002

翌日、寒さにぶるりと体が震えて目覚めた。
はっと周りを見渡せば、昨日と変わらないその光景に、夢ではなかったのかと絶望する。
途方に暮れながら視線を下に落とすと、そこには見慣れない木の実のようなものが3つ転がっていた。ピンク、赤、青―――随分カラフルな色をしている。ピンクの実はまるで桃のような見た目をしており、香りも甘くかぐわしい。
しかし、知らないものを口にする勇気はない。手に取ってみたものの、その場にそっと置き直した。


昨日と打って変わって、今日は随分と天気がいい。
岩陰から出れば日差しに照らされ、冷えた体じんわりとが暖められてゆくのが心地よかった。
しばらくその場で日を浴びていたが、まずは現状把握をすべく服についた泥を軽く払い落とし、周辺を散策することにした。

ぐるりと歩いてみて―――分かったことが、ここが離れ小島になっている事。切り立った崖や大きな岩、そして湖に囲まれている事。
どうにか対岸まで渡ったとして、一番の問題は、そこからの道のりだった。城までは一本道だから迷いようがない。が、得体の知れない生き物がうようよといるのだ。遠目からでもその大きさが分かる。あんなのに見つかったら命はないだろう。それに、湖付近には青いタコを人型にしたような化け物がいたのだ。あの様子では、きっと湖に近付く事すら叶わない。

「……どうしよう」

状況を把握しようとすればするほど、自らの置かれた状況に絶望した。食料も、水もないのだ。
―――このまま自分は、知りもしない土地で誰に知られることもなく朽ち果てるのだろうか?大声を出して誰かに気付いてもらうことを期待する?けど、あの生き物たちに気付かれたら終わりだ。
明確な死を予感し、ゾッとする。震える腕をさすり、途方に暮れながら自分のいた岩まで戻った。


「どろ〜〜」

するとそこには、昨日自分の背中を押した水色の生き物がふよふよと浮かんでいた。
その短い両腕は、色とりどりの木の実を大事そうに抱えている。昨日と変わらずニコニコしているその表情に、ずっと張りつめていた緊張が緩むのを感じた。

「…ふふ、あなたが持ってきてくれたんだね」
「どろ〜!」
「雨がしのげる場所も、教えてくれたんでしょう?」
「どろろ〜!」

言葉が通じているのかは分からないが、語り掛けに対して長い尻尾を揺らす。初めて見たときの恐怖はすでになく、ニコニコとした表情は安堵すら感じるものになっていた。ありがとうと呟き、躊躇いがちに手を伸ばすと、その頭をぐいぐいと手に押し付けてくる。ひんやりとした硬質な感触にびくりとしながらも、頭や顎をなでてやった。
ひとしきり撫で終わったころ、ぐぅ、とお腹が鳴り、その音を聞いた目の前の生き物はきょとんとしてから、抱えた木の実をずい、と突き出す。

「…お腹すいちゃった。これ、貰うね」

そう言って桃に似た木の実を受け取れば、その生き物は嬉しそうな声を上げた。
一口かじれば芳醇な甘みが口いっぱいに広がり、身も心も満たされるようだった。しばらく咀嚼を繰り返すうちに、今まで引っ込んでいた涙があふれ出す。するとその生き物は心配そうにこちらをのぞき込み、さらに木の実を押し付けてきたのだ。その行動に、さらに涙が止まらなくなってしまった。

―――この子は最初から、私を助けてくれていたんだ。

ありがとう、ありがとう、と、木の実を潰さないよう生き物をそっと抱きしめる。抵抗もせず腕の中に納まると、目を細めくるると心地よさそうな声を上げた。が、突然ぴくりと身じろぎ、次の瞬間にはすっと腕をすり抜けてしまった。それから、先ほどまでの表情とは打って変わった鋭い目つきで、遠くを見つめている。
そのただならぬ雰囲気に、ぞくりと背筋が寒くなった。

「ど、どうしたの…?」

問いかけながらも、ふよふよと浮きながら見つめている先を、目を凝らして見やる。
すると見えたのは、青い人型のタコの化け物が足をくねらせながらこちら側へ向かって来る姿だった。
まだ距離があるとは言え、あまりの恐怖にヒュッと息をのむ。心臓が痛いくらいに早鐘を打ち始め、体が硬直したように身じろぎすら出来なくなってしまう。

「ねぇ、逃げよう、一緒に逃げようよ…!」

目の前で浮かんでいるその水色の背中へ声をかけるも、聞いていないのかずっと化け物を見据えたまま動かない。そうこうしている間にも距離はどんどん詰まってくる。
が、あと10メートル程の距離まで近づいた瞬間、水色の体が化け物に向かって飛び出していった。
化け物はその多い腕で攻撃態勢を取り―――ドゴンッ、と激しい土煙が立つのと同時に、青い体が岩に激突していた。
打ち付けられた衝撃でその体はのけぞり、しかし次の瞬間にはまた化け物へと突っ込んでいく。

「あ、あ、あ……!」

ただ突っ込むだけで、化け物は何のダメージも受けていないようだ。けれど、突っ込んでいる側は迎撃されては何度も岩へ打ち付けられ、地へ放り投げられ、けれどもその度に起き上がる。もうやめて、逃げてと叫びたいのに、喉に声が張り付いてしまって声を出すことすら出来なかった。
目の前の恐怖に、体が震える。涙が止まらない。

.
.


もう何度目の突進なのだろうか。最初より幾分も勢いのないそれを、化け物は易々と避けカウンターの拳を叩き込む。
既にボロボロの体が吹っ飛び、またしても鈍い音を立てて岩に激突する。
それが自分のいる場所に近い岩だったため、ひぃっと声が漏れた。その拍子に化け物の鋭い眼光に射抜かれ、腰が砕けてその場に尻もちをつく。すると化け物はあろうことか、こちら側へと向かって来るではないか。

「ぃやっ、来ないで!!」
「どろ〜〜〜!」

叫んだと同時に、化け物へ向かって水色の体が突っ込んだ。またしても拳を叩き込まれるが、今度は拳に嚙みついたのか、吹き飛ばされることはない。が、化け物が残りの腕で水色の体を滅多打ちにしている。肉を打つ生々しい音が耳に届き、恐怖が最高潮になった。

―――化け物の意識がそれている内に、私だけでも逃げよう…!!

そう思い、そのおぞましい光景に背を向ける。そして化け物の動向を見ようと振り向いた瞬間、水色の生き物がこちらを見て笑っていることに気付いた。全身傷だらけで、血だらけで、目だって腫れ上がり片側が隠れてしまっている。それなのに、まるで逃げることが正しいとでも言うような顔で、笑うなんて。


『どろ〜!』

ニコニコした表情と、嬉しそうな鳴き声。それらがふっと頭によぎる。
―――その瞬間、自分の中で何かがはじけた。



Petricor