午後七時、部室の四角い窓に切り取られた空は、橙とすみれ色が溶け合っていた。夏が立つと書いて、立夏。少しずつ遅くなってゆく日の入りが、たしかにその予感を告げていた。石鹸の制汗剤を纏わせた腕を学ランに通した僕は、あっ、とちいさく声をあげた。「不二、どしたの?」英二が首をかしげて覗きこむ。

「忘れ物を思い出したんだ」

 手早く荷物をまとめて部室を出た。すこし歩いて立ち止まり、本校舎の奥にある芸術棟の窓が青く浮かぶのを見上げる。この棟は、文武両道≠掲げる青学が、運動部ばかりが優遇されている状況(といっても主にテニス部のような気がする)を打破するために建設され、今年の春休みに完成したばかりだ。1階の講堂の音響がとても良いらしく、吹奏楽部の部長さんが喜んでいたっけ。
 磨硝子すりガラス様の空気が、世界の輪郭を滲ませる。しずかな重さをともなって、あたりに満ちる。黄昏――誰そ彼。前方にいた女子生徒の黒い髪が風に揺れた。

「みょうじさん」
「あっ、不二くん」
「どうしたの。君も忘れ物?」

 なんでわかったの、と僕を見上げるみょうじさんを見て、思わず笑ってしまった。わかるよ。校門へ向かう生徒たちの流れにわざわざ逆らって進む理由なんて、少なくとも僕にはそれくらいしか思いつかない。彼女はというと僕を超能力者かなにかと勘違いしているのか、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。そうやって、ながい睫毛を揺らして色とりどりのちいさな砂糖菓子の星をうみだす君のほうが、よっぽど魔法使いのようだけど。

「でも、こんな時間に取りに戻って、先生たちに迷惑じゃないかなって思って」
「ふたりなら大丈夫だよ。急いで取りに行ってしまおう」

 途中、玄関前ですれ違った教師に忘れ物を取りに行く旨を伝えて、僕らは校舎に入った。僕も彼女も素行が良かったので(彼女にいたっては学年で一番二番を競うほどの成績優秀者だし、前述した吹奏楽部の部長でもある)眉をひそめられることもなかった。地面に縫いつけられたふたつの影だけが、僕らの後をついてくる。

「まさか、忘れ物をした場所まで一緒だなんてね」

 僕の右手には、第二理科室の鍵が握られている。鍵を借りるために立ち寄った職員室に残っていたのは、次の大会のオーダーに頭を悩ませていたのであろう竜崎先生で、僕らの姿を見るなり「おやおや」と冷やかすような視線を寄越した。みょうじさんの新雪のように白い肌に、たちまち朱が広がるのを視界の端で見た。苺にも林檎にも負けないくらいの愛らしさと赤さを凝縮してうろたえる彼女が可笑しくて、僕からはノーコメント。出入り口の引き戸を閉めるその瞬間まで微笑みを絶やさずに、その場を後にしたのだった。

「あの人はああやってなんでも恋愛に結びつけて楽しんでるんだから、反応したら思う壺だよ」
「だって、不二くんがなにも言ってくれないから……!」
「ははは、ごめんって」

 渡り廊下を渡った先にある北校舎三階、中庭に面した教室が第二理科室だ。鍵穴を回して、扉を開けた。僕が先に部屋のなかへ踏み出し、彼女は三歩遅れてその後につづく。木製の戸棚の横を通ると、中にある玻璃製の容器の内から歪んだ像が映った。硝子窓で濾過された月明かりが、教室の一番奥にある人体模型の表面を青白く浮かび上がらせる。
 理科の実験は五人一組の班で授業を行うのだが、僕とみょうじさんは同じ班だった。きょうの5限、僕らが座っていた場所へ辿り着き、テーブルの下に備え付けられている荷物置き場を覗く。僕の教科書と、みょうじさんの筆記帳ノート。ふたりぶんの忘れ物がすまし顔で鎮座していて、思わず顔を見合わせて笑った。

「もう、すっかり夜だ」

 外に出たとき下校時刻はとうに過ぎていて、僕ら以外の人影はなかった。僕の学ランも、みょうじさんの黒髪も、ふたりの革靴のつま先も、みんな夜へと向かっている。すみれ色の天蓋には、一番星を中心にして幾つもの星が浮かび始める。

「不二くんがいっしょにいてくれてよかった」
「うん?」
「夜の理科室って、ちょっと怖くて。だから、ほんとうはあのとき、取りに戻るか迷ってたんだ」

 ありがとう、と言ったみょうじさんの黒目がちの双眸は、月も星も飲みこんだようにきらきらと輝いていた。この世のだれも知らない宇宙を、僕だけが見ている。君がひとつ瞳をまたたく度に、せかいがうまれかわる。

「どういたしまして。でもそのおかげで、ほら、星も見れた」
「星、好きなの?」
「うん。好きだよ」

 好きだよ、とわざと勿体ぶって発音してまっすぐに瞳をみつめると、すぐに俯かれてしまった。――ねえ、君の宇宙を、いつか僕に抱かせてくれるかな。真っ赤な耳を横目に見ながら、目を伏せる。気づかれないように笑った。魔法でできた砂糖菓子のような夜を、僕は忘れないだろう。


//20200513