驚くほど自然に目が覚めた。夢のなかの出来事はこれっぽっちも思い出せないし、はたまた見ていなかったのかもわからない。
 ひどく静かな朝だ。嵐の前の静けさと呼ぼうか、なにかを予感させるような静寂が、六畳の部屋に満ちている。あたりを見渡してみても、ベッドサイドのランプから壁掛け時計まで、すべてが見慣れた私の部屋のそれである。なにもかも、この部屋――ちなみに、六階建てのアパートの、五階の角部屋だ――に越してきた日からずっと変わっていない。唯一、日めくりカレンダーの数字を除いて、だが。変わらないはずなのに、妙な胸騒ぎがするのだ。まもなく私は、その予感が冬の訪れだと気づく。雪だ。足のうらに直に触れているフローリングがつめたい。冬のにおいを吸いこむと、内臓から凍りついてゆくようだった。

 雪が降ると、あの手紙のことを思い出す。たしか、三年前。当時の私は人を殺めることを生業としていた。私にとって最後にして最高で、それでいて最低なターゲットであり、いちおう、恋人であったおとこからもらったものだ。

親愛なるナマエ様
いかがお過ごしでしょうか。こっちは変わらずやっています。どこかから切りとって貼りつけたような、なんでもない日常です。
ずいぶんと寒くなりましたね。きっと明日には雪も降るでしょう。完璧な温度と湿度のもとで六花は舞い降り、街を白に染めるのです。
さて本題ですが、貴女をディナーにお誘いしたく思うのです。レストランを貸し切りで予約します。清廉な白のクロスのうえに、美しい貴女と、ワインの色が鮮やかに映えるでしょう。何者も――月や星さえも――、我々の邪魔をすることはありません。雪は、しずかに温度を下げるだけ。私は、貴女に最高の時間を過ごしてもらいたいのです。夢か現かもわからずに、眠ってしまえればそれでいい。
明日の夜七時、貴女を迎えに行きます。
クロロ=ルシルフル

 彼が、私には到底殺し得ない相手であるということにはとうに気がついていた。それなのにずるずると、一年も彼のもとに居すわり続けてしまったのはなぜ。
 その約束の日に、私は借宿を去った。街には、朝から雪が降り続いていた。

 今日は休日で、加えて外は雪であったから、一日を部屋のなかで過ごした。どこかの国で起きたテロを、テレビをとおして他人事のように眺めながら朝食をとった。冷蔵庫の残り物で作ったリゾットだ。それから家事を適当に済ませて、先日買った有名作家の新刊を読んだり、返却期限の迫ったレンタルDVDを見たり。昼食は朝とおなじもの。夜は宅配ピザにするのもいいかもしれない。
 暗殺業から足を洗った私が手に入れた日常というのは、そんなものだ。あってもなくてもおなじような要素で成り立っている。彼のことばを借りるなら、どこかから切りとって貼りつけたような=B

 インターホンが鳴る。一時間おきに流れる壁掛け時計の音楽と、ほとんど同時だった。どちらさまですか、と扉の向こうに声をかける。

「三年ぶり、か」

 壁掛け時計の曲はメヌエットだ。これが流れるのは七時だったことを思い出す。
 髪をおろして、額の十字架はバンダナを巻いて隠す。彼がこの姿をするのはオフのときかそれを装うときだ。今日は黒のスーツをぴっちりと着こなしていて、正装といった様子だった。いかにも、これからデートの約束だとでもいうような。

「私を、殺しにきたの?」
「まさか。オレがナマエを危険因子と判断してこうして追いかけてきたのなら、面倒な手順なんて踏まずに今ここで殺しているさ」

 ひとを殺すこと、ひとに殺されることから解放された私は、それなりに平穏というものを満喫していたとおもう。ただ、恋人はつくらなかった。つくれなかった。仕事のときに身につけていた衣類や装飾品はすべて捨てたけれど、染みついた死のにおいは消えない。血の感触はいくら手を洗ってもなくならなくて、今もなまぬるく私の手を纏っている。そんな手ではだれも愛せないし、愛してはいけないようにおもわれた。
 でも、ほんとうは、この恋の有効期限がまだ切れていないと信じたかったのだとしたら。
 クロロ。ぽつり、震える声で、私は彼のなまえを呼んだ。懐かしさのような、愛しさのような、なにかが私のなかで疼く。

「私、欲しいものがあるの」
「そうか。なにが欲しい?欠けることのない月でも、きらめき続ける星屑でも、ナマエが望むものすべてをあげよう」
「ロマンチックなこというのね」

 玄関先にかけてあったコートをひっかけて、ポケットに手をつっこめば、かさりと紙が擦れる音がした。

「まずは、あなたの隣にふさわしいドレスかしら」



//20151220【アパシーズ・ラスト・ナイト「冬」】