ETUは変わった。それはきっと良い方向に、なのだとおもう。そう、これで良いはずなのだ。このチームに白い丸がつくのはずいぶんとひさしぶりだった。だけれどそのせいで、私は自分の特等席を失うことになってしまった。このひとたちは勝利にしか興味がないのだろうなあと、中身がスカスカなギャラリーに向かって、私はちいさくため息をついた。そのなかには学生の姿もちらほらと見えて、私のチェックのプリーツスカートも埋もれてしまうなあと、おもった。学校帰りにここに寄る物好きは私だけだったのに。

「あ、なまえちゃん!」
「有里さん、こんにちは」

 それでも私を見つけ出して手を振ってくれたのは、永田有里さん。私は毎日飽きずにここに通っていたものだから、フロントの方々にも顔を覚えられてしまった。中でも広報部の有里さんは、私によくしてくれている。

「練習、変わりましたね」
「さっすがETUファンのなまえちゃん」
「私じゃなくたってわかりますって」

 選手の皆さんの顔が、それをしっかりと物語っていたから。汗だくで、つらそうに歪んでいて、そのなかで瞳だけは闘志に光っている。意識を、余すことなくダイレクトに筋肉へと伝える。そこから生み出されるのは無駄の無い動き。新監督のおかげか、とおもった。有里さんからはよく彼の愚痴を聞いてはいたけれど、わざわざ海外から連れ戻すくらいなのだから、実力は確かなのだ。

「ほら、椿大介くん」
「ほんとだ。かっこいいね」

 斜め後ろから聞こえた会話に、私は思わず肩をゆらした。彼に目をつけたのは、私が最初だったのに。いちばん若くて、良い脚を持っていて。まだそれを上手に使うことを知らない、生後数週間の子犬のような彼を、私はずっと応援してきたのだ。それなのに、少しばかりETUが強くなって、そのなかで活躍もして、若くて顔もかっこいいからって、ただそれだけで。こんな些細なことで一人で勝手に拗ねてしまう私は、どうしようもないくらいにこどもだ。

「椿君もすっかり有名人だね。ぼんやりしてると、取られちゃうよ?」

 有里さんの言葉の直後、「サインもらえるかな」と、先ほどよりワントーン高い声が言った。そのサインだって、いちばんにもらったのは私なのだ。

 ***

 その日の空は天気予報に逆らった。雨がざあざあとうるさい夜だった。休日だというのに塾で勉強させられていた私はどうにかノルマをこなし、塾がある小さなビルの二階から階段を使って降りた。歩きながら、背中のリュックから折り畳み傘を取り出す。チャックも閉めて元どおりに背負ったところで、いちばん下についた。傘を開こうとしたところで、となりに人がいるのを感じた。親の迎えを待つ生徒だろうと思いながらその人影を横目で見た私は、ひどく驚いた。

「椿、さん……?」

 ETUのなかでは華奢に見えるからだだけれど、街中ではたくましすぎた。椿さんはというと軽くパニックを起こしていて、何語だかわからない言葉を発している。そんな彼とおなじくらい、私も動揺を隠せなかった。目の前に椿大介がいるのだ。心臓がばくばくどころかばっこんばっこん言っている。冷静さを欠いた私たちは、五分くらいそこに停滞していたとおもう。椿さんの言葉のなかからやっと聞き取れた日本語は、どうして自分の名前を知っているのかという問いかけだった。当時の椿大介は、お世辞にも目立った活躍をする選手だとは言えなかった。椿さんは、それを自分でも自覚しているのだろう。

「あ、あの……ETU、毎日見てて。今日は塾で、行けなかったんですけど」
「そう、なんだ……!」
「えっと、椿さんもしかして……」

 傘、無いんですか?
 私の質問に、椿さんは大きく震えた。ぎくり。漫画の一コマだったらその文字がしっくりくる。

「実は……はい。降ってくるなんて、思わなくて」
「天気予報、晴れだって言ってましたもんね」

 しゅんと頭を垂れる椿さんは、いたずらを叱られた子犬のようで、とても可愛らしかった。年上のはずなのに、同い年か年下かと錯覚してしまうくらい。

「あの! よかったら、入ってください」
「えええ!? 俺なら、今から走って帰ろうと思ってたところで……!」
「だめです! サッカー選手でしょ!」
「俺なんて、そんなたいそうなもんじゃないし……」
「だめ! 絶対だめ!」

 椿さんは見かけのとおり、押しに弱いタイプらしい。私の強い口調に負けて、「じゃあ、お願いします」と苦笑いまじりにちいさく言った。
 折り畳み傘はふたりで入るには小さい。それでも私は自分の肩が濡れるのも構わず、椿さんのほうに傘を傾けた。彼の背丈に合わせて傘を持つ手が、少ししびれるように痛む。椿さんってけっこう身長あるんだなあと、おもった。ふいに、私の手のなかが空っぽになった。

「俺が持つよ」

 やわらかく微笑む椿さんとの距離は予想以上に近くて、胸がきゅうと甘く痛んだ。テレビの情報を鵜呑みにして準備を怠ってしまう、そんな椿さんだけれど、彼は確かにおとななのだ。私より長く生きたなかで身に付けたほんのちょっとの余裕を、見せつけられた気がした。

「あ! 肩!」
「だ、だいじょぶですから!」
「駄目だよ! 女の子、なんだから」

 椿さんのその言葉に、私の頬はぼっと熱くなった。そんなこと言うなんて、ずるい。黙りこんだ私に追い討ちをかけるように、椿さんは「ね?」と首をかしげて私の顔をのぞきこんできた。こんなの、はい以外で答えられないじゃん。

「椿さん」

 しばらく無言で歩き続けて、先にくちを開いたのは私だった。ずっと言いたかったけど、言えなかった。こんな機会、もう二度と無いはず。なあに、と先を促す椿さん。私は雨のせいで湿った空気をおもいっきり吸い込んだ。

「あの……っ私、ファン、なんです!」
「え……えええ! おおお、俺の!?」
「は、い! 椿さんの! だから……その、サイン……いただけませんか?」

 言った! 私は心のなかで自分をほめた。驚いて立ち止まった椿さんにあわせて、私も足を止める。椿さんは定まらないひとみをくるくると見回していた。

「ペンならあります!」
「っそ、そうじゃなくて」
「あ……どこに書いてもらおう」
「あ、うん。それも……そうなんだけど」

 サイン書くの、はじめてで。
 どんどんちいさくなる椿さんの言葉に、私は思わずそこに停止した。たった今リュックから取り出したばかりの油性ペンを落としそうになる。私は、驚きと興奮と喜びとがごちゃまぜになった心持ちで椿さんを見上げた。

「はじめて、ですか」
「うん、はじめて」
「う、そ……嬉しい……! 私、すっごく嬉しい、ですっ……!」

 ぼろぼろと零れるうれし涙は、止まらない。泣き出した私に、椿さんは明らかに狼狽していた。私は涙声のまま、ごめんなさいと謝った。

「俺も……俺なんかのサインに涙を流してくれるような子がはじめてのファンで、とっても嬉しい」

 椿さんは、私の手からペンを抜き取った。きゅぽ、とキャップを外す小気味良い音が鳴る。黒の油性ペンが走らされているのは、色紙でもレプリカユニフォームでもなく、私たちの頭上、折り畳み傘の裏側だった。

「だめ……だったかな」
「だめじゃないです!ありがとうございます! 大切にします」
「どういたしまして……えっと、名前聞いてなかったね」
「なまえといいます。みょうじなまえ」
「どういたしまして、なまえちゃん。俺のほうこそ、ありがとう」

 それからぽつらぽつらと会話をしながらしばらく歩いた。コンビニを見つけた椿さんは、そこで傘を買って帰ると言った。またね、なまえちゃん。雨の音に負けないように張った声は、今でも鮮明に思い出せる。またね、という言葉をえらんでくれた理由を想像してしまう私は、やはりこどもだった。

 ***

「取られるだなんて……だいいち、椿さんは私のものじゃありません」
「でも、相合い傘した仲なんでしょ?」
「それはたまたまです! ……あれ以来、椿さんと一度も話していないんですよ。忘れられちゃいましたよ、きっと」

 自分で言った言葉に自分で傷つきながら、私はため息をつく。選手としての椿さんを応援していたはずだった。彼の潜在能力や将来性への興奮による鼓動の高鳴りのなかに隠れていた、恋へのそれに気づくきっかけとなったのは、紛れもなく例の一件だ。

「そうかなあ。椿君、よくなまえちゃんのほうを見てると思うんだけど」

 そのとき、ぱちりと椿さんと目が合った。それはほんとうに一瞬で、大きく波打った私の鼓動が一波長ぶん終わらないうちに逸らされてしまう。

「自惚れても……いいんですか」
「私は、いいと思うよ」

 今日の練習が終わったら、勇気を出して声をかけてみよう。



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