瞬間、胸の奥が小さくチクリと痛んだ。
彼の隣で笑った誰か。彼の指先に髪を撫でられて、嬉しそうに目を細めた誰か。彼のベッドに寝そべって、同じように名前を呼んだ誰か。
考えたくもないのに、一度意識すると、勝手に想像が膨らんでしまう。
「……はあ」
小さなため息が漏れた。
その音が聞こえたのか、向こう側から視線を感じる。顔を上げると、ルーファウスが端末から目を離し、こちらを見ていた。
「どうした。活字に敗北した顔をしているな」
軽い冗談だったが、みみの胸には、なぜかすっと入ってこなかった。
「……負けてるのかもしれません」
曖昧に笑ってみせる。けれど、胸のもやもやは少しも晴れない。
彼はその笑みの温度を、敏感に察したらしい。椅子から半ば腰を上げかけたところで、みみと目が合う。
(……あ)
いつもなら、そのまま「どうした」と歩み寄ってきてくれるに違いない。けれど、今日はなぜか、彼に歩いてこられるのが嫌だった。
——自分から行きたい。
ふと、そう思う。
自分でも驚くくらい唐突な衝動だった。けれど、身体は迷わなかった。
「……ルー」
本をそっとテーブルに置き、みみは立ち上がる。そのまま真っ直ぐ彼のほうへ歩いていき、椅子に座ったルーファウスの前で立ち止まった。
彼が何か言葉を探すより先に、みみは膝の上にそっと腰を下ろした。
「……?」
露骨に驚いた顔をされた。
無理もない。自分から彼の膝に乗るなんて、今までほとんどしたことがない。たどたどしく膝の上に体重を預けると、ぐらつきそうになった腰を彼の手が支えた。
「珍しいな」
低く笑う声がする。
「どうした、甘えに来たのか?」
「……そうかもしれません」
みみは、少しだけ首を傾げる。
腕を伸ばして、彼の首にそっと回した。喉元に頬が触れる距離まで身を寄せる。胸のあたりにじくじくと溜まっていたもやもやを、彼の体温で押し流してしまいたかった。
ルーファウスの呼吸が、少しだけ変わる。驚きと戸惑いと、それから、明らかな喜びが混じったような息の音。
「……みみ?」
「なんでもないです」
「なんでもない顔ではないな」
彼が顎を引き、上から覗き込んでくる。けれど、その視線から逃げるように、みみは首に回した腕にぎゅっと力を込めた。
「……ルーって」
胸に顔を押し付けたまま、小さな声を落とす。
「……昔から、こういうの……上手かったんですか?」
一瞬、彼の身体が固まるのが分かった。
数秒の沈黙。すぐに返ってこない答えに、みみは自分から話を継ぐべきか迷う。
「……なんだ、その質問は」
ようやく降ってきた声は、少しだけ笑いを含んでいた。
「今さら、そんなことを気にするとは思わなかった」
「気にしますよ……」
みみは、胸に押し当てていた顔をそのままに、小さく呟く。
「……その……」
言葉を選びながら、指先で彼のシャツの襟をつまむ。もやもやを、きちんと形にするのは難しかった。
「自然に甘やかしてくれるところとか……その……ええと……いろいろ、上手で……」
「いろいろ」
「言わせないでください……」
耳まで熱くなり、思わず首筋に額を押し付ける。
「だから、その……今までにも、そういうふうに誰かを甘やかしたり……上手にしたりしてきたんだろうなあって、考えちゃって……」
言いながら、ああもう、と心の中で頭を抱えたくなる。嫉妬しているのを、こんなにも分かりやすく伝えてしまうなんて、自分でも信じられない。
けれど、嘘をつくほうが嫌だった。
「……嫌です」
最後にぽつりと、本音が零れる。
「ルーが誰かにそうしてたって、考えるの……」
その一言で、ルーファウスの腕の力がはっきりと変わった。腰を押さえている手に、ぐっと力が込められる。彼女を膝の上でしっかりと抱き寄せるようにして、落ちないように支えた。
「……そうか」
彼は一度、短く息を吐く。
「君が、そこまで考えているとは思わなかった」
「……ごめんなさい。余計なこと……」
「余計ではない」
即答だった。
ルーファウスは、彼女の肩に頬を寄せるように身を傾けた。耳元にかかる息がやけに近くて、みみの背筋が少しだけ震える。
「確かに、過去に女がいなかったわけではない」
淡々とした言い方なのに、その奥にはどこか醒めた色があった。
「立場上、必要だったこともあるし、退屈しのぎに選んだ相手もいた。……そういう意味では、君の想像は間違っていない」
みみは胸のあたりをぎゅっと掴んだまま、返事をせずに聞き続ける。
「ただ」
そこで、彼の声の調子が変わる。
「みみほど、手放したくないと思った相手はいない」
耳元で落とされたその言葉に、身体がびくりと反応した。
「可愛いとか、綺麗だとか、そういう感情を抱いた女はいくらでもいた」
昔話をするように、彼は淡々と続ける。
「だが、あまりにも愛おしすぎて、壊したくなくて、怖くなるほど欲しくて……そういう意味で俺を追い詰めたのは、君だけだ」
「……追い詰めた、って」
「いい意味だ」
小さく笑う気配がする。
「君のいない地下で、眠れない夜をどれだけ過ごしたか、君は知らない。……いや、日記を読んだ以上、お互い様か」
「っ……」
思わず顔を上げそうになって、恥ずかしくなり、また胸に押し付ける。日記のことを持ち出されると、どうしても弱くなる。
「それに」
ルーファウスは、膝の上の彼女の指先を自分の片手で包み込んだ。絡めていた手の甲を、親指でそっと撫でる。
「君が、そんなことで嫉妬するほど、俺を想ってくれていることが——正直、嬉しい」
「……やきもち焼きで、面倒くさいだけかもしれませんよ」
「歓迎だ」
即答だった。
「俺は君に嫉妬されて不愉快になったことは、一度もない」
むしろ、と言葉を区切り、彼は少しだけ声を低くする。
「君のそういうところに、救われてすらいる」
「……救われて……?」
「自惚れかもしれないが、俺は人間的にそう好かれるタイプではない」
淡々とした自己認識だった。
「肩書きや家柄、金目当てで寄ってきた女は多い。だが、『俺だから』という理由で手を伸ばしてくる人間はほとんどいなかった」
胸元に感じる彼の声が、微かに震えた気がした。
「君は、そうじゃない」
地下で眠れず本を読み漁っていたあの頃、自嘲と諦めで固めていた自分に、ずっと届いていた「副社長へ」の言葉たち。日記に並んだ心配や想いを思い出し、彼は目を閉じる。
「だから、君が昔の女に嫉妬するのは……『今の俺』をちゃんと見てくれている証拠だ」
「……」
返す言葉が見つからない。みみはただ、胸の奥にじんと広がるものを持て余すように、彼のシャツをぎゅっと掴んだ。
少しの沈黙のあと、ルーファウスはふっと息を吐くように笑った。
「それに——」
「?」
「君のほうこそ、俺に散々嫉妬させてきただろう」
「えっ」
意外な方向から矛先を向けられて、みみはぽかんと顔を上げた。至近距離で、青い瞳と視線がぶつかる。
「バーで男と笑って話していた日のことは、覚えていないとは言わせない」
「……あれは」
「食事に行く男ができたと聞かされた日のことも」
「そ、それは……」
「そのあと、どんな顔で『楽しんでこい』と言ったか、自分では見えなかっただろうが」
苦笑とも溜息ともつかない響きが混じる。
「君を他の男に取られるかもしれないと考えただけで、どれだけ苛立っていたか、今でもよく覚えている」
「…………」
口をはさめない。というより、思い当たる節しかない。
「君がタークスに向ける信頼も、時々嫉妬した」
「タークスに、ですか?」
「レノやルードに対する態度は、確かに部下としてのそれだ。だが、怪我をして帰ってきたときの君の心配しようは、見ていて気分のいいものではなかった」
「えっ、そんな……」
「もちろん、理不尽なのは分かっている。彼らの仕事の性質を考えれば、心配するのは自然だ」
ルーファウスは肩をすくめ、わざとらしく視線を逸らす。
「だが、『俺のもの』が他の誰かのことで目を曇らせているのを見て、平然としていられるほど器用ではない」
「……ルーも、嫉妬するんですね」
ぽつりと漏らすと、彼はすぐにこちらを見た。
「当然だ」
間髪入れずに返ってくる。
「君ほど、深く独占欲を掘り起こしてきた相手はいない」
自嘲気味に笑いながらも、その言葉には、不思議と誇らしげな響きがあった。
「君の『初めて』を知ったときも、内心ではひどく昂った」
「……っ」
「同時に、そこまで誰にも触れさせなかった君を、俺だけのものにしてしまうことに——正直、自分でも驚くほど、強い快感を覚えた」
あまりに率直すぎる告白に、みみは顔を真っ赤に染めて彼の胸に再び額を押し付けた。
「そういうこと、さらっと言わないでください……」
「君が先に日記で先制攻撃を仕掛けてきたのだ」
小さく笑う。
「フェアだろう?」
小さく「フェアじゃないです」と文句を言いながらも、胸の奥のもやもやは、気づけばすっかり溶けていた。
ルーファウスは、膝の上の彼女の頭に顎を預けるようにして、少しだけ体重をかける。
「昔の女がどうだったかは、正直どうでもいい」
ぽつりと、本音が落ちた。
「今ここにいるのは君だけだし、これから先、俺がどう時間を使っていくかを決めるのも、もう君しかいない」
「……」
「だから、君がそこまで嫉妬してくれるなら——」
耳元に、静かな囁きが触れる。
「安心して、俺だけを独り占めしていろ」
言い方がずるい、とみみは思った。
同時に、(ああ、完全に負けた)とも思う。
胸の奥に重なっていたもやもやが、波にさらわれた砂のように綺麗になくなっていた。残っているのは、彼の腕の重さと体温と、胸の中でとくとくと鳴る鼓動の音だけだ。
「……じゃあ」
みみは、彼のシャツをぎゅっと掴んだまま、小さく呟いた。
「これからも、いっぱいやきもち焼きます」
「構わない」
迷いなく返ってくる。
「その代わり——君も覚悟しておけ」
「?」
「俺も、君以外に興味を向けるつもりはない」
さらりと言われた一言に、みみの胸が大きく跳ねた。
「それくらい、君にひどく依存している」
「い、依存……」
「自覚があるだけ、まだマシだと思ってくれ」
冗談めかした声。
けれど、その中に隠された本音は、膝の上で絡められた手や、首筋に触れる呼吸から、嫌というほど伝わってきた。
ふたりの間に、嫉妬や独占欲がないわけではない。むしろ、どちらかといえば濃い。けれどそれは、互いを縛る鎖ではなく、同じ場所に繋ぎ留めておくための、しなやかな糸のようだった。
みみは、首に回した腕にもう一度力を込める。
「……じゃあ、ずっとここにいますね」
「それでいい」
ルーファウスは、それが最上の答えだと言わんばかりに、満足げに目を細めた。