コスタの午後は、海風が少し強かった。

ヴィラのリビングには、窓から差し込む光が斜めに伸びている。波の音と風の音に紛れて、ゆるく回る天井のファンの音が重なるだけの、静かな時間だった。

ルーファウスは、コーヒーテーブルの端に端末と数枚の資料を広げ、その向かいでみみはソファに足を揃えて座り、書類の内容を眺めていた。休暇中とはいえ、完全に仕事がゼロになるわけではない。緊急の決裁書類や確認事項は、どうしても彼のところに回ってくる。それでも、ミッドガルにいた頃と比べれば、笑ってしまうほど静かな日々だった。

「ここ、サインお願いします」

みみがファイルを閉じ、ペンを添えて差し出す。肩まで伸びた髪が、うつむいた拍子にさらりと揺れた。

「……これは、問題ないな」

書類を一瞥したルーファウスが、慣れた手つきで署名を走らせる。ペン先が紙の上を滑る音だけがしばし部屋に漂った。

そのときだった。

テーブルの上に置いていた端末が、短く震えた。

ディスプレイに表示された発信者名を見た瞬間、ルーファウスの表情から、わずかに柔らかさが消える。

「……親父か」

その一言に、みみの背筋が自然と伸びた。思わず彼の顔を伺うと、ルーファウスは短く息を吐き、肩の力を抜いたような、抜いていないような微妙な所作で通話ボタンを押す。

「ルーファウスだ」

耳に端末を当て、簡潔に名乗る。相手の声は、端末越しでもよく通る低音だった。内容までは聞き取れない。しかし、その声音に含まれる苛立ちや思惑は、なんとなく伝わってくる。

みみは、邪魔にならないようにとそっと立ち上がり、窓際に視線を移した。海を眺めるふりをしながら、彼の様子を横目で窺う。

「……コスタで、ですか」

ルーファウスの声が、わずかに低くなる。

「取引先企業のレセプションパーティー……社長代理、ね」

短く復唱した言い方には、露骨な不満こそ含まれていないが、完全な従順とも違う、乾いた響きがあった。

受話口から、プレジデントのよく通る声が続く。詳細な説明というよりは、決定事項の通達という調子だ。日程、会場、出席する役員の顔ぶれ。おそらく「断る」という選択肢は最初から想定されていない。

「……ええ、滞在中であることは分かっていますとも」

ルーファウスは視線をテーブルに落とし、指先で無意識に端末の縁をなぞった。

「だからこそ、社長自らではなく、私に“代理”を押し付けようとしているのだろう」

皮肉を含んだ言い回しにも、端末の向こうは怯まない。むしろそれを織り込み済みで話を進めているような雰囲気があった。

みみは、胸の奥が少しざわめくのを感じる。

(……戻れと言われるのかな)

コスタでの「長期休暇」は、言い方を変えれば、軟禁の延長線上でもある。たとえそれが今や甘く静かな時間になっていたとしても、神羅の事情ひとつで簡単に引き剝がされることは分かっている。

そうなったとき、自分はどうなるのだろう。ルーファウスだけが先にミッドガルへ戻り、自分はこのヴィラに残されるのか。それとも——。

考えがそこまで進んだところで、ルーファウスの声が、わずかに変わった。

「秘書は同伴で構わないか」

みみは思わず、振り向きかけてしまう。慌てて仕草を抑え、視線だけそっと彼に向けた。

端末の向こうが何か言う。短い沈黙のあと、ルーファウスは軽く鼻で笑った。

「“過労による静養中”の身を、わざわざ公式の場に引っ張り出すのだから、多少の融通は利かせてもらわないと」

どこか楽しげな、しかし一歩も引く気のない声音だった。

「……ええ。社のイメージを損なうような真似はしませんよ」

相手が渋々ながら了承したのが、声色から分かる。短い応酬ののち、ルーファウスは「詳細は資料を送ってもらえれば確認する」とだけ告げて、通話を切った。

端末をテーブルに置く。その仕草が少しだけ荒くなりそうになるのを、彼は自分で抑え込んだ。

「……プレジデントから、でしょうか」

みみがおずおずと口を開く。ルーファウスは肩越しに彼女を振り返り、わずかに唇を歪めて笑った。

「そうだ。静養中の息子を、わざわざ“利用価値のあるコマ”として引っ張り出したいらしい」

「利用価値、なんて……」

自然と眉をひそめるみみに、ルーファウスは軽く肩をすくめる。

「社長の言葉の意味を、いちいち真面目に受け取る必要はない」

そう言いながら、彼女の前のソファを指先で示した。

「こっちへ来い」

言葉は命令形だが、声は穏やかだった。みみは素直に従い、先ほどまで座っていた場所に戻る。ルーファウスは彼女を視界の真正面に捉え、テーブル越しに指を組んだ。

「コスタで行われる取引先企業のレセプションパーティーに、プレジデントの代理として出席しろとのことだ」

「コスタで……」

「この辺りを拠点にしている輸送会社と、魔晄インフラの拡張についての“親睦と確認”らしい」

親睦と口にはしたが、その響きに親しみの色はない。あくまで商談、あるいは政治的な駆け引きの延長と見ているのがありありと伝わってくる。

「参加なさるんですね」

「断る理由がない。いや——」

一度言葉を切り、彼は皮肉げに笑った。

「“ある”と判断された場合に、ここでの生活にどんな形で圧をかけてくるかを考えれば、従っておくのが最も合理的だ」

みみは胸の奥をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。

(……だから、私のことも)

先ほどの会話の中で、彼が何を条件に出したのか、薄々察していた。

「みみ」

名を呼ばれ、はっと顔を上げる。

「はい」

「君も来てもらう」

短く、しかし揺るぎなく告げられた。

「“過労による静養中”の秘書を連れ出すことについて、一応、社長の承諾は取り付けた。表向きの理由は簡単だ」

ルーファウスは、テーブルの上の端末を指先で軽く叩く。

「社長代理として社外の場に出る以上、秘書を同行させるのが妥当だろう、とな」

「……私が、ご一緒しても……」

「問題ない。むしろ、君にいてもらわないと面倒だ」

即答に、みみはきょとんと目を瞬かせる。

「私が……いないと、ですか?」

「そうだ」

彼の視線が、ふっと柔らかくなった。

「社長の目の届かない場所で、勝手に口を滑らせたがる相手は多い。俺の表情を読める人間が側に一人いるだけで、余計な会話を切り捨てる口実になる」

みみは、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。

いつの間にか、自分の存在が、彼にとって「必要」であることを、当たり前のように口にされている。それを嬉しく思う自分がいる一方で、プレジデントの指示ひとつで簡単に現実へ引き戻されることも、改めて思い知らされる。

「……ドレスコードなど、詳細はあとで送られてくるだろう」

ルーファウスは椅子から立ち上がり、テーブル越しに彼女へと手を伸ばした。

「必要なら新調してもいい。コスタで調達できる範囲には限りがあるが……君なら、何を着ても見劣りはしない」

「そんな……」

頬に熱が上る。彼の手を取ると、ぐっと引かれて軽く立ち上がらされる。

「久しぶりに、“仕事”をする君が見られそうだ」

彼は、どこか愉快そうに目を細めた。

「……俺の秘書として、きっちり働いてもらう」

その言葉に、みみは自然と背筋を伸ばした。

甘く蕩けるような時間の中でも、自分は彼の秘書であり続けている。彼の隣に立ち、彼の表情を読み、彼の言葉を支える。それがどれだけ危うくて、どれだけ誇らしいことかを、誰よりも知っているから。

「承知しました、副社長」

みみがそう答えると、ルーファウスは一瞬だけ何か言いかけて、飲み込んだようだった。

「……ここでは、ルーファウスと呼べと言ったはずだが」

小さく付け加えたその苦言に、みみは思わず笑ってしまう。

「パーティー当日は、お仕事ですから」

「……そうだな」

ルーファウスは、肩を落としたふりをしながらも、どこか満足げに彼女を見つめた。

コスタでの“夢のような日々”に、少しだけ現実が混ざり始める。
それでも、彼の隣に立てるのなら——みみはその変化を、恐れよりも、覚悟とともに受け止めようとしていた。