なにもかも消えて無くなっちゃえばいいのに。そうすればもう苦しくない。こんなふうに惨めな思いをすることもないだろう。

うずくまったまま、私はしばらく動けなかった。手酷く殴られた右の目の上が痛い。ほとんど目が見えなかった。強く掴まれた手首が真っ赤に腫れている。でも一番痛いのはそこではなかった。

雪が降って来た。
雪は周りの音を吸収して、あたりはとても静かだった。葉の擦れる音さえしない。

「…い、かな、きゃ」

そこいらに散らばる服をかき集めて、体を守るように身につけた。早く行って、早く稼いでこないと、また酷い目に合う。

町まで降りてくると、日は暮れていた。もうほとんど人は出歩いていない。私は手で体を擦りながら、辺りを見回した。橋の上に、提灯を持った男女二人組がいた。いかにも身なりの良さそうな二人組だった。この人達からなら、少し頂いてもきっと困りはしないだろう。家に帰れば貯金もあるはず。それに、なにより私と違って、暖かい家がある。

「おっと…なんだ、こどもか」
「あら、大丈夫?」
「ぶつかってしまってすみません、雪でよろけてしまって」
「あなた、凄く寒そうだわ。それに…なんて言うか…」

酷い格好。そう言葉が続くのを遮って、私は駆け出した。
袖にいれた男の財布を落とさないように。

「…いっ!!!」
「きみ、その袖の中のものを彼に返しなさい」

突然、ちょうど真っ赤に腫れ上がったところを無遠慮に掴まれ、あまりの痛みに声にならない悲鳴をあげ、私はすっ転んだ。

「早く出すんだ」

私の腕を掴んだのは、派手な頭で見慣れない服を着た少年だった。歳は十過ぎ、私と同じくらいだろう。大きくて、見たこともない朱色の目がぎょろりと私の袖をにらんだ。

「私は何も盗ってない、!!」
「えっ、あ、あの、」
「君があの男性から財布を盗ったところを俺は見た。まだ返せばきっと許してくれるはずだ。こんなことをすべきではないことは、君にもわかっているはずだろう」
「、うるさい!!」

袖に隠した男物の財布を床に投げつけ、一目散に走った。何も悪いことはしていない、男女二人組でさえ憎らしく思えた。

今まで捕まったことなんてなかったのに、あの少年はどうして分かったんだろう。スッたところだって見られなかった自身があった。

橋が見えなくなるところまで走って、建物の陰に隠れたところで、やっと息をついた。

「はあ、はあ、もう、だいじょ、ぶかな…」

やっと一息ついて休んだ途端、急に体が震えた。警察に捕まるかもしれないからではなかった。今日、私のところまでやってきた男達の顔を、思い出したからだった。
明日もあの男達は私のところにやうってくるだろう。寒くたって暑くたって、いつだって例外はなかった。そしてその時にお金がなかったら?また今日みたいに、酷い目に合うの?

痛いのはもう嫌だ。
辛いのも寒いのも苦しいのももう嫌だ。
何度も蹂躙されるなんて、もう耐えられない。

「いっそ、」

そうだ、いっそ死んでしまおう。もう私には何にもないんだから、死んだって一緒だ。
この気温の中で、目の前の川に入水すれば、冷たさですぐに体温は奪われ、着物の重さでそのうち浮かんでこられなくなる。そして、明日の朝に下流でブクブクに醜く膨れた姿で見つかる。

「だ、だれにも分かんないもん、私のことなんて、誰も知らない。あの人達にこれから一生、苦しめられるくらいなら、いっそ死のう」

死が救いに思えた。死んだら、父さんにも母さんにも会える。早く逝きたい。
寒さで震える体を叱咤して、一歩一歩、川へと近づいていく。

「寒かったろう。こっちだ」

手のひらが熱かった。
ぐいっと引っ張られた手の先には、先ほどの派手な頭の少年がいた。少年は振り向かずに、私の手を引っ張りながら町の中を走っていった。

私は呆然としながら、彼の背中について走った。寒さから足がうまく動かずなんどももつれる。口もうまく回らず、声が出せなかった。

彼はどうして私の手を引いているのかよく分からなかった。でも、よく考えれば簡単な話だ。彼はきっととても正義感の強い人で、泥棒の私を捕まえにきたんだ。このまま警察に、突き出すつもりに違いない。

心のどこかで、それでよかったんだと思う自分がいた。私なんか、この町の汚点みたいなものだ。私のことを知っている人は、私のことを見て見ないふりする。

「え、なに、ここ」
「何をしている。寒いから早く入るといい。火鉢を出すから」

彼は宿屋の扉を開けて、そう言った。

「まって、私、捕まるんじゃないの?」
「何を言ってるんだ?」
「だって、私、泥棒したじゃない!」
「君は泥棒はしていない。現に先ほど彼らにきちんと財布を返しただろう。悔いるものを、俺は手酷く扱ったりはしない。ほら、火に当たるといい、外は寒かったろう」

彼は私を無理やり座らせると、テキパキと火鉢に火をつけ、私にニッコリと微笑んだ。

ずるりと肩から何かが落ちた。この時初めて、肩に見覚えのない打掛がかかっているのに気がついた。目の前の、少年が橋の上で会ったときに着ていたものだった。

「酷い怪我だ。手当をしてあげよう」
「なんで?」
「どうした?」
「同情?優しさ?何が目当てで、親切なふりをするの?」
「親切なふりをした覚えはない。そうだな、なぜこんな事をするのか、俺にもよく分からない。」
「同情なんかしないでよ、私あとちょっとで死のうと思ってたのに!さっきからずっと、私の邪魔ばっかりしてなんなのよ!」

少年が傷薬を開ける手を止めて、驚いた顔でこちらを見た。

「お金がなかったら、私、酷い目に合うんだから!私の邪魔しないで!私に構わないで!どうせあなたも、私に酷いことするんだ!」
「俺は、」
「触るな!」

私の肩に触れようとした手を弾いた。

心がささくれみたいだ。どうして、私は目の前の少年にこんな酷いことが言えるのだろう。こんな事を言いたくないのに、口は勝手に彼を拒絶する言葉を並べていく。

「俺は君を決して傷つけないし、酷いこともしない。約束しよう。うちに来るといい。俺が君を守ってあげよう」

もう一度彼を拒絶しようとした手は、熱い手のひらに掴まれた。

「やだ、やだ、どうせ、私のことなんか見捨てるんでしょ、」
「見捨てない」
「あ、」
「君を傷つけるものから、君を守ろう、この命をかけて」

どうして、と口にしたつもりだったのに、声が出る代わりに涙が出た。
触れている手のひらが熱くて、心が震える。

私のことなんて、誰も視界に入れてくれなかった。辛くて悲しい時、傷ついてどうしようもなくなった時、人生に絶望した時、誰一人として私の側にいてくれなかった。
だって私は全てを失っていたから。
やくざ者に犯されても、脅されても、暴力を振るわれても誰も助けてくれなかった。飽きられたら、遊郭に売られるんだと思っていた。

この子はどうしてこんな私を助けてくれるんだろう。

「名前は?」
「なまえ、みょうじなまえ」
「俺は煉獄杏寿郎、なまえ、泣くことはない。俺と一緒に来るといい。」

杏寿郎の目はとても暖かかった。