懐かしい夢を見た。あいつを呼び出した日のことだ。僕たちと一言も喋らなくなった原因の日。まだ僕の心に居座り続けるあいつのことが好きで、愛しくて、憎らしくて、大嫌いだ。
 あの日、待っていた反対のドアから出てきたあいつは最初に見たあの泣き顔とは違う、絶望に満ちた顔で涙を流していた。それを見た僕は声を掛けることも、追いかけることもできなかった。あれだけ見たいと願っていた泣き顔のはずなのに嬉しいとも思えなかったし、あの顔を見ていたいとも思えなかった。
 この日から僕は、話すこと以前にあいつの顔を見るのが怖くなった。あの、絶望に満ちた顔を思い出してしまうのが嫌だった。あんなにも泣かせたいと思っていたのに、そんな気持ちもなくなっていた。
 今思うとあの時は、僕だけしか知らないあいつの表情という理由で泣き顔が好きだと勘違いしていたのだと思う。ただ純粋に、あいつが好きだったんだ、きっと。ていうかあの顔を見ないと気づけない僕って本当にクズだよね。

*

 今もまだ、あいつが好きだ。でも好きなのに会えない。会えてもきっと逃げられてしまう。きっと目も合わせてくれない。そう思うとやっぱりあいつなんか、と心が叫ぶ。ずっとこれの繰り返しだった。それでも最近やっと忘れられそうだったのに、今さらなんで夢になんか…。
 考えれば考えるほど思い出してしまうので、考えないように散歩がてら猫のエサでも買いにいくことにした。トド松にどこかにいくのか、と声をかけられたので散歩とだけ答えた。なんでこういう時に限ってトド松が声を掛けてくるんだよ。また、思い出してしまいそうだった。頼むからやめてくれ…。
 最近構ってる猫が我が儘で、少し遠いスーパーで売っている高級なエサしか食べない。電車で一駅ほどの距離だが、電車とかあまり好きじゃないので歩いていく。ニートにとってはかなり痛手な高級エサを買い、帰り道をのろのろと歩いていた。すると、トト子ちゃんが前を歩いているのが見えた。家の方向が同じなため、後ろについて歩くことになる。適度に距離を置きながら歩いているとカフェの前で一瞬止まった。当然僕の足も止まる。その一瞬でトト子ちゃんが、笑った。普通の笑いではなかった。何か獲物を見つけたような、どこか怪しい笑いだった。しかしすぐにトト子ちゃんは歩きだした。悪い予感しかしない。恐る恐るトト子ちゃんが見ていたところを見る。
「…やっぱり」
 案の定、あいつがいた。少し大人っぽくはなっているが、あの頃から変わらない優しい笑顔で座っていた。トド松に向けていた笑顔だ。泣いてる顔なんかよりずっと魅力的だった。
 あの顔がまた、消えてしまう前にどうにかしよう。あの時庇えなかったせめてもの罪滅ぼしとして。お店から出てきたら話しかけて、トト子ちゃんには気を付けてと伝えよう。見つかってしまった時点でもう遅いかしれないが。
 トド松にも気をつけた方がいいかもしれない。もしトト子ちゃんと復縁などした日には何をするかわからない。トド松にはまだ見つかってはいないが気をつけるに越したことはない。
 何分経っただろうか。オシャレなカフェの前にずっと立っているのはとても居心地が悪かった。いつもなら絶対逃げている。待っている間することもないので携帯をいじっていた。ゲームもすることがなくなり、Tmitterを開くと、トト子ちゃんが20分前に大切なものを見つけたと呟いていた。最悪だ。トド松がこれで気づかないことを祈る。
「じゃあまたね、今日は誘ってくれてありがとう」
 そういった彼女は、また、僕が待っていた反対方向へと歩いていく。もう関わるなということなのだろうか。足が重い。やっぱり僕が言ったところで何も変わらないんじゃないのか。…でも、あの時、後悔しただろ。庇えばよかった、追いかけて声をかければよかったと。今度こそ後悔しないように、そう思って待っていたんじゃないのか僕は。罪滅ぼし?笑っちゃうね。今も昔も、結局は自分のためだ。
「なまえ!…ちゃん」
 大人になった彼女が、振り返り僕を見る。彼女は目を大きく開いて僕を見た。その後すぐに目を逸らす。想像していた通りの反応だがやはりショックだ。
「なにか、ご用ですか?…一松くん」
「!よく、わかったね…」
「だって紫色のパーカー着てるから…」
「ああ、そう」
「…用がないなら帰っても、いいですか?」
「いや!用、ある。すぐ、終わるから。」
 とは言ったもののすぐに言葉が出なかった。ここでトト子ちゃんの名前を出してもいいのだろうか。彼女にとってトラウマであろう名前を。トド松だってそうだ。どうしよう。しかし彼女は早く僕と別れたいようで、キョロキョロしたり腕時計を見たりしている。とらあえず何か、何か伝えないと。
「あ、の…魚に気を付けて。あと、あと…ピンクの悪魔にも…それだけ」
 伝わるだろうか。伝わっていなくても、いいか。これからちょっとトト子ちゃんを意識して見ていればなんとか…。今度こそ、僕が、僕が…?僕に、何が出来るって言うんだ。ごみでクズでニートな僕に。あの時庇えなかった僕に。逃げ出そうとした僕に…。そう思うと途端に恥ずかしくなり、逃げるように家へと足を進めた。
 あんな夢を見なければ散歩に出ることもなかった。あいつを見るトト子ちゃんを見かけることなかった。あいつに話しかけることもなかった。本当になんで、今さら…。
こんなに胸が苦しいのは、久しぶりに走ったせいだと自分に言い聞かせた。

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