02.
私が初めて、治崎さん・・・オーバーホールと呼ばれる、この人に出会ったのは。
寒さがピークに達した、ある冬の日だった。
行き交う人たちはみんな、暖かそうなコートを着込んでいる。
手をつなぐカップルも、家族そろって歩くのが嬉しそうな子供も、
みんなみんな、幸せそうだった。
私、ひとりを除いては。
路地裏の更に奥、町明かりも届かないような影の中。
私はぼろ布を一枚体に巻いたきりで、手足はもう感覚すらなかった。
好きで得たわけでもない個性のせいで、私は孤独だった。
心を読まれるのを嫌がった母親に、施設に入れられた。
施設でも、歓迎されるわけがなかった。
触れれば本音がばれてしまう。
そして幼かった私は、それをすぐに口に出してしまっていた。
気味悪がられ、煙たがられ、
虐待こそなかったものの、それは幸いというべきだと思った。
中学を卒業するまでは耐え、すぐに逃げるように施設を出て、日陰を探して生きてきた。
まともな仕事になど、就けるはずもない。
仕事場でも、培ってこなかったコミュニケーション能力が必要だった。
うまく笑えない私が、人のなかで生きていけるわけがなかった。
触れないように、見つからないように生きていた。
ちょっとした仕事をして、その日を暮らして。
個性のことを知られれば、必ずと言っていいほど、悪用されそうになる。
そして結果は全て、私のせいになる。
個性を恨んだ。
この個性さえなければ。
生れてさえ、来なければ。
こんなに苦しむこともなかった。
いくつめかわからないほどの職場を追われ、住む場所も失った冬だった。
いよいよ命の危険が迫ってきて、
私には「楽になれる」という気持ちだけが残った。
死ねば開放される。
死ねば、もう孤独も感じない。
手先の力が入らなくなってきたころ、寒さも消えた。
ああ、もうすぐだ。
目を閉じて、待とう。
さよなら、私の人生。
すべてを諦め、瞳を閉じたとき。
いくつかの足音が聞こえた。
「・・・おい、玄野」
「へい」
「連れていけ。」
「・・・この汚え子供をですかい?」
「そうだ。」
「へい・・・」
少しだけ聞こえた会話は、男の声だということしか認識できなかった。
「ん・・・」
目を開けると、コンクリートの天井だった。
天国ってこんな灰色だったんだ。
のんきにそんな事を考えていたら、自分の異変に気付いた。
両掌を開いてみる。
薄汚れ、爪の伸び切った死人のような手ではなかった。
匂いを嗅いでみると、かすかに石鹸の香りがした。
「・・・ここは、どこ?」
小さな声を出すと、がちゃりと金属音が聞こえた。
反射的に身構え、音と反対方向に体を逃がす。
「目覚めたか」
ベッドの上だったようで、後ずさりは数センチしかできなかった。
声の主は大きなマスクを着けた男で、扉を開けてこちらを見ている。
「・・・だれ、」
「お前の、命の恩人だ。」
「・・・?」
その男が合図らしき動きをすると、後ろからもう一人、フードとマスクでほとんど人相のわからない人物が入ってきた。
唐突に詰められた距離に、すぐに緊張が走る。
「さわらないで」
「着替えと、食いもんです。食ったら部屋を出て、向かいの部屋へ。」
「・・・?」
フードの人が差し出したのは、服と簡単な食事。
指一本触れずに、下がっていく。
「わかったのか」
「え?あ、」
会話も久しぶりすぎて、まともな返事ができない。
混乱した頭は、返事を求められて余計にさまよう。
「・・・お前、」
大きなマスクの人は、ゆっくりと近づいてきた。
怒られる、と思った。
びくりと体をすくませると、手袋をした手が伸びてくる。
やめて。触れないで。
「さわら、ないで」
思わず、その手を振り払ってしまう。
一瞬触れただけだから、心は流れてこなかった。
久しぶりだから、個性が発動しなかったのかもしれない。
どちらにせよ、触れてほしくなかった。
マスクの人は、振り払われた手をしげしげと見ている。
「・・・出ない。」
はあ、はあ、と息が荒くなる。
私にはその言葉の意味はわからなかったが、また手が伸びてくることはなかった。
マスクの人が部屋を出ていくまで、動悸はおさまらなかった。
「早く出てこい。飯を食ってからな」
どこか楽しんでいるようにさえ見えるけど、意図がわからない。
こんなボロボロの女を拾ってきて、飼う趣味でもあるのだろうか。
なんとか落ち着いた呼吸で、思考をまとめてみる。
目的は?
なんの意味がある?
何度も逡巡して、結局さっぱりわからない。
どれくらい時間が経ったかわからないけど、とりあえず渡された衣服を広げてみた。
黒いカーディガンと、ゆったりしたワンピース。
子供用だろうか、とても小さい。
だけど栄養失調でガリガリの私には、ちょうどいいくらいのサイズだった。
「来たか」
言われた通りの扉を抜けると、マスクの人だけが座っていた。
仕事をしているのだろうか、書類やパソコンから目を離すことはない。
「飯は食ったか」
「・・・」
「・・・ふう、食わなかったんだな。」
私は何も言っていないのに、どうして分かるんだろう。
とても空腹だったけど、食べる気にはならなかった。
とりあえず衣服だけは着た。
目的を、聞きに来たんだ。
「・・・何の、つもりですか。」
「・・・うん?」
「あなたは、誰ですか」
「オーバーホールと呼ばれてる」
「オーバーホール、さん」
「長ければ治崎でもいい。」
器用にタイピングをしながら、返事をしてくる。
声に棘はない。敵意もなさそうだ。
つっけんどんなのは、もともとなのだろう。
「どうして、」
「お前を拾ったか?」
「・・・は、い」
「少し試したいことがあってな」
「・・・?」
「こっちの話だ。」
要領を得ない。
オーバーホール、治崎さんは相変わらず手と口を別々に動かしながら、
「まあ気にしないでくれ。それとお前、俺の所で働く気はないか。」
「・・・働く・・・?」
「小間使いを探していてな。」
労働。
あまりに突拍子もない話だった。
「給料なら払うぞ。住処もここに作ってやる。」
淡々と、ごく普通に話している。
まるで当たり前の提案の様に。
「あの・・・それは、どういう・・・」
「早く決めろ。働くのか。嫌なのか。」
低くて静かな、それでもよく聞こえる声。
体に響くように、浸透していく。
私は考えるより先に、小さく一度、うなづいていた。
「・・・まァ、ゆっくり慣れてくれ。」
治崎さんはそこで初めて、私の目を見た。
冷たい印象。だけど、不思議と怖くはなかった。
拾ってもらった命。
もう少し、永らえてもいいと思えた。
少なくてもこの人の、力になれたら。
そう思えたのは、胸の奥に小さく芽生えた何かの、影響だったのかもしれない。
「シズク」
「はい」
呼ばれて、小さな用を済ませる。
コーヒーを淹れるだとか、会議の後片付けをするとか。
そんな毎日が始まって。
変化したのは、毎日お風呂に入れて、きれいでいられるようになったこと。
それから、黒いパンツスーツを与えてもらって、毎日着るようになったこと。
不思議に思ったことは、彼は他の人に名前で呼ばせていないこと。
組長さんと、私だけが「治崎」の名前を呼んでいること。
バカで子供だった私には、それがどんな意味だったのか、わかっていなかった。
「困ったことはないか。」
「いえ、治崎さん」
「・・・ちゃんと食ってるか。」
「はい」
「欲しいモンは。」
「ありません。」
表情を殺して、静かな声で答えるたび、治崎さんは短く息を吐いた。
それ以上は追求せずに、またもとの仕事に戻る。
そんな、日々だった。
ある日、治崎さんが呼んでいた。
「シズク」
「はい」
いつものように、傍へ行く。
用向きを聞こうと思ったら、用はないと言われた。
「なァ、シズク」
「はい」
「・・・お前の、個性のことだが。」
びくり、と体が硬直した。
ついに来た。
逃れようのない、事実を伝えなければならない。
気付けばここへきて、数か月が経っていた。
「・・・話したくねェなら、聞かないが。」
「いえ、大丈夫です。」
ぐ、と気づかれぬように拳を握って、私は私自身の個性について話した。
部屋の中には治崎さんしかいない。
これを離せば、今まで通りには暮らせないだろう。
治崎さんはヤクザなんだ。
私の個性を使って、いくらでも金を生み出す方法を思いつくだろう。
ああ、あっという間だったな。
個性について話しながら、私の思考は別のところにあった。
「・・・お前、それ、」
「・・・」
「いや、いい。もう理解した。」
終わりの音がする、そんな気がした。
治崎さんは少し考えこむ様に顎に触れて、しばらく言葉を繋がなかった。
何と言われるだろう。
個性を使え、と言われるか、
捨てられるか。
どっちにしろ、最悪な展開には間違いないだろう。
「・・・シズク、ちょっと来い。」
「・・・はい」
告げられる。終わりを。
そう思うと、涙が零れそうになった。
気付かれないように歯を食いしばって、促されるまま治崎さんの目の前まで近寄った。
座っている治崎さんの目の前に立つように言われる。
彼の目の前に、私のお腹がある。
「触れるぞ」
「・・・っ!」
言うが早いか、彼の長い腕に私は捕まっていた。
触れたらダメ、そう思ったけど、体はしっかりと治崎さんの腕の中に納まっている。
心が流れてくる。聞こえてくる。
それは私にも、制御できないのに・・・。
「辛かったろう」
(・・・え?)
「俺はお前を捨てない」
(なに、これ・・・)
流れてきた心の声は、とても穏やかで。
治崎さんの声で再生されるそれは、私の予想とは正反対だった。
「・・・聞こえたか。」
「・・・はい、」
「嘘はつけないんだろう」
「・・・、はい。」
「なら、そういうことだ。」
ぱっと私を開放して、治崎さんは手を広げた。
もう何もしない、とでも言いたげに。
胸の鼓動がとても速く打っている。
「不安なら、いつでも触れていい」
少し寂しそうな、目。
私を見上げて、細められた目。
長いまつげに、サラサラの黒髪。
思えばこんなに間近で、治崎さんを見る機会なんてなかった。
美形なんだな、としみじみ思う。
「ウチには、似たような個性のやつもいる。気負うな」
「・・・は、い」
立ち上がって頭をぽん、と撫でてくれる。
真実吐きの個性を持っている人がいる、と教えてくれた。
それでも、触れれば際限なく心を除いてしまうこの個性が嫌だった。
治崎さんが抱きしめてくれたとき、久々に人の体温を感じた。
くすぐったくて、暖かかった。
それでも。
「・・・まだ、何か不安か。」
「いえ」
すぐに否定の言葉は出てくる。
だけど、表情を殺していても、彼にはお見通しのようだ。
「シズク」
返事を求めているわけではなさそうだ。
「疲れたら、触れさせろ。」
「え」
「俺が好きな時に、お前に触れる。嫌ならそう言え。」
「・・・でも、」
「拒否権はある。だから、俺が触れたい時・・・俺の心は、いくらでも読め。」
「・・・!」
そんな事、言われたことがない。
いくらでも読め、なんて。
生きていれば、人に知られたくない思考のひとつやふたつ、あって当然だ。
だから、私は除外され続けた。
心の中は、その人個人だけのもの。
最高位のプライバシー。
私なんかが、冒していいものじゃない。
「治崎、さん」
「・・・ん?」
「きっと、邪魔になります」
私がいる限り。
対して役にも立たない癖に。
邪魔ばかり。疎まれるばかり。
それなら、いっそー
「シズク。」
ひた、と強く呼ばれた。
頬を両手に挟まれ、額をくっつけられる。
嫌、読んでしまう。
「ち、さー・・・!」
「読め。」
「俺がお前を拾った。勝手に離れるのは許さん。」
心も、言葉もそう言っていた。
「ここにいろ。」
続けて流れてきたのは、まっすぐな声。
顔が近くて恥ずかしいのも手伝って、私の顔はすっかり赤くなってしまう
「・・・は、い」
見返りもなにも、求めない。
ただここにいろと、言ってくれた。
その時の私には、至上の喜びだったー