わたしは、白羽麗は、ふつうの女子高校生である――1年留年したことと、天才高校生≠ニ呼ばれる漫画家であることを除けば。それは普通≠ニは言わないのでは?といわれてしまいそうだけど、案外そうでもない。制服に腕を通せば、高等学校という集団に属するひとりの少女以外の何者でもなくなるし、きょうは金曜日で1週間のおわりだから、すこしばかり軽い足取りで登校した。それから部活は帰宅部で、放課後はアルバイトをしている、なんていってしまえば、それはやはりどこにでもいる女子高校生の日常そのものであるのだから。
朝のHR後、ざわめく教室のなかで、わたしは一枚の紙をみつめていた。これは先日受けた模試の結果で、大学受験に積極的でないわたしにはあまり関係の無いものではあるのだけど、他の生徒たちの士気に関わるとのことで、一応受けるようにといわれたものだった。しかし前述のとおり、特に行きたい大学もないので、志望校の欄には適当な美大と、ちょっと良い私立の文学部を書いておいた。結果はというと、前者はB判定、後者はD判定。全国順位は……聞かないでほしい。いくら関係ないとはいえ、こうして大きく順位が出されるのはジャンプの読者アンケートに似ていて、だから少しだけ悔しくて、ちいさくため息をついた。それが聞こえたのか、「結果、どうだった?」と前の席の友人が振り向く。
「び、びみょう、かな」
「うそ! 判定悪くないじゃん! いいなあ、私なんて……」
ちいさく肩を落とす少女、頭を掻く隣の席の少年、この模試で全国一位だった誰かさん。みんなにとって、この結果は少なからず人生に影響を与えうるものであって、ゆえに一喜一憂している。それに、ほんのすこしの疎外感を感じてしまう。始業のチャイムを聞きながら、わたしは曖昧に微笑んだ。
最近、なにもかもあまりうまくいっていない、ような気がする。
例の模試だって、一応それなりに勉強してから臨んだはずだったのに、結果は散々だった。
漫画のほうも、吉田さんから読み切りのネームを出すようにいわれているけれど、いざ描き終えたそれは漠然となにかが足りないように思われて。一か八かで見ていただいたところ、「面白くないわけではない。けど、きみは面白いと思っていないんだろう? 俺も、きみならもっと良いものが書けると思っている」とボツをくらってしまった。わたしの迷いまで見抜いてしまう、吉田さんの洞察力というか、審美眼というか、そういう類いのものにはいつも驚かされる。
それならばせめて絵の練習を、と描いてみても、猫一匹ろくに描けやしない。それでも毎日何十枚も、文字通り寝る間も惜しんで、暇さえあれば描いて。納得のいくものが出来なくてつい筆を置いてしまいそうになるけれど、それでも描かなくちゃ、というプレッシャーが更なる焦りを呼んで、また、ぐるぐる、抜け出せない。
窓の外、晴天のなかで弧を描きつづける鳶に、まっすぐに進めないのはもどかしくないのかなあ、なんて思いを馳せてみた。……これが、スランプ、というやつなのだろうか。
「白羽。絵は美術の時間に書きなさい」
……怒られた。
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「おつかれさまでーす」
「お、白羽くん来たか。おつかれ。早速で悪いんだが背景、頼む」
「了解しました!」
わたしが福田さんのアシスタントをするようになって、ふた月ほど経った。ベタ、ホワイト、トーン、効果、モブキャラ、背景。特に難しいことをしているわけでもないし、エイジくんのところでもやっていたことなのですぐに仕事には慣れたけれど、「もっと適当に描いてくれ」というオーダーには少し困らされた。その後の巻末ページのコメントに『Aの絵が上手すぎて困る! もっと手を抜けとあれほど!!』なんてネタにされたときには、流石に笑ってしまったけれど。
「どうしたら白羽さんみたいに描けるようになりますかねえ」
「バッカ安岡、比べる相手間違ってんぞ」
「天才高校生、ですもんねえ」
「あはは……」
いまのわたしには、その呼び名は烏滸がましいにもほどがある。いつまでもそうやって煽ってくる編集部も、悲劇の天才高校生≠ナあるわたしが、これからいったいどうなるのだろうと、同情に好奇心を滲ませているように思えてならない。ほんとうは、そんな大層なものではなくて、ネームに頭を悩ませて、連載を夢見ながらアシスタントをしている、ただの漫画家の端くれに過ぎないのに。
「……安岡。ちょっと早いが、上がっていいぞ。どうせ俺のペン入れが終わらない。明日までには終わらせとく」
「了解しました! お疲れ様でした!」
「白羽くんは俺が送ってくから、ちょっと待ってて」
「それなら、わたしもまだ仕事しますよ?」
「残業代は払わねえぞ」
「えぇ、そんなつもりじゃ……」
「いいから大人しく待ってろ」
打ちっぱなしのコンクリートの隙間に嵌め込まれた窓から、落陽が斜めに差し込んでいる。それがちょうど頭の片側を照らすところに配置されたソファーに腰かけて、福田さんの仕事を見ていた。時折悩む様子を見せながらも、真面目な表情でペンを走らせる福田さんが、かっこいいなあなんて思った。
ペン先がケント紙を引っ掻く音、パイロットの洋墨の小瓶にペン先を沈める音、その縁で余分な洋墨を落とす音、洋墨の匂い、ふたりぶんの呼吸。そうして穏やかに過ぎてゆく時間が心地よくて、わたしはしずかに目を閉じた。
「……麗!」
目を覚ましたときには、斜めに照りつけていた落陽の残照も無く、夜の緞帳がおりていた。
「寝ちゃってましたか」
「そんなに長くは経ってねえよ。せいぜい2時間くらいだ」
福田さんのデスクの上には、メインのペン入れの済んだ原稿が置かれている。わたしが眠ってしまう前に見ていたものとはコマ割りが違うから、それとは別のページだ。
「ちったあ顔色良くなったか」
そういって、わたしの頬を片手で包み、かおを上に向かせる、その手つきはけっして強引ではないのに、わたしは身動きが取れなくて、「え、」とちいさく声だけを漏らした。どきどきと心臓の音がうるさい。福田さんの手が、やさしく頬を撫でる。
「ここ最近ひでー顔だったぞ」
おまえはがんばってるよ、というふうに、大きなてのひらが頭のうえに置かれる。いつだって、わたしをあたためるのは、すくうのは、この愛だった。この手だった。福田さんは、どこまでも真っ直ぐな人だ。不器用で、一言多かったり少なかったりすることもあるけれど、彼のことばの構成成分のなかに嘘≠ネんてほんの0.001%も含まれていなくて。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられて、不意に泣きそうになる。
「腹減っただろ。メシだメシ! なんか美味いもんでも食べに行こうぜ!」
少しだけテレビに取り上げられたことのある、小洒落た焼肉屋に出掛けて、「またバイクで来ちまったなあ。これじゃ酒が飲めねえ」なんてセリフは、もう何度目だろう。帰り道にコンビニに寄って、500mLのロング缶のビールを買うのももはやお約束だ。そしてきまって、「麗はなにか飲む?」と聞いてくれて、きょうは「じゃあ、カフェオレでおねがいします」といえば、さっきまでわたしが見ていた新発売のショコラオランジュもいっしょにカゴに入れて、「りょーかい」と答える。
福田さんのバイクのうしろで、頬を駆け抜けるつめたい夜風を感じていたら、あたまのなかにかかっていた霞が晴れてゆくようで、背中に向かって、ありがとうございます、とつぶやいた。ずっと悩んでいたネームも、明確に描きたいもの≠ニして脳内に浮かび上がってきた。
「福田さん! ネーム! できました!!」
「できた? まだ描いてもいないのに? にしても急だな。新妻師匠といい、ほんと頭ン中どうなってんだか。で、どんな話?」
「ひみつ、です!」
「んだよ、焦らすなよ。……ま、いいや。楽しみにしてるぜ、白羽センセ」
それは、すべての夢追い人に捧げる、夢をかたちにする少年たちの幻想奇譚。
この世のすべての純真をあつめてできたような彼女は、はじめて見たものに目をかがやかせたり、遠くで鳴ったクラクションに肩を揺らしたり、それに対して「事故かなあ」なんて心配するしぐさをしたり。人一倍感受性豊かで、そのうえで尋常じゃないくらい綺麗に笑ってみせる。ただしくあまやかされて育った、やさしい少女――麗。おまえってやつは、どこまでもうつくしいよ。
//20191103