いつもニコニコした苗字先生は現保健の先生に何を言われても反論することなく仕事を覚えていっとる。真面目な先生やなあ、なんて思っとったらあっという間に保健の先生は退職し、保健室の管理は苗字先生に任された。
毎週火曜日が俺の保健委員としての当番日。それ以外の時もちょいちょい保健室に行っては作業をしたり、新聞部の小説を書いたりしとった。体調悪い人がいつ来るか分からんからベッドを占領したりはしない。
今日は当番日のため保健室に足を進める。保健室の前に来ると、ふと声がした。

「はあ、あのばーさん、こんな古くさいの使ってたわけ?」

………ん?あのばーさんって…前の保健の先生のことか?そんでもってこの声は…苗字先生?
俺はその声の主を確認すべく、ドアを開ける。苗字先生は白衣を服の上から着用して消毒液とにらめっこしていた。入ってきた俺を一瞥すると、苗字先生は怪訝そうな顔をしたまま消毒液の入ったコップの指差した。

「ねえ、白岡くん、これ何?」
「白石です、先生。前の先生が使とった消毒液です」
「はあ?本気?しかもマスキンだし…」

……何か、挨拶の時に会った先生とはえらい印象が違うんやけど。
苗字先生はそのコップを手に取って迷うことなくそれを産業廃棄物専用のゴミ箱に捨てた。

「あっ、」
「こんなのするくらいなら市販の消毒液のがマシよ。ヂアミにしなさいよ」

パンパン、と両手で埃を落とすような動作をして椅子に座り込む。態度の変わりように俺も驚いてその場で立ち竦んでいた。

「当番なんでしょ?座ったら?」
「あ、はい」

言われるがまま座ると先ほど座ったばかりの苗字先生が思い出した、と言わんばかりに再び立ち上がり、薬品棚を漁り出す。

「先生……何してはるんです?」
「白田くんも手伝って。内服薬は酔い止め以外捨てるから」
「えっ、捨てるんですか!?っていうか白石です」
「分かった分かった」

そう言った苗字先生は酔い止め以外の薬を全て取り出し、ゴミ箱に捨てた。勿体ない、そう思って見ていたら欲しいなら持って帰ったら?と言われたので丁重にお断りをしておいた。
ひと通り薬の整頓と消毒液の準備を終えると苗字先生はやっと椅子に座った。

「お疲れ。コーヒー飲む?」
「あ、はい。頂きます」

温かいコーヒーをトン、と俺の前に置いた先生に俺は口を開いた。

「先生、最初とえらい態度ちゃいますね」
「こっちが本性」

隠す様子もなくそう言い放って苗字先生はコーヒーを啜った。その間に俺は疑問に思ったことを聞いてみた。

「先生、さっきマスキンとかヂアミとか言うてましたけど、何ですか?」

俺の質問に先生は嫌がる様子はなく、コーヒーをすする口を止めた。

「消毒液の名前だよ。マスキンは痛いんだよね、傷に付けるには。でもヂアミはそんなに痛くないんだよ。だから手術後の人とかにはイソジンやマスキンよりもヂアミトールっていう消毒液を使ってあげるといいよね。まあ、今じゃ手術後も流水で流すだけらしいけど」
「へ!?ほんまですが…!?…イソジン言うたら、あのうがい薬にもなっとるやつですよね?」
「そうだよ*。あのうがい薬もいい菌まで殺すらしいから使うのも良し悪しなんだろうけど」

この先生は若く見えて意外としっかりしとる。そんなことを思った。

「薬を捨てたんは?勿体無くないです?」
「責任取れないから」

今度は先ほどと違って、質問の答えを返してはくれんかったように感じる。俺がはあ、と首を傾げとると苗字先生は飲み干したコーヒーカップを眺めながら言った。

「薬は人によってはアレルギーが出るんだよ。下手したらショックを起こして死ぬかもしれない。中学生に自分の薬のアレルギー聞いても知らない人が多いでしょ?」
「そうなんですか?アレルギーって…あのダニとかハウスダストとかの?」
「そうそう。本当に身体に合わない人は息出来なくなって死ぬからね」

さらりと死ぬからねと言った苗字先生に少しゾッとした。それと同時に俺はこの先生に聞けば色んなことが分かる、俺の知らんことを教えてくれると思えた。前の先生にはそんな事を聞いても専門で勉強しているわけじゃないから分からないとしか答えは返ってこんかった。

「酔い止めは?先生、残してもええって」
「酔い止めは殆どの場合プラシーボ効果だから」
「プラシーボ?」

はたまた聞いたことのない単語や。その単語を俺の口から言うと、先生はすぐに答えてくれた。

「偽薬なことが多いの、酔い止めって。薬を飲んだから大丈夫!っていう気持ちになることで酔わなくて済むのね。大抵小麦粉とか練って作ってあるから」
「そんなんええんですか?偽薬って…言うたら何の効果もないもんを効果あるよって言って飲ませるんでしょ?」
「白谷くん、世間にはね心を患っている人もいっぱい居るんだよ。思い込みの症状もあるの、言い方は悪いけどね」
「白石です」

ええ加減に覚えてください、と言うと、人の顔と名前を覚えるのが苦手だと苗字先生は言った。何でヂアミやマスキン覚えれて白石が覚えられへんねん。
まだまだ聞きたいことがあったのに先生は時計を見るなり早く部活にでも行きなさいと俺を促す。俺はしぶしぶ保健室を出たが先生は俺が出て行くのも見送らずに書類に目を通していた。

絶対当番やない日も来たる!こんな先生初めてや!
そう思いながら部活に行ったその日、謙也に「白石機嫌ええなあ」なんて言われた。