きみに会いたくなったら、青く暮れかけた西の空に一番星を探そう。
電源を落としたスマートフォンの真っ黒な画面には、すこし疲れたような顔をしたわたしが映っていた。平日のお昼過ぎ、最寄り駅の見慣れた改札から適当な電車に飛び乗った。ブルーみたいでグリーンみたいな、渦を巻いたわたしの心。これがマリッジブルーってやつかな、ひとりごちた声は誰の耳にも届かない。挙式は来年の六月。先週末には式場と二度目の打ち合わせを終えたところだった。ドイツからはるばる帰ってきてくれたしっかり者の恋人のお陰で、式の準備は順調に進んでいる。
きみとわたしは幼なじみで、三つのときからずっと一緒に過ごしてきた。ひらがなの練習をしたとき、自分のなまえの次に覚えたのはきみのなまえの書き方だった。てづかくにみつ。きみはむかしから何でも人以上にこなせてしまう性質で、わたし宛にちょっとしたお手紙をしたためてくれたね。もちろん、それがきみの努力の賜物であることは重々理解していたけれど、覚えたての平仮名を使いこなすきみはわたしにとって――おそらく同年代の誰にとっても――見習うべき手本のようなひとだった。
思えば、わたしはいつも、きみのうしろ姿ばかり見ていた気がする。「油断せずに行こう」が口ぐせのきみは、見れば見るほどすきがない。この真っ直ぐな背骨のように、たゆみなき努力でひとつひとつ丁寧に積み上げられて出来上がったのが、人を惹きつけてやまない手塚国光という男の背中だった。それにひきかえ、わたしは。
「俺はお前の、そういうところを好ましく思っている」
「馬鹿で要領のわるいところ?」
「何事にも真面目に取り組み、努力を惜しまないところだ」
誰よりも努力家なきみが認めるわたしの努力ってやつは、本当はそんな大層なものではない。わたしは、頑張らなければ人並みでいられない人間なのだ。チクチクと心無い言葉を言われたときなどに、それを跳ね返せるほどの自信と公正さも持ち合わせていないければ、心のなかに鉛のシャッターを下ろし息をひそめてやり過ごすということも得意ではない。わたしは、不完全な人間だから。
きみの強さの前では、なにもかも言い訳にしかならない。
青春台駅で電車を降りた。空には雲も無いのに雨が降っていた。太陽の光を反射する細い雨が、さらさらと、銀色のカーテンのようにたなびく。行き場のない感情だけを抱えて家を出たわたしは傘なんてものは持ち合わせておらず、かといって置いてきた恋人に「傘持ってきて」などと言えるはずもなかった。天気雨を振り返ると、路地裏に過去のわたしと国光の姿を見た。国光はいつも、鞄の底に折り畳み傘を忍ばせていて、予想外の雨が降ったときには、決まってその黒い蝙蝠の中にわたしを入れて家まで送ってくれた。帰り道の傘のなかでは、自分の至らなさばかりが浮き彫りになった。比べる必要がないことはわかっている。彼が、その強さを他人に強要しないことも。だけど、車道側を歩く国光の左の肩が濡れるのを見ると、わたしは惨めな気持ちになった。
雨から逃げるように適当なカフェに入った。店員は濡れたわたしを憐れむでもなく、目に見えない壁を隔てたところで人の良さそうな笑みを浮かべている。マニュアルに忠実な対応で安易に境界線を踏み越えてくることのない他人同士の距離感は、今のわたしにとっては気楽でよかった。案内された席でホットコーヒーを頼み、携帯の電源を入れた。国光からの不在着信と新着メッセージの通知が画面に並んでいる。「今どこにいるんだ」「これを見たらすぐに連絡をくれ」「何かしてしまっただろうか」すべての通知を一括で削除する。国光はなにも悪くない。罪悪感に押し潰されて、今すぐにでも国光のもとへ帰ってしまいそうになる。「今から帰るから、最寄りの駅まで迎えに来てよ」傘は一本だけ持って来てくれればいいからね、なんてせめてものわがままを言って。画面の向こうで首をかしげる彼を想像して、誰にも気づかれないように笑う。
どうしたって好きなのだ。わたしは、国光のことが、好き。好きだからこそ、本当にわたしで良いのか、よく考えてほしかった。きみとわたしの関係は確かにただしく作り上げられたものだけれど、必然と呼ぶにはどうにも根拠に乏しくて、運命とか永遠とかそういう類いのものを盲信していられる愚かで幸せな年齢もとっくに過ぎてしまった。きみとわたしは長く時間を共有しすぎたせいで、きみはわたしの長所も短所もいっしょくたになって見分けがつかなくなってしまっていると思うから。そして、わたしが一番星を探して過ごした日々は、きみが記憶の中のわたしを美化するには十分すぎる長さだったと思うから。
白いカップの底で冷えきったコーヒーを飲み干して店を出る。いつのまにか雨は止んでいた。このまま実家に帰ってしまおうかとも思ったが、国光との結婚を喜んでくれた両親に心配をかけるのは本意ではない。白いため息を飲み込むと、冬のつめたい空気が喉を刺す。魚の小骨がつかえたときのように咳払いをした。吐き出すことも、飲み込むこともできない。こうしてひとりでどれだけ考えたところで答えの出ない、あるいはとっくに出ている、子どもの我儘のような問いを何度も繰り返す。矛盾だらけの感情のあいだで方向感覚を失いながら、それでも足は止まらない。
学生時代によく寄り道をした、学校と自宅の中間地点にある公園は、夕方ということを除いてもどこか閑散としていた。辺りを見渡すと、隣にあったはずの一軒家がなくなっていることに気づく。フェンスの向こう側の空き地に立つ売り地の看板はまだ新しい。ほんの数年で町並みも変わってしまうのだから、人の心など計り知れない。時の流れ以上に確かなものなどありはしないことを思い知らされる。公園の時計の針は四時を指していて、文字盤の下に付いたスピーカーからノイズ混じりの『ゆうやけこやけ』のメロディーラインが寂しげに鳴る。冬の落日に合わせてやや早めの時間に流れるこの曲のとおり、西の空がオレンジに燃え始めていた。青学の制服を着た少年少女たちが、すれ違いざま、平日にひとりぼっちで公園に立ち寄る大人を物珍しそうな目で振り返った。平日に休暇を取るのって、案外そう難しいことじゃないのよ。滑り台の頂上まで階段を登って、彼らの背中を見送る。義務教育真っ只中の青少年たちには到底想像もつかないことだろうし、当時のわたしだってそうだった。
緑色のフェンスの前に二つ並んだブランコの、右側に腰かける。頭上から金属の軋む音がした。所々が赤茶色に変色した鎖を掴んだ手には、あっという間に錆びのにおいが移ってしまう。広げた手から血のようなにおいがして顔をしかめる。こうなることくらい、わかってたはずなのに。大人になったら、幼稚で感情的な部分は心の奥に沈殿させることができるようになって、もっと体系的に、あるいは論理的に――などと難しい言葉を並べてみたが、つまりは彼のように――物事を考えられるようになるのだとばかり思っていた。錆び付いた鎖をもう一度握りしめる。
名前を呼ぶ声がする。国光の声。目が合うと、もう一度名前を呼ばれた。二度目の呼びかけは、一音一音にしっかりとした質量を乗せた発音だった。心の水面を突き破って落下して、無理やり底に沈ませていたものを舞い上がらせる。
「やはり、ここだったか」
「なん、で」
「お前はいつも、なにかあるとここに来ていただろう」
たとえば飼っていたハムスターが死んだとき、母親と喧嘩にもならないような言い合いをしたとき、中学最後の部活の大会で負けたとき。なんでそんな、昔のこと覚えてるの。彼に愛されていることを自覚してどうしようもなく泣きたくなった。いつだって迎えに来てくれるのは国光のほうで、どうしてこんなにも、きみとわたしは対等でいられない? ブラックコーヒーを飲み干したって、階段を三段飛ばしで駆け上がったって、きみの隣には並べない。
「わたし、国光が思うような人間じゃない」
「俺も、お前が思うほど完全な人間ではない」
顔を上げると、夕陽が国光のうしろから差していて思わず目を細める。一度完全に瞼を下ろしてからゆっくりと目を開けて、国光をみつめる。急いできたのだろうか、前髪は乱れ、額には丸い汗が浮かんでいた。思慮深くわたしを見つめる瞳には、焦燥。やや血色のよい頬には、安堵。
「頼むから、急にいなくならないでくれ」
「うん」
「俺は、これからもお前のそばにいてもいいだろうか」
「……うん。うん、ごめんね」
国光の隣に並んで、国光の右手に自分の手をそっと滑り込ませる。手のひらは広くて、そこから伸びる指はすらりと長く、爪は丁寧に切り揃えられた手がすぐに包みこんでくれて、わたしも握り返して歩き出した。国光が踏み出した一歩は思いのほか大きかったが、すぐにわたしに合わせて速度を緩めてくれる。公園を出ようとしたとき、国光がおもむろに足を止めてわたしを見つめた。
「……すまない。お前にそばにいてほしいのは、俺の方なんだ。どうかこれからも、俺のそばにいてほしい」
きょうも一番星はかがやく。青くとうめいな夜を連れて。「どこだ」「あそこ、電信柱の斜め上」うまれてはじめて、掴めそう、なんて思った。ぎゅっと、握り直した手のひらが熱い。
暮れてゆく橙色にもう未練はない。アスファルトに伸びるふたりの影を侵食してゆく藍色の夜だって怖くない。ねえ、わたし、ようやく幸せになる準備ができた気がするよ。
//20201231