夏のはじめのある日、その娘はやってきた。風の無い、静かな朝のことだ。

 庭の木々は、少しばかり鬱蒼としすぎていた。近いうちに庭師に剪定を頼まなくてはならない。しかしそれがかえって夏の日差しを上手に調節しているようにも思われて、どうしたものかと縁側に立ったままぼうっと眺めていると、沈丁花の茂みが不自然に揺れた。裸足のまま庭に出て、誰だ、とサーベルの鋒をそこに向けて問う。また小泉か、とも思ったが、奴の体躯がこの茂みにおさまるはずがない。それに、身を隠すのは後ろめたい理由があるからだ。彼は、俺の家に不法侵入するのを悪いことだとは露ほども思っていない。ほどなくして、がさりと枝を揺らして立ち上がったのはひとりの少女だった。「怪しいものではありません!」その台詞が彼女の怪しさをよりいっそう際立たせた。頭の上に一枚の葉っぱを乗せて、両手を上にあげるその姿は非常に間抜けて見える。狐か狸に化かされ、現実と非現実を彷徨うような感覚に襲われた。
 みょうじなまえ。それがその娘の名前だ。あれからというもの、彼女は俺の前に現れては、自分自身の話をべらべらと喋った。無論こちらから尋ねたわけではない。彼女は東京音楽学校に通う女学生だということ。ピアノが得意だということ。ピアノが弾けなくなっては大変だからと、家では手を怪我する恐れのあることはやらせてもらえないこと。そのせいで退屈であるから、散歩に行くのだということ。この娘に関する要らない認識は日に日に増えて行く。何が楽しいのか、娘はいつもきゃらきゃらと笑っていた。わざとらしいくらいに愛嬌のあるえくぼが印象的な笑顔だ。

 彼女がピアノを披露したいと言うから、仕方なく学校まで赴いたことがあった。こっちですよ、と娘は癖の無い黒髪を揺らしながら小走りで廊下を進む。そんな落ち着きの無い様子を見ていると、もっと年端のいかない子供を相手にしているようにさえ思われた。しかし、ピアノを前にした彼女はまるで別人だった。外国製のピアノの前で優雅に一礼してから、娘は演奏を始めたのだが、それは素人の俺にも相当上手いとわかるほどのものだったのだ。曲を締めくくる和音の余韻が残る暫しの沈黙の後、「どうでしたか、私のピアノ!」無邪気に尋ねる彼女は、俺の知る娘であった。

 何故だか知らないが、彼女は自分を嫁にしてほしいと口癖のように言った。いつものように笑って言ってくれれば冗談にも聞こえたものの、これを言うときばかりは決まって真面目な表情をしてみせる。「私はお料理もお洗濯もできません。でもピアノだったら弾けます。それしか、できないけど。こんな私ですが、どうか藤田さんのお嫁さんにしてください!」その言葉のとおり、ピアノと明るさだけがとりえの、まだうら若い娘。「ふざけるのも大概にしろ」とあしらえば、いつもなら、「ひどいなあ」と視線を斜め下に向けてちいさく唇を噛むのだが、その日は違っていた。

「私が往生できなかったら、藤田さんのせいですからね。ちゃんと責任取って斬ってください」

 ***

「藤田サン、よく笑うようになりましたね。ええ、まあ以前に比べれば少しは、という程度ですが。あの娘サンのことを思い出します。ほら、藤田さんのあとを小鳥のようについて回っていた彼女です。名前を何と言ったでしょうか、ええと……」

 ――みょうじなまえ。

「ああそうですなまえサンです!彼女はいったい何処へ行ってしまわれたのでしょうね」

 あの娘が俺に残していったのは、あのピアノの旋律と、笑顔と、それから。俺は視線を斜め下に向けて、ちいさく唇を噛む。彼女と過ごした日々に、何一つ愉快なことなどなかった。それでも思い出してしまうのだから、それは否定のしようがない事実なのだ。



//20151007