※江ちゃんとの同性愛表現注意。



 凛は少しずつ、それでいて確実に、私からはなれていった。となりの席から、となりの町へ。となりの町から、海の向こうへ。凛が乗ったオーストラリア行きの飛行機が空港から飛び立ってしまってから、三回ほど朝を数えた日だったとおもう。私は、それを江ちゃんの口からきいた。立ち入り禁止の学校の屋上で、白線を引いて飛ぶ機体のかげをながめながら。ひこうき雲は傷痕のように生々しく、見ているだけで心臓がずきりと痛んだ。凛がなにも言わずに行ってしまったことに少なからず傷ついたとはいえ、本当にひっかき傷が付いているわけではないのに。「なまえちゃんには、出発するまで言わないようにって、お兄ちゃんに言われてて…」そう言って江ちゃんは眉をさげて、ちいさく震えるくちびるを噛んだ。

「江ちゃんは、いなくならない?」
「え、」

 一瞬、驚いたように見開いた目のまんなかに、ルビーのひとみを取り残した江ちゃん。その次はなぜだか、涙をあふれさせた。そうしてぎゅうと私をとらえるようにして抱きしめた。

「行かないよ、どこにも。わたしは、なまえちゃんのそばにいる……っ」

 お兄ちゃんじゃなくて、ごめんね。私の胸に顔をうずめた江ちゃんの声は、服の布地に吸い込まれた。わるいのは江ちゃんじゃなくて、ほんとは弱いくせして格好つけたがるバカ凛なのに。それをちいさな背中にぜんぶ背負いこんで、江ちゃんは泣いた。おしつけられた荷物に押しつぶされそうになっている江ちゃんの口から、嗚咽が漏れる。

「ありがとう、江ちゃん」

 互いにすがるように抱きついて、私たちは一緒になって泣いた。涙も泣き声もどちらのものかわからなくなって、ふたりのそれぞれの思いだけが心に溜まっていた。
 あの日から、私のなかで紅色の髪の毛はひとつになったのだ。凹凸の合わないジグソーパズルのピースを無理矢理にはめこんで。それでも、どこか品のある赤髪と、裏表のない笑顔と。それだけで、私にはじゅうぶんだった。


「どうかした、なまえちゃん」
「ううん、なんでもない」
「嘘。わたしのこと、見てたでしょ?」

 風になびく紅いポニーテールを、針金をとおしたようにくっきりと整った鼻筋を、肘までまくったブラウスの袖からのびる白い腕を、見ていた。私のなかにひとつだけのはずの紅色が、ゆらり揺らぐ。

「なに考えてたの?」
「江ちゃんのこと」
「それも、嘘。……お兄ちゃんのことでしょ」

 私は江ちゃんの腕へと手をのばした。ブラウス越しに、江ちゃんの体温が私の指先をじんと刺激する。すこし力を加えただけでふにゃりとかたちを変えて、それでいて内側から押し返してくるやわらかな二の腕は、おんなのこのそれだ。凛をとなりに感じようとしているわけではないと言ったら嘘になる。だけれど、からっぽになった私の指と指のあいだを埋めるように絡ませてくれる手だとか、思いきり当たってもスポンジみたいに涙から衝撃までぜんぶ吸収してくれるやさしさだとか、そういう江ちゃんのひとつひとつに溺れているのも、また事実。

「わたしは、なまえちゃんのことが……」

 江ちゃんは何度も、綺麗に顔を歪めて言った。自分は最低だ、と。その意味がわからないほど私は馬鹿ではなかった。だから私は決まって、こう返した。お互い様だよ、と。

 そうやって、凛のいない日常は過ぎていった。


「久しぶりだな、なまえ」

 高校二年生になる前の春休み、散歩がてらコンビニへ行ったときのことだ。私の家の前で、彼は私の帰りを待っていたかのようだった。待っていたのは、私の方だというのに。凛は、いくらか伸びた赤い髪を首もとに持て余して、随分と大きくたくましくなったからだを扉の横にあずけていた。

「なんでいるの」
「江から聞いてないのかよ」
「……なんにも」

 そうか、と小さな声を泳がせた凛は壁から背中をはなした。凛の身長は、おもったよりも高かった。見上げる高さが、私と凛が離れていた年月をそのままあらわしているなあと、おもった。

「俺のこと、嫌いになったか」
「私が凛のこと好きだったみたいな言い方だね」
「俺はお前が好きだ。今も、昔も」

 凛は昔に、私を好きだと言った。まだランドセルも背負っていない頃のはなしだ。そのことばの有効期限は、どうやらまだ切れていなかったらしい。もっと早くに、それを確かめさせてほしかった。曖昧なものをいつまでも信じていられるほど、私の気は長くない。不格好な両思いを続ける私たちのとなりで息をひそめていた江ちゃん。だから凛がいなくなったその直後、愛に飢えた彼女に私はいとも簡単に捕らえられてしまったのだ。


『なまえ、ちゃん』

 いつもより長いコールの後、つながった電話越しの江ちゃんの声は、あきらかにいつもと調子がちがっていた。

『ごめん、なさい。ごめんなさいなまえちゃん……!』
「私、まだ何も言ってないよ」
『言わなくたってわかる。わたし、お兄ちゃんが帰ってきたこと、わざとなまえちゃんに伝えなかった。なまえちゃんの中にはずっとお兄ちゃんがいて、わたしはその代わり……そんなのわかってた。それでもいいって、思ってたの。わたしは本当に、なまえちゃんのことが好き……!』

 江ちゃんの声は、少しずつ苦しそうになっていった。屋上で凛のことを話した、あの日とおなじだ。江ちゃんは、心の海に苦しさの碇をしずめて、私をのせる船をうかべたのだ。出航するために引き上げた、重たく錆びついた碇。それが喉をひっかいているのかもしれない。

「たしかに、私は江ちゃんを凛の代わりにしようとしてた。……謝るのは私の方だよね、本当にごめんなさい。でもね江ちゃん、これだけは覚えていて。私、ちゃんと江ちゃんのこと好きだった時期、あったんだよ」
『……ありがとう。でもそんなの、意味ないよ』

 さようなら、なまえちゃん。しずかにそう言った江ちゃんは、通話といっしょにぜんぶを終わらせようとしていた。江ちゃんが、こんどこそはしあわせな恋ができますように。そんな願いをかけるだけだなんて、まるで他人事だ。私には、江ちゃんを最期まで見届ける義務があるような、そんな気がしていた。おんなじ罪を犯して、私だけが報われるだなんてことは、あってはならないのだ。江ちゃんは、ずっと私のそばにいると言った。江ちゃんは、その役割を凛に返してしまったかもしれない。それでも、私は。たとえ江ちゃんが私のそばにいてくれなくても、私は江ちゃんに寄り添おうと、そうおもった。矛盾しているようでも、それしか私にはできないから。

 凛は、もう私から離れることは決してないと言った。肩の骨がきしむ音がきこえてきそうなくらいに私のことを力強く抱きしめて、私を離すつもりもない、とも。

「凛が18歳になったら、結婚したい」
「いきなりどうした」
「だってそうしたら、江ちゃんが妹になるでしょ」
「なまえは本当に、江のことが好きだな」
「好き、だったよ」

 私が過去形に直したことばに、凛は眉をひそめてみせた。
 凛は、オーストラリアに行った。そこで一度は挫折を味わった。私は、江ちゃんと愛し合った。そう言ってしまえば、すべて思い出になる。海で拾った白い貝殻。涙でぐしゃぐしゃな顔でうつった卒業写真。江ちゃんとのことだって、涙といっしょに小瓶につめこんだ。たまにそれをゆらりと揺らして眺めればいい。ほら、美しいでしょう。

 だから、今の私を愛してね。



//20141115【だから今の私を愛してね】