愛称というのは、たまに、本当のじぶんをどこか遠くへ追いやろうとする呪文のようにきこえる。もちろん、親しみを込めているのだということはわかっている。知り合って早々、おれのことをスガと呼ぶみんなは、とてもフレンドリーなのだと解釈しておくことにしよう。

「菅原くん。これ」

 おれの苗字のあたま二文字でぶっきらぼうに切った呼び方じゃなくて、すがわらくん、そう最後までひとつひとつ紡ぐなまえの薄桃色のくちびるが、すきだ。そりゃあもう、自分のくちびるを押し当てて酸素も二酸化炭素も共有したいくらい。どこかよそよそしさを残した呼び方は、きらいだけれど。それでもまわりとおんなじ呼び方されるよりは、ましかなあ。
 なまえに手渡されたのは数学の教科書だった。表示には黄色のふせん紙でありがとうが貼ってある。隣のクラスの友人に貸していたものだ。

「お、受け取っておいてくれたの?サンキュー! てゆうかなまえ、その菅原くんっての、やめない?」
「うーん。そんなこと言われても、もう慣れちゃったしなあ。今からでも、スガって呼んだほうがいい?」
「それは、だめ」

 じゃあおれ、部活だから。手をひらりと振って教室を出てすぐ、「菅原って」と呼び止められた。

「臆病?」

 扉の横、右下の画鋲が外れた保健委員会のポスターを折れないように押さえて寄りかかっていたのは、清水だった。きりりとくりぬかれた瞳は、無表情に呆れを添えて光っている。

「からかってるだけだよ」
「……自意識過剰」
「清水は、盗み聞き?」
「澤村に用事があるだけ」


 臆病、かあ。一定の間隔を保ってぼんやりとあたりを照らす街灯を眺めながら、清水に言われたことを思い出していた。一緒に帰っていた部活仲間たちとは、つい先ほど十字路で別れた。風のない夏の夜を満たす空気によく似た、なまぬるい温度の関係は、嫌じゃない。なぜこの温度のなかに、ふたり浮遊していられるのかと考えてみると、それはやはりおれたちが互いを想いあっているからなのだろうという結論に達する。自意識過剰ということではなく。おれは今、おれに恋する名前の表情の移ろいを見るのがマイブームだったりする。だけれどそれは、自分の中で合理化して導きだした建て前で、本当は清水の言うとおり、臆病なだけなのかもしれない。
 いつもなら駆け足で渡ってしまう点滅した青信号を、今日は見送った。後ろから、足音が近づいてくる。あからさまに存在を主張するわけでもなく、隠すわけでもなく、それでいてひっそりとローファーの底がアスファルトを蹴るような音だ。

「すがわら、くん。部活、おつかれさま」

 おれのななめ後ろで止まった足音の持ち主は、なまえだった。帰り道でなまえと会うのははじめてだったから、こんな時間まで何をしていたのかとたずねれば、図書室に長居しすぎたのだと恥ずかしそうに微笑んだ。

「なまえ、また菅原くんって呼んだ」
「だって、スガはだめなんでしょ?」
「おれには菅原孝支って名前があるんだから」
「菅原くんはみんなにあだ名で呼ばれてるでしょ。だから、下の名前を呼んでもらうのはとくべつな人だけにするのがいいと思うな」

 おれはぱちくりとまばたきをした。信号の色の変化に目がついていかなかったとか、そういうわけではない。おれだって、そう思ってるよ。だから、なまえにこういう話を持ち出してるんでしょ。自分がそのとくべつ≠ノなりたいって、言ってみせて。

「おれ、なまえだけなんだけどなあ。下の名前で呼んでる女子って」
「うそ。潔子ちゃんは?」
「清水のことは、清水って呼んでるじゃん」
「そ、そっか……たしかに」

 曲がり角に立っている止まれの標識に従うように、なまえは立ち止まった。アスファルトとローファーの靴底の間で、じゃりと砂を鳴らして。


「ばいばい孝支くん。また明日」

 標識の横をするりと抜けて、街灯が減って薄暗い道のむこうへと早足で行ってしまうなまえ。止まれ、とまれ、トマレ。おれの心臓。うるさいから早く、止まれ。ああでもそうしたら、死んじゃうか。今が夜で、なまえも背を向けていて、よかった。室内スポーツの部活のせいで、あまり日に焼けていない肌には、赤が目立ってしょうがないだろうから。
 こうしくん。なまえの声は、まだおれの両耳をおおうように反響して残っている感じがする。これから毎日、その声はあたらしいものに塗り替えられてゆく。朝の眠気を含んだ声、体育の後の熱を残した声、授業中のひそやかな声。それらのひとつひとつを想像していたら、脳みそが破裂してしまいそうだ。実際に聞くほうが、早いに決まっている。

「また明日な、なまえ」

 聞こえていなくたっていい。ただおれも、きみのなまえを呼びたくなったんだ。



//20140827【赤色ラブコール】