もしかしたら、僕はおおきなまちがいを犯してしまったのではないかと、おもった。どこでまちがえたとか具体的なことはわからないけれど、たぶん、どこかで。
さいごになまえちゃんを見たのは僕の家の前だ。なまえちゃんのお母さんの愛車――色が白色だからユキちゃんなんて呼ばれていた気がする――が、ゆるやかなエンジン音とともに走ってゆくのを見たのだ。寝癖ひとつないまっすぐな髪の毛に、清楚なお化粧に、憂いを帯びた表情。こんななまえちゃんは知らない。いつも六つ子と馬鹿やってはしゃいでいる女の子と同一人物だとはおもえなかった。なまえちゃんは、松野家の前に立ち尽くす僕の姿を見つけると、驚きで顔をこわばらせた。そのあとに一瞬だけみせた泣きそうな顔が、頭にこびりついて離れない。すこしおくれて、僕は走り出した。ニートをしているのが祟って、足がもつれてしょうがない。それを抜きにしても時速60kmに追い付けるはずなどなくて、僕はまた立ち尽くした。
***
家の引き戸をたたく音がした。誰が出る、じゃんけんで決めるか、なんていうのがいつものパターンだが、今に限って兄弟たちは皆出払っている。居留守を決め込もうかともおもったが、「チョロ松、いるんでしょ」と奥の部屋で母さんが言ったので、しぶしぶ腰を上げた。はいはいどちらさま、と声をかけながら戸を引く。
「なにも聞かずにしばらく泊めてください!!!」
「えええ!!??」
この、今僕の目の前で枕を抱き抱えて頭を下げる幼なじみの少女、なまえはみょうじなまえ。いまこいつなんていった?泊めろ?って?わけがわからない。まったく状況が飲み込めないんだけど。数秒後、考えることを放棄した僕はようやく「とりあえず、あがって」といってなまえちゃんを居間へととおした。
いつもは兄弟たちで囲むちゃぶ台の前に、僕となまえちゃんは微妙な距離をおいて座っていた。時計の秒針の音だけが響く沈黙のなかでは、息づかいから心臓の音まで聞こえてしまいそうだ。
落ち着け、落ち着くんだチョロ松。まずはこの沈黙をどうにかしよう。なにか話題、なにか話題を……!
「あのね」
沈黙を破ったのはなまえちゃんだった。そしてまた妙な間をはさんでから、ちいさく息を吸う。
「あたし、お見合いすることになったんだけど」
オミアイ、おみあい、お見合い。……えええええ!!!!!!
「相手のひとは、大企業に勤めてて将来有望なひとなんだって」
うわあぜったい勝てない。
なまえちゃんはというと、うつろな瞳で畳を見ている。お見合いが嫌で逃げてきたが、そんなこどもじみた抵抗しかできない自分も嫌なのだろう。でも、となまえちゃんは続ける。
「あたしは、ほんとうに大好きなひとと結婚したいっておもう。それって、まちがってる?」
なまえちゃんは、抱き抱えていた枕に顔をうずめた。はらりと、髪の毛が一筋肩におちる。
僕は、彼女の問いに答えあぐねていた。なまえちゃんのいうことは間違ってないとおもうし、それをいって彼女を安心させてあげたかった。けれど、約20年も恋をあたため続けて、こんな状況になってもなお告白する勇気のない僕が、無責任なことはいってはいけないとおもった。けっきょく僕は、なにもいえなかった。
しばらくすると、パチンコで惨敗したおそ松兄さんが帰ってきて、女の子と遊びに行っていたトド松が帰ってきて、今日も今日とてナンパに失敗したカラ松兄さんが帰ってきて、猫と戯れていたのであろう一松が帰ってきて、ひとりで素振りをしていた十四松が帰ってきて、いつのまにか六人がそろっていた。なまえちゃんは母さんと一緒に、一松と入れ替わりで夕食の買い出しにでかけた。
お見合いを嫌がる大事な幼なじみを守るべく、第一回なまえちゃんお見合い阻止会議が開かれた。案1、このなかの誰かが彼氏のふりをする――これは全員ニートなので却下だ。お見合い相手のほうが親の信頼を得るに決まっている。案2、お見合い開場に乗り込む――これは最後の手段と言えよう。案3、なまえちゃんを幽閉する――いやいや言葉がおかしい。けっきょく、しばらくなまえちゃんをうちでかくまうということで落ち着き、会議はお開きとなった。
「おばさん! あたしもカレー作るの手伝うよ! あたし、料理は得意だから!」
「あらあら助かるわ〜! うちのニートたちとは大違い!」
「みんな家のお手伝いとかぜったいしないもんね〜〜!」
ね、となまえちゃんは僕らに視線をやった。彼女の前で今さら取り繕うのは無理なわけだが、好きな女の子の前でこれはさすがにこれはいたたまれない。母さん、今日は僕も手伝うよ! ……なんて、僕は至極単純なおとこだ。母さんはというと、じゃああとは二人でお願いねと言って部屋に戻っていった。一応いっておくが、母さんは僕に気を遣うつもりなどさらさらない。彼女は単に自分が楽をしたいだけだ。
「チョロくんってお料理できたんだねー!」
「そりゃあまあ、人並みには」
学生時代、良いようにこき使われて様々な作業をやらされた調理実習は僕にとって苦い思い出であったが、このときのためのものであったのかもしれない。真面目にやってよかった。僕は得意になって包丁でじゃがいもの皮を剥き、芽をくるりと取り除く。
僕の剥いたじゃがいもを、なまえちゃんが切って鍋のなかに入れる。はじめての共同作業といった雰囲気で、僕は幸福感に浸っていた。結婚して、同居したら、こんな感じなのかなあ。
――結婚。高学歴に高収入、顔もイケメンの部類に入るというなまえちゃんのお見合い相手。どれを取っても僕より優れているのは明らかだ。ひとつだけ負けないものがあるとすれば、なまえちゃんを好きだという気持ち、だろうか。でも、それだけではだめなのだ。きっと、なまえちゃんの隣に僕はいない。
けっきょく、なまえちゃんはうちで夕食を食べたあと、やっぱり帰ると言い出した。僕は彼女を家まで送り届けた。夜が空を喰っている。瞬く星をおおきな瞳にうつしながら、たかがお見合いで拗ねるじぶんが馬鹿らしくなった、となまえちゃんはわらった。「あたしの人生は、あたしだけのものだから」別れ際になまえちゃんが発した言葉が、やけに耳に残っていた。
僕が家に帰ってきたのを合図に、おそ松兄さんが第二回なまえちゃんお見合い阻止会議の開始を高らかに宣言したが、僕はそれを制止した。兄さんだけではなく、他の四人も驚いて僕を見た。
「もう、いいんだ」
「なんで、だってチョロ松兄さんは、」
「いいっていってるだろ」
トド松はまだ腑に落ちないといった顔をしていたが、おそ松兄さんなだめてくれていた。それからは誰も一言も発することはなく、ただ時間だけが過ぎていった。
これで、よかったんだ。赤塚先生のことばを真似て、いってみる。これでいいのだ、と。
***
あれからどれくらいたったのだろう。ただ呆然と立ち尽くす僕を見て、ひそひそと話す声がある。僕は輪廻のなかにいた。先ほどの一連の流れがエンドレスリピートしている。荒くなる呼吸、遠ざかる白い乗用車、なまえちゃんのあの表情……。
「兄さーん! やきう!」
目の前で、なにかが勢いよく動いている。ようやく焦点のあったそれは十四松が素振りをしている様子だった。そういえば、皆が僕に気をつかって今日は野球でもしようと提案してくれたんだったっけ。僕はうなずいて、十四松と一緒に皆があつまる川原へと向かった。
なまえちゃんも誘えたら、どんなによかっただろうか。彼女は女の子なのに野球が好きだった。父親の影響らしい。僕らに混ざって野球をしては、たまにとんでもないヒットをぶちかました。
「バッター、四番!」
勢いづくと、なまえちゃんは決まって四番バッターを自称していた。だから、そこは空けておくのが暗黙のルールだった。まあ、そもそもの人数が足りていないわけだが。
四番がいるわけが、ないのだ。けれどこのソプラノは間違いなくなまえちゃんで、彼女は転びそうになりながら土手を駆けおりてくる。
「なまえちゃん、なんで!?」
「逃げてきた! トイレ行くふりして窓から!!」
「窓から!?」
信じられない。お見合いから逃げてくるなんてどういう神経してるんだこの子。しかも、窓から。けれど内心、ほっとしていたんだとおもう。なまえちゃんはきゃらきゃらわらっている。相変わらずすげえ可愛い。じゃなくて。
「あたしの登場に恐れをなしたかー! あ、ちょっと待って」
唖然とする僕らを置いてきぼりにして、僕から奪ったバットを振り回していたなまえちゃんが、皆を制止した。待ってなんて言われなくても、みんな野球どころじゃないんだけど。
なまえちゃんはハイヒールのかかとに指先をひっかけて足から抜き取ると、迷わず放り投げた。なまえちゃんの、むき出しの足が芝生にうまる。指先とかかとが靴擦れを起こしてずりむけていて、血が出ていた。それは、なまえちゃんの決意のようにおもわれた。――あたしの人生は、あたしだけのものだから。彼女は文字どおり全力で、じぶんの人生を選択したのだ。投げ捨てられた靴は、ただのビニールの塊と成り果てていた。
みょうじさん、と土手の上から声がかかった。そこには、スーツを着こなした品のよさそうな男が立っていた。なまえちゃんはあからさまに顔をしかめてみせる。あふれる自信をたたえて、ゆっくりともったいぶるように土手をおりながら、彼はポケットから取り出したハンカチで額の汗をふいた。ゴミクズを見るような視線を僕らにぐるりと向けたあと、それとは打って変わり笑顔でなまえちゃんへと歩み寄る。
「やっと見つけた。さあ、戻りましょう。上に車がありますから。ああこんなに汚れて。それにしても、平日の昼間から野球とは、暇な方々もいるものだ。このような薄汚い奴らと一緒にいると馬鹿がうつりますよみょうじさん」
僕らは愕然とした。はじめは彼のことばに圧倒されて呆気にとられていたが、次第にことばの節々にある僕らを蔑む要素にいらだちを感じ始めていた。
ぱあん、と乾いた音が響く。男も、僕たちも、なにが起きたのかわからずそこに立ち尽くしていた。なまえちゃんが、男の頬をたたいた……?
「謝ってよ」
男がいちばん驚いているようだった。たった今たたかれた左頬をおさえて、こどものように目をまるくしていた。「みんなは、あたしの大事な幼なじみなの。謝って」なまえちゃんはまっすぐ男をみつめていた。
「あなたって、ひとを肩書きとか見た目でしか判断できないの? それって最低なことだよ。あんたなんかと結婚なんて、あたし、ぜっったい嫌だから!!」
なまえちゃんは、男に指をさしてぴしゃりといった。あまりに清々しいいいように、僕らのいらだちは収まっていた。なまえちゃんは、もう興味がないというふうに男に背を向けると、僕に向き直る。
「それにね、あたしは、なりふり構わずおいかけてくれるひとのほうがいいな!」
それって、どういう……?心臓がばくばくいっている。顔も熱いし、息も苦しい。思わずことばを飲み込んでなまえちゃんを凝視した。「かっこよかったよ!」なんてなまえちゃんがわらうから、ねえ、期待してもいいの?
//20160101