海風が少し強い日だった。

窓を開けていると、波の音と一緒に潮の匂いが入り込んでくる。みみはリビングのソファに座り、膝の上に広げた本を眺めているはずなのに、目はほとんど文字を追っていなかった。

頭の中には、別のものがぐるぐると回っている。

——ルーって、やっぱり慣れてるんだよなあ。

自然に伸びてくる手。頬や髪に落ちるキス。抱き寄せるときの迷いのなさ。触れる場所も、触れる強さも、まるで最初から分かっていたみたいにちょうどいい。

昨夜の、自分の名前を何度も呼びながら溺れていった時間を思い出すと、胸の奥がじわりと熱くなる。ほとんど何も知らなかった自分が、あそこまで乱れてしまったのは、間違いなく彼の「上手さ」のせいだった。

その事実が、妙なところでみみの心を引っかいた。

(……慣れてる、ってことは)

当然、その前にも誰かがいた、ということになる。

頭では分かっている。ルーファウスほどの男が、誰とも関わらずここまで来たとは考えにくい。仕事柄、立場柄、関係を「持たされる」こともあっただろう。それに、彼自身、かつては退屈しのぎに女を抱いていたと、遠回しに匂わせたこともある。

分かっている。理解は、している。

——でも、やっぱり、もやっとする。

気づけば、本を閉じていた。ページの間に指を挟んだまま、みみはぼんやりと向かい側を見る。

ダイニングテーブルでは、ルーファウスが端末を片手に書類を確認している。長期休暇中だというのに、緊急の決裁や確認事項はどうしてもゼロにはならないらしい。白いシャツの袖を肘までまくり、顎に手を当てて画面に視線を落とす姿は、いつもの神羅ビルと何ひとつ変わらない「副社長」の顔だった。

(……あの人にも、誰かの「腕の中だった時期」とか、あったんだろうな)

想像した瞬間、胸の奥が小さくチクリと痛んだ。

彼の隣で笑った誰か。彼の指先に髪を撫でられて、嬉しそうに目を細めた誰か。彼のベッドに寝そべって、同じように名前を呼んだ誰か。

考えたくもないのに、一度意識すると、勝手に想像が膨らんでしまう。

「……はあ」

小さなため息が漏れた。

その音が聞こえたのか、向こう側から視線を感じる。顔を上げると、ルーファウスが端末から目を離し、こちらを見ていた。

「どうした。活字に敗北した顔をしているな」

軽い冗談だったが、みみの胸には、なぜかすっと入ってこなかった。

「……負けてるのかもしれません」

曖昧に笑ってみせる。けれど、胸のもやもやは少しも晴れない。

彼はその笑みの温度を、敏感に察したらしい。椅子から半ば腰を上げかけたところで、みみと目が合う。

(……あ)

いつもなら、そのまま「どうした」と歩み寄ってきてくれるに違いない。けれど、今日はなぜか、彼に歩いてこられるのが嫌だった。

——自分から行きたい。

ふと、そう思う。

自分でも驚くくらい唐突な衝動だった。けれど、身体は迷わなかった。

「……ルー」

本をそっとテーブルに置き、みみは立ち上がる。そのまま真っ直ぐ彼のほうへ歩いていき、椅子に座ったルーファウスの前で立ち止まった。

彼が何か言葉を探すより先に、みみは膝の上にそっと腰を下ろした。

「……?」

露骨に驚いた顔をされた。

無理もない。自分から彼の膝に乗るなんて、今までほとんどしたことがない。たどたどしく膝の上に体重を預けると、ぐらつきそうになった腰を彼の手が支えた。

「珍しいな」

低く笑う声がする。

「どうした、甘えに来たのか?」

「……そうかもしれません」

みみは、少しだけ首を傾げる。

腕を伸ばして、彼の首にそっと回した。喉元に頬が触れる距離まで身を寄せる。胸のあたりにじくじくと溜まっていたもやもやを、彼の体温で押し流してしまいたかった。

ルーファウスの呼吸が、少しだけ変わる。驚きと戸惑いと、それから、明らかな喜びが混じったような息の音。

「……みみ?」

「なんでもないです」

「なんでもない顔ではないな」

彼が顎を引き、上から覗き込んでくる。けれど、その視線から逃げるように、みみは首に回した腕にぎゅっと力を込めた。

「……ルーって」

胸に顔を押し付けたまま、小さな声を落とす。

「……昔から、こういうの……上手かったんですか?」

一瞬、彼の身体が固まるのが分かった。

数秒の沈黙。すぐに返ってこない答えに、みみは自分から話を継ぐべきか迷う。

「……なんだ、その質問は」

ようやく降ってきた声は、少しだけ笑いを含んでいた。

「今さら、そんなことを気にするとは思わなかった」

「気にしますよ……」

みみは、胸に押し当てていた顔をそのままに、小さく呟く。

「……その……」

言葉を選びながら、指先で彼のシャツの襟をつまむ。もやもやを、きちんと形にするのは難しかった。

「自然に甘やかしてくれるところとか……その……ええと……いろいろ、上手で……」

「いろいろ」

「言わせないでください……」

耳まで熱くなり、思わず首筋に額を押し付ける。

「だから、その……今までにも、そういうふうに誰かを甘やかしたり……上手にしたりしてきたんだろうなあって、考えちゃって……」

言いながら、ああもう、と心の中で頭を抱えたくなる。嫉妬しているのを、こんなにも分かりやすく伝えてしまうなんて、自分でも信じられない。

けれど、嘘をつくほうが嫌だった。

「……嫌です」

最後にぽつりと、本音が零れる。

「ルーが誰かにそうしてたって、考えるの……」

その一言で、ルーファウスの腕の力がはっきりと変わった。腰を押さえている手に、ぐっと力が込められる。彼女を膝の上でしっかりと抱き寄せるようにして、落ちないように支えた。

「……そうか」

彼は一度、短く息を吐く。

「君が、そこまで考えているとは思わなかった」

「……ごめんなさい。余計なこと……」

「余計ではない」

即答だった。

ルーファウスは、彼女の肩に頬を寄せるように身を傾けた。耳元にかかる息がやけに近くて、みみの背筋が少しだけ震える。

「確かに、過去に女がいなかったわけではない」

淡々とした言い方なのに、その奥にはどこか醒めた色があった。

「立場上、必要だったこともあるし、退屈しのぎに選んだ相手もいた。……そういう意味では、君の想像は間違っていない」

みみは胸のあたりをぎゅっと掴んだまま、返事をせずに聞き続ける。

「ただ」

そこで、彼の声の調子が変わる。

「みみほど、手放したくないと思った相手はいない」

耳元で落とされたその言葉に、身体がびくりと反応した。

「可愛いとか、綺麗だとか、そういう感情を抱いた女はいくらでもいた」

昔話をするように、彼は淡々と続ける。

「だが、あまりにも愛おしすぎて、壊したくなくて、怖くなるほど欲しくて……そういう意味で俺を追い詰めたのは、君だけだ」

「……追い詰めた、って」

「いい意味だ」

小さく笑う気配がする。

「君のいない地下で、眠れない夜をどれだけ過ごしたか、君は知らない。……いや、日記を読んだ以上、お互い様か」

「っ……」

思わず顔を上げそうになって、恥ずかしくなり、また胸に押し付ける。日記のことを持ち出されると、どうしても弱くなる。

「それに」

ルーファウスは、膝の上の彼女の指先を自分の片手で包み込んだ。絡めていた手の甲を、親指でそっと撫でる。

「君が、そんなことで嫉妬するほど、俺を想ってくれていることが——正直、嬉しい」

「……やきもち焼きで、面倒くさいだけかもしれませんよ」

「歓迎だ」

即答だった。

「俺は君に嫉妬されて不愉快になったことは、一度もない」

むしろ、と言葉を区切り、彼は少しだけ声を低くする。

「君のそういうところに、救われてすらいる」

「……救われて……?」

「自惚れかもしれないが、俺は人間的にそう好かれるタイプではない」

淡々とした自己認識だった。

「肩書きや家柄、金目当てで寄ってきた女は多い。だが、『俺だから』という理由で手を伸ばしてくる人間はほとんどいなかった」

胸元に感じる彼の声が、微かに震えた気がした。

「君は、そうじゃない」

地下で眠れず本を読み漁っていたあの頃、自嘲と諦めで固めていた自分に、ずっと届いていた「副社長へ」の言葉たち。日記に並んだ心配や想いを思い出し、彼は目を閉じる。

「だから、君が昔の女に嫉妬するのは……『今の俺』をちゃんと見てくれている証拠だ」

「……」

返す言葉が見つからない。みみはただ、胸の奥にじんと広がるものを持て余すように、彼のシャツをぎゅっと掴んだ。

少しの沈黙のあと、ルーファウスはふっと息を吐くように笑った。

「それに——」

「?」

「君のほうこそ、俺に散々嫉妬させてきただろう」

「えっ」

意外な方向から矛先を向けられて、みみはぽかんと顔を上げた。至近距離で、青い瞳と視線がぶつかる。

「バーで男と笑って話していた日のことは、覚えていないとは言わせない」

「……あれは」

「食事に行く男ができたと聞かされた日のことも」

「そ、それは……」

「そのあと、どんな顔で『楽しんでこい』と言ったか、自分では見えなかっただろうが」

苦笑とも溜息ともつかない響きが混じる。

「君を他の男に取られるかもしれないと考えただけで、どれだけ苛立っていたか、今でもよく覚えている」

「…………」

口をはさめない。というより、思い当たる節しかない。

「君がタークスに向ける信頼も、時々嫉妬した」

「タークスに、ですか?」

「レノやルードに対する態度は、確かに部下としてのそれだ。だが、怪我をして帰ってきたときの君の心配しようは、見ていて気分のいいものではなかった」

「えっ、そんな……」

「もちろん、理不尽なのは分かっている。彼らの仕事の性質を考えれば、心配するのは自然だ」

ルーファウスは肩をすくめ、わざとらしく視線を逸らす。

「だが、『俺のもの』が他の誰かのことで目を曇らせているのを見て、平然としていられるほど器用ではない」

「……ルーも、嫉妬するんですね」

ぽつりと漏らすと、彼はすぐにこちらを見た。

「当然だ」

間髪入れずに返ってくる。

「君ほど、深く独占欲を掘り起こしてきた相手はいない」

自嘲気味に笑いながらも、その言葉には、不思議と誇らしげな響きがあった。

「君の『初めて』を知ったときも、内心ではひどく昂った」

「……っ」

「同時に、そこまで誰にも触れさせなかった君を、俺だけのものにしてしまうことに——正直、自分でも驚くほど、強い快感を覚えた」

あまりに率直すぎる告白に、みみは顔を真っ赤に染めて彼の胸に再び額を押し付けた。

「そういうこと、さらっと言わないでください……」

「君が先に日記で先制攻撃を仕掛けてきたのだ」

小さく笑う。

「フェアだろう?」

小さく「フェアじゃないです」と文句を言いながらも、胸の奥のもやもやは、気づけばすっかり溶けていた。

ルーファウスは、膝の上の彼女の頭に顎を預けるようにして、少しだけ体重をかける。

「昔の女がどうだったかは、正直どうでもいい」

ぽつりと、本音が落ちた。

「今ここにいるのは君だけだし、これから先、俺がどう時間を使っていくかを決めるのも、もう君しかいない」

「……」

「だから、君がそこまで嫉妬してくれるなら——」

耳元に、静かな囁きが触れる。

「安心して、俺だけを独り占めしていろ」

言い方がずるい、とみみは思った。

同時に、(ああ、完全に負けた)とも思う。

胸の奥に重なっていたもやもやが、波にさらわれた砂のように綺麗になくなっていた。残っているのは、彼の腕の重さと体温と、胸の中でとくとくと鳴る鼓動の音だけだ。

「……じゃあ」

みみは、彼のシャツをぎゅっと掴んだまま、小さく呟いた。

「これからも、いっぱいやきもち焼きます」

「構わない」

迷いなく返ってくる。

「その代わり——君も覚悟しておけ」

「?」

「俺も、君以外に興味を向けるつもりはない」

さらりと言われた一言に、みみの胸が大きく跳ねた。

「それくらい、君にひどく依存している」

「い、依存……」

「自覚があるだけ、まだマシだと思ってくれ」

冗談めかした声。

けれど、その中に隠された本音は、膝の上で絡められた手や、首筋に触れる呼吸から、嫌というほど伝わってきた。

ふたりの間に、嫉妬や独占欲がないわけではない。むしろ、どちらかといえば濃い。けれどそれは、互いを縛る鎖ではなく、同じ場所に繋ぎ留めておくための、しなやかな糸のようだった。

みみは、首に回した腕にもう一度力を込める。

「……じゃあ、ずっとここにいますね」

「それでいい」

ルーファウスは、それが最上の答えだと言わんばかりに、満足げに目を細めた。