≪痛み≫を直す方法はひとつだけ。
誰でもできるわけじゃない。誰でもいいわけじゃない。
「――前より消えるのが早い」
焦燥感が滲む青年の声がポツリと耳に届いてきたのは、天と地の境目がはっきりとしない不思議な空間の中だった。薄暗い空間には物陰が一切なく、自分の足が接している足元が一定間隔で水面の波紋のように円形に広がっては消えていく。少しだけひんやりとした空気は呼吸する肺を穏やかに冷やすが、吐き出す息は白くならずに宙へ溶け込んでいく。
現実味が一切感じられない静かな空間の中で聞こえた青年の声がしてしばらくすると何もない足元から風の渦が巻き上がり、風の渦が紐解けるように消えると同時に一人の青年が姿を現した。彼は腰下まで伸ばした茶髪に長方形の髪飾りを揺らしていて、先が尖った形状をしたマントを羽織っていた。
「……」
鮮やかな緑の衣装とは対照的に曇った表情をしている青年が長い指先を開くように手を宙に差し出せば何処からか数冊の本が姿を現し、まるで意思を持つようにひとりでにページをバラバラと音を立てて捲っていく。
それぞれの本には英語の筆記体に似た文字が綴られていたが徐々にそれは掠れるように消えていき、最後には真っ白なページだけが残されていた。本それぞれに差異はあるものの同じ現象が起きていることを確認した青年は渋い表情を浮かべ、宙に差し出していた手を何かを堪えるようにぐっと握り込む。
「このままだと不味い」
手を打たなくてはと眉を寄せた青年が指を一度鳴らせば暗がりから現れた本たちは姿を消し、その代わりに古びた小箱が姿を現した。その小箱は青年の両手にすっぽりと収まるほどの大きさで、小箱の四隅や金具に使われている金属は所々が錆び付いている。
ギシリと蝶番が軋む小箱を青年が開ければ、その中にはいくつかの石が収められていた。石と呼ぶには綺麗に磨かれ宝石にも勝るとも劣らない輝きを灯しているそれらは形状も色も様々で、自分の意思や他の力が働いているかのように美しい輝きを内から放っているようにも見える。
「手放してから一度も上手く扱えたことはないけど」
それでも、何もしないよりはずっと良い。
誰に言うでもなく呟いた青年が小箱の縁をなぞるように静かに指先を滑らせると彼の動きに応えるように石がぼんやりと鈍い光を放ち始め、薄暗い空間を鈍く照らしていく。その鈍い光がはっきりしていくと青年は何かを我慢するように一度ぐっと息を飲んだが、小箱と石に集中させている意識を途切れさせてはいけないと更に感覚を研ぎ澄ませていく。
石の鈍い輝きが眩いほどの光へと変わり薄暗かった空間が白くなった瞬間、プツンと張りつめた糸が切れるように石の輝きがピタリと消えた。
「え?」
石の輝きが消えたことは青年にとって予想外の出来事のようで、彼は思わず間の抜けた声を漏らし、何事かと不思議そうに小箱の中を覗き込んだ。
石は蓋を開けた時同様に不思議な輝きを灯しているが先程のように眩いほどの光を放たない代わりにカタカタと小刻みに震え出し、ポップコーンが弾けるような勢いで小箱から勢いよく飛び出した。青年の端正な顔を横切った石たちは弾けて飛び出した勢いを殺すことなく薄暗い空間の中へと消えていき、鈍い光をまたたかせてから姿を消してしまった。
あっという間のことに青年は最初唖然としていたが、しばらくすると何もない空間を見上げてじっと目を凝らす。薄暗い空間は先程と何も変わっていないように見えるが、青年は何か面白いものを見たかのように口元に弧を描く。
「は、ははは……」
まさか、まさか。
「ああ、こんなことが起きるなんて」
僕が切り離した物が、≪彼女の帰り≫を待てずに飛び出していった。
「今まで一度もこんなこと、起きなかった。まるで長く出かけていた両親を出迎える無邪気な子どもだ」
早く終わらせて、早く帰ってきて。
誰よりも待ち侘びていると、体全身で表している。
僕が切り離した無機質な物がそう強く願うなら、有機質な僕の同じ願いはそれよりももっと強く確かなものだ。
「予想外で予定外のことだけど……今までと同じなんてこともあり得る」
お人よしのままじゃいられない。
でも怖がらせてはいけない、余計なことをしてはいけない。
ふうと青年が静かに息を吐くと空気が渦を巻いて彼の体を包み込み、小箱を両手ですっぽりと覆っていた骨ばった手が徐々に縮んで小さくなっていく。気付けば風で揺れる髪は襟足がすっかり短くなっていて、首筋も細く肩幅も随分と丸くなっていた。
先程まで青年の姿を取っていたその人物が持っていた小箱を片手で持ち直し空いた片手で指を鳴らすと小箱は風の渦に攫われて姿を消し、薄暗い空間にはその人物を取り巻く風の渦だけが取り残された。
「《――帰っておいで》」
青年の声は随分と高くなり、青年というより少年に近い声色へと変わっていた。そして何かを招き入れるように紡がれた言葉は妙に重々しく耳を擽り、肌の表面を粟立たせるような不思議な圧迫感と寒気を覚えさせる。
「《これは古いまじない。魔法より生み出された契約の言葉》」
言葉をひとつひとつなぞるたびに元々ひんやりとしていた空気の温度が下がっていくのを肌で感じることができるが、彼が言葉と共に吐き出す息は不思議と白く変わることはない。鼻先も痛くなりそうな冷たい空気だが彼はそれを気にすることなく静かに言葉をなぞり続け、空気を震わせる不思議な圧迫感の元を感じ取りながら最後の言葉を紡いだ。
「《書き手を今此処へ。この言葉は世界を綴る書き手の帰路へ変わる》」
さあ、これで準備は整った。
彼を包み込んでいた風の渦は吹き上がるように紐解けて薄暗い空に溶けて消え、茶色の髪に結い付けられている髪飾りがふわりと揺れ動いた。
「今度は失望させてくれるなよ」
柔らかい少年の声とは相反して、そのひと言は酷く重々しかった。
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