そっと、普段よりも余程慎重な様子で長恭様はそう言った。
時の皇帝陛下は長恭様のことが、というよりも亡き文襄帝の血筋が、余程憎たらしいのだ。馬鹿な妾にだってよくわかる。
皇帝陛下の気を逸らそうと長恭様は愚者を演じてみせたのだという。普段の彼ならば絶対にしないような振る舞いを戦場でしてみせたり、仮病を使ったり。それでも皇帝陛下は長恭様に厳しい目を向けたままで、仮病だと思っていたのが本当の病へと変わっていた時にはもう、なにもかも終わりに近づいていた。
ただ屋敷にいるだけの妾には仔細は伝えられないし、長恭様とて話したがらない。だから、彼が毒杯を賜ったのだと神妙な顔で告げた時、妾にはそれがどう言った意味の言葉であるのか咄嗟に理解することが出来なかった。
「……今から陛下に、何とか申し上げることは出来ないのでしょうか」
「もう、どうにもならないだろう」
愚かな、狼狽えきった妾の言葉に長恭様は首を振った。
「私のような者を夫にして、お前は本当に恵まれない」
フッと息を吐いて長恭様は呟いた。その言葉の何と馬鹿らしいことか。間抜けにほうけていた唇が自然と震えた。
「いいえ、」
首を振る妾に、長恭様は怪訝そうな顔をされる。きょとんとした青い瞳の美しいことと言ったら無い。自分より一回り近く年上のこの人のことが、妙に可愛らしく思われた。
「たとえこの結末が見えていたとしても、妾はきっと貴方を愛しました。貴方だから、妾は愛したのです」
真っ直ぐに、彼の顔を見つめる。ああ、ずっと伝えたかったこの言葉をこんな時に口にするなんて。妾は本当に大馬鹿者だ。
長恭様はその美しいお顔をくしゃりと歪めて、微笑みを浮かべた。彼が笑顔を向けてくれるのは初めてでは無かったけれど、今この時の彼の顔はこれまでのそれとは違う。よく、わかる。
色素の薄い柳眉が形を歪め、水面を写した青色の瞳がゆれている。薄らと涙が浮かぶのが見えて、ああ、この人も泣くのだと思った。
そっと彼の頬に触れる。
「雨花、」
驚いた様子もなく長恭様はさらに笑った。女であれば傾国といわれただろう人にあるまじき美しい顔はぐしゃぐしゃに笑っても尚息を呑む程の魅力がある。
頬に暖かな涙がふれて、妾の掌にじんわりと染み込む。
「長恭様も、泣くのね」
「お前は私を何だと思っているのだ」
「愛しい愛しい、妾の夫ですわ」
微笑んだままの彼につられて妾も笑う。長恭様の美しさは変わらないけれど妾の顔は今、きっととんでもなく醜いだろう。器量だって元々、良い訳でもない。
それでも、長恭様はそんなことを気にしない方だ。妾はそっと彼の涙を拭った。頬に妾の指がふれる時、この上なく幸せそうに目が細められるのがわかって妾もまた、幸福だと思った。
涙を拭われるばかりであった妾が彼の涙を拭っている、それが何だか妾がようやく、彼に甘えるばかりではない、彼を支える女としての妻になれたような気がしたのだ。
「長恭様、妾、貴方を支えることが出来ていたかしら」
その問いに、彼は答えなかった。ただそうっとふれる涙の温かさが、全ての答えを教えてくれるような気がした。