生ぬるい温度の潮風が、さざ波をかすめてわたしの頬を撫でた。続いて、びゅうといっそう強く吹いたそれに思わず顔をしかめて、かぶっていた帽子を押さえた。風はまだやまない。遠くでごろごろと雷の鳴る音がする。まもなく、遊泳禁止をあらわす赤色の旗が、魚の尾ひれのようにばたつきながら空へとのぼってゆく。その紐を引くのは、いつも監視用のタワーの上であぐらをかいて座っているおとこの仕事だ。
 彼は名前を堺良則といって、海の家を経営する老夫婦の甥にあたる人物だ。海は特別好きというわけではなく、むしろ嫌いなんだとか。水より陸のほうが得意で、どこかのサッカーチームの選手をしているらしい。それに、泳ぎにはあまり自信がないと言うから笑ってしまう。そんな彼に、なぜ海の監視員のバイトをしているのかを尋ねたのはつい数日前の話だ。つまらなそうな表情をして、成り行きでと答えた彼は、どうせ今だけだからとも言っていた。海だけ見てりゃいいんだ、楽なもんだろ。たしかに、ボールを蹴っているよりは楽かもしれないけれど、と彼の脚に目をやった。よく鍛えられた脚の片方に包帯が巻かれていることに今更ながら気がついて、ほんとうの理由はここにあるとわかったのだった。

 次第に空には雲がたちこめて、大粒の雨が降りだした。ざあざあという雨音のほかに、子供、おそらく少女の泣き声――そのなかには、「帽子が」とか「海に」とか「お気に入りなのに」とかそんなような言葉が混ざっていた――が聞こえた。黒く荒れ始めた海には、麦わら帽子が浮かんでいる。

「ねえ、堺さん。なんとかしてあげられないかな」
「それは俺の仕事じゃねえよ。ほっとけ」

 堺さんは、雨で濡れた鉄製のはしごをゆっくりと降りてくる。途中で首にかかっていたタオルが風で飛ばされたが、足を止めてその方向を見やり、「あー……」と声を漏らしただけだった。
 海に視線を戻すと、浜辺になにやら赤いものが置いてあるのが見えた。雨で視界も悪いからよく見えないが、おそらくバケツかなにかだろう。私は指をさして堺さんにそれを知らせた。忘れ物を回収するのも、彼の仕事だ。

「……面倒くせえ」

 砂浜にぽつんと置いてけぼりにされたバケツは、海水だか雨水だかわからない水で溢れていた。中には、小さな魚が一匹、水面を打ちつける雨から逃れるようにせかせかと泳いでいる。堺さんはため息をついてから、バケツごと海に放り投げた。波にさらわれたことにしておけ、と彼は言った。少女の麦わら帽子も、堺さんのタオルも、それから誰かが忘れていったバケツも、いっそう激しさを増した海に飲み込まれてしまった。海のゴミを減らすのは、彼の仕事ではないらしい。


 翌日になっても雨はやまなかった。前線が停滞しているとか台風が近づいているとか、理由はいくつかあるのだろう。しかしそんなことはどうでもいい。今日は、堺さんがいない。それだけだ。堺さんだけに限らず、海の家の老夫婦もいないし、まして客がいるはずもない。スカートが捲れるのも気にせず、岩場をよじ登った。灰色がかった海をひとりじめしたって嬉しくもなんともないけれど、両手を広げて海を抱きしめてみる。
 もしもここに堺さんがいたら、私の真似をしてくれるだろうか。風雨を全身に受ける私に、「お前、いったいなにがしたいんだ」、と呆れ顔で尋ねてほしい。「飛んでいきたいんです」「どっちかって言うと、沈むだろ」
 ――沈む。沈むというのは、死ぬということだろうか。私は飛行機のように両手を広げたまま、重心を前に移動させた。私の手を掴んでくれる彼はいない。
 私が死んだら、堺さんは。涙など流さないし、流してほしいわけでもない。ただ、彼の切迫した顔が見たかっただけだ。趣味の悪い女だと馬鹿にされるだろうか。呆れと哀れみと、嫌悪にも似たなにかが滲んだ表情もまた見物だ。死んでしまったら、ぜんぶ見れないのにね。私は最後まで詰めの甘いこどもだった。私はしずかに目を閉じて、水面に向かって手を伸ばす。彼が助けに来てくれる夢をえがいて。


「……生き、てる」

 目に飛び込んできた木目は、おそらく海の家の天井だ。私は長椅子からからだを起こす。「おー、起きたか」と心配しているのかしていないのかわからないような声色で尋ねてきたのは、私が薄れゆく意識のなかで手を伸ばした相手そのひとだった。……助けてくれた?堺さんが?

「なんで!?」
「海の治安守るのは、一応俺の仕事だからな。死人が出たとかシャレになんねえ」

 なんで今日海にいたのか、も聞きたかったのだけど、「遊泳禁止出てんだろうが」とお小言が始まって、最終的には「仕事増やすんじゃねえよ」と愚痴じみたことまで聞かされてしまってそれどころではなくなってしまった。ところで堺さんは泳ぎに自信がないと言っていた。私を抱えて、半分溺れたように荒れた海をかきわける彼を想像したらとても可笑しくて、思わず笑ってしまう。

「なに笑ってんだよ」
「なんでもありませーん」

 ひとしきり笑ってから、彼に気づかれないようにため息をついた。――仕事。その一言で片付けられてしまうという現実が、心につかえたまま取れないのだ。



20150915【海に行くつもりじゃなかった