悲しみは侵蝕する。見渡す限りの世界へ、ずっと。硝子窓を通過する鈍色の鐘の音。ゆうべまで降り続いていた雨を含みひそやかに息づく土のにおい。寂寞とした白大理石の墓石。墓碑にはアルバート家の家紋と、交差した剣の装飾が彫られた。心優しく勇敢な剣士だった青年は殺されたのではなく、戦って死んだ。腹部から背中側まで貫かれた刺創はあまりにも空虚で、抵抗の跡は微塵も感じられなかった。
誰もがやりきれない思いを抱えた。ある人は世も末だと嘆いた。ある人は残された彼の家族を憂いた。そしてある人は――
「兄さんは言ったわ! 自分の信じた道を進め、ってね」
花びらのように儚い唇が象った言葉はあまりにも重く、一緒に南の大陸へと渡るには途中で船が沈んでしまいそうで。――敵討ち。彼女、ゼシカ・アルバートの兄で、わたしの婚約者であったサーベルト・アルバートが何者かに襲われ、命を落とした。わたしは、アルバート家の家訓に従い屋敷の自室で追悼の日々を過ごす間、庭の草木が目を覚ます朝も月が子守りをする夜も忘れて泣いていて、磨硝子のように薄暈けて歪む視界で、サーベルトさんの夢ばかり見ていた。白昼夢。夢の中で、サーベルトさんは生きていたり、死んでいたりした。扉を三回叩く音がして、真鍮の取っ手を回すと目の前に立っていたのはゼシカちゃんだった。「私はもう行くけど、あなたは好きにするといいわ。兄さんも、そう望んでる」造作もなく選択を投げられる。悲しいくらいに似ている兄妹だと思った。いっそ、連れていってくれればよかったのに。空のうえでも、海の向こう側でも、大地を駆け抜けた先でも、このせかいのどこかに、あなたを見つけられるなら。
縹渺とした悲しみは、この水平線を境に消えてなくなってしまうのではないかと思ってしまうほどに、ポルトリンクの埠頭から見る海は果てしなく綺麗だった。つい昨日まで航路を塞ぐように暴れていたという魔物も、勇敢な旅人たち――エイトさんとヤンガスさんといって、サーベルトさんを殺害した犯人でもあるドルマゲスという道化師を追っている人たちだ――の剣と斧でこらしめられて、改心して海の底へと帰ったという。灯台守の長い夜が明けた。朝陽が水平線から燦爛と光を放ち、水面に反射してきらめく。光の粒が散りばめられた背景に、見慣れた後ろ姿があった。彼女もまた、湿気で鬱蒼とした敷布の海を抜け出して、この幾浬かの水平線を眺めていたらしい。
「ゼシカちゃん」
呼びかけるわたしの声で、オレンジ色のツインテールが揺れる。振り向いた瞳が驚きで見開いて、すぐに駆け寄ってくる。
「ナマエ! 潮風は身体に良くないわよ」
「ゼシカちゃん、あのね、あなたに、忘れもの。届けに来たの」
敵討ちなんて、血を血で洗うだけの仄暗い生産性の無い行為かもしれないけれど、けっきょくそれは死んだ人のためじゃなく生きている人のためのものだから。あなたが進む、あなたの為の旅路。港町ポルトリンクから船出を祝おう。この船出というのはただ地図上の座標を横切るだけのものではなく、あなたにとってはけっして心穏やかなものではないかもしれないけれど、それならば行く末を照らす安らかであたたかな光を。ゼシカちゃんの頬を両手で包む。夜の名残か、すこしつめたい。手のひらに魔力を込める。わたしのいのちを、あなたにあげる。だって、サーベルトさんはわたしの世界だったから。サーベルトさんが大切にしていた彼女を、わたしは。
「待って、あなた、馬鹿なこと考えてるでしょ! 私の言ったこと、忘れたの? 確かに好きにしろとは言ったけど、私の目の前で死ぬなんて絶対に許さない。私の知らないところで死ぬのはもっと許さない! この先、カタキを討ったとして、どんな顔で兄さんに会えって言うの!?」
ゼシカちゃんは声を荒げてわたしを突き放し、西陽に顔をしかめるときのようにぐっと顔を歪める。その仕草があんまりにも綺麗で、わたしは思わず瞼を見開くようにして熟と見つめてしまった。急に怒られたので驚いたせいもあるかもしれない。ゼシカちゃんが手を差し出す。掴もうとしてわたしも片手を上げようとするけれど、ロングスカートの曲線に沿ってぶら下がったわたしの手はからっぽのまま、きわめてわずかに指さきが震えただけだった。ぱっと、ゼシカちゃんの手のひらがわたしの指を包みこむ。
「ナマエのことは、私が守るわ。だから、一緒に行きましょ!」
こんなにも世界がぐんと広くて、闇は昏昏と深いことを、わたしははじめて知った。たくさんの人が死んだ。そのいくつかに立ち会った。わたしとゼシカちゃんの大事な人が、大勢の人に慕われた名のある慈善家が、死んだというのにこんなにもちゃんと時間は過ぎて、わたしたちは仲間を増やして旅をしている。新しい仲間、ククールさんもまた、侵蝕する悲しみに翻弄された一人だった。
ドルマゲスを倒してこの世のすべての悲しみが眠りについた後、立ち尽くすゼシカちゃんを、ぎゅう、と抱きしめてあげようと決めていた。ほんとうは誰より優しい彼女が、自分を見失ってその旅路を意味の無いものだったと無に返してしまわないように。「あいつを倒したところで、兄さんは生き返らないのよ。しょせんカタキ討ちなんて……」そのために、わたしがいたのだから、ナマエのためにやったんだ≠チて、そう言ってくれて構わなかったのに。はんぶんを背負う覚悟、わたしはとっくにできていたよ?
闇の遺跡を後にしてサザンビークの宿屋に戻ってから、ゼシカちゃんとは一切の言葉を交わさなかった。おやすみも言わずに寝るなんてはじめてで、瞼を下ろしてもなかなか眠りにつくことができず、浅い微睡みの中でただ身体を横たえていた。格子窓の外で満月がかがやく気配がする。つめたい銀色をした光に胸がざわついて、あたりに意識を澄ました。隣の寝台から寝息は聞こえてこない。洋燈に火を灯したあとの、燐寸の燃えさしのにおいがする。……ゼシカちゃん?
「ただ、こんなふうにあなたたちを死なせてしまうなんて、すこし悲しいわね」
じりじりと、責め立てるような後悔が、靴底から駆け上がり全身に満ちる。満ちみちて、瞳にあふれて、止め処なく遂にはこぼれる。すくうものはなく、ぼろぼろとこぼれ落ちて、声をあげて崩れ落ちた。
悲しみは、侵蝕する。
//20210707