呟きのような小さな叫びが口からひとりでに零れた。
「長恭、様」
立香様やマシュ様が、バツの悪そうな顔をしていらした理由が、今わかった。
敵対者のクリプター、そのサーヴァント、それが誰なのか妾は知らされなかった。その理由が今わかった。
霊器が歪む。視界も思考も、何もかもが歪む。
「鄭妃、」
くずおれそうになる妾を押し留めるように、立香様が後ろで声もあげた。
今すぐにでも駆け寄り、腕を伸ばし、あの方に抱きしめてもらいたい。雨花と、暖かな声で呼んでもらいたい。
もう、あんな思いはしたくない。
でも妾の後ろには立香様がいる。それを思うと、今身勝手に走り出してしまおうとは思わない。仮とはいえ、彼女は妾のマスターなのだ。
目の前の長恭様は、あの龍の仮面の奥で目を見開いて、他ならぬ妾を見詰めていた。
「雨花? まさかお前がサーヴァントとして召喚されることになろうとは。……そして、カルデアに組みしていようとは、」
「長恭様……」
彼がこんなにも静かで、そして棘のある声を出すことを妾は終ぞ聞くことが無かった。妾の知る彼は、戦から離れ、束の間の休息を得るべく屋敷に戻ってきた彼だけであった。
「雨花、こちらの軍門に下る気は無いのか。我がマスターも、お前ならばきっと受け入れて下さるだろう」
あたりが静まりかえるほどの空気を作るのが他ならぬ長恭様の声だということを、妾はまだ受け入れられそうにない。永遠に、受け入れてしまいたくなんて、無い。
「いいえ、長恭様。妾は、長恭様の、最後のその時に居合わせる事すら出来なかった無力な妻です。ですけれど、貴方様のその武功を、歴史を、正しく伝える世を、消してしまいたくはないのです」
長恭様の蒼い、青い瞳を見据える。剪定事象だとか、汎人類史だとか、妾には何が何だかよく分からない。ただ、長恭様の行いがあるがまま、伝わらぬ世、なんてものは考えるだけで嫌になる。
「……そうか。ならばこの高長恭の名にかけてお前を討ち取ろう」
長恭様が静かに剣を抜く。まさかあの白銀が、妾に向けられる事になろうとは。そんな事、生前の妾ならば考えつかなかっただろうし、今この時も、やっとの事で掴んでいる理性の糸を、プツリと切り落としてしまいそうになる。
そもそも今の妾が、正気を保っていられるのはこんな妾の中で、力を貸してくれる気まぐれな、見知らぬ仙女様のお陰だ。
その人に感謝を捧げよう。ああ私は、たとえこの戦いに勝つことが出来なかったとしても。今、長恭様の手で討ち取られて死んでいきたい。
妾はきっと、その為にサーヴァントになったのだ。
妾と長恭様が静かに見つめ合う中、全ての空気を壊してしまうような、コヤンスカヤ、というらしい女性の声が響く。
「ここは私も人肌脱いで差し上げましょう。鄭妃だとか、蘭陵王だとか、貴方がたの事情はどうでもいいんですけどね。今の私達は絶対絶命。カルデアの皆さんに期待した私も愚かでしたし」
「そこなアルターエゴ、保身のためなら節操なく敵に寝返るか?」
長恭様の冷たい声が、妾に向けられたものでないと知りつつも酷く、酷く痛かった。
もうやるしかないのかもしれない。長恭様の中で、もう妾はきっと、敵だ。あの方は武将だ。妾を愛してくれていても、どこまでも、忠義深い武将なのである。あの人はきっと、躊躇い無く妾を切るだろう。妾にはもう、道は、ひとつしかなかった。