「白羽くん、新妻くんのアシスタントに入ってもらえないかな」
ふいに、さっきまでせわしく動いていた空調の室外機の音がやんだ。時計の秒針が一秒を刻むのも遅くなって、まどろみのなかにいるように静かだった。わたしの頭がすこしずつ状況を把握しはじめると、エイジくんの部屋の音楽が徐々に近づいてくるような感覚で耳に届いた。
「新妻くんなら、白羽くんも信頼できるでしょ? だからいいかな、って。昨日まで真城くんに来てもらってたんだけど、」
「真城、くん?」
「亜城木夢叶の作画。残ってる二人はアシ三人は多いなんていってるけど、もう一人いて損はないとおもってる。どうかな、白羽くん」
わたしはうなずいた。雄二郎さんのいうとおり、エイジくんだからというのがおおきかった。彼には信頼もあるし、恩もある。早速明日から入ってほしいということと、15時頃に部屋に迎えにいくから挨拶もかねて一緒にエイジくんのところへいこうというようなことを手短に話して、通話は終了した。
次の日、14時50分にもうすぐ着くからと着信が入って、14時55分に玄関のチャイムが鳴った。念のために、どちらさまですか、と尋ねるより先に、雄二郎です、と先ほどの電話と変わらない声がして、わたしはドアを開けた。
「じゃあ、今日からよろしくね。といっても、今までアシ二人でやってきた現場だから、そんなに気負うことないよ。一日に数時間いるだけでも構わないんだ。僕としては罪滅ぼし≠チていうのがおおきいからね」
雄二郎さんは、罪滅ぼし、ということばをゆっくりと発音した。「罪滅ぼし?」とききかえすと、「なんでもないよ。こっちの話」とわざとらしくはぐらかされてしまった。
「とにかく、僕も、白羽くんの男性恐怖症を治す手助けをしたいって、おもってるんだよ」
雄二郎さんはエイジくんの部屋のチャイムを鳴らしながら、ドアを開けて声をかけた。呼び鈴の意味をなしていないのがすこしだけ可笑しかった。同じマンションだから当然だが、エイジくんの部屋の間取りはわたしのそれと変わらない。彼の部屋に入るのはあの日∴ネ来かもしれない。
「新妻くーん! と、それから中井くん、福田くん! 新しいアシスタント連れてきた!」
中井さんはエイジくんの連載当初からのアシスタントさんだ。たまにマンションの入り口などで会うこともあったから、おそらくこちらが一方的にだが知っている。福田、と呼ばれて顔をあげたのは、銀髪にニット帽の若いおとこのひとで、鋭い銀の瞳でこちらを見据えていた。じゃらり、と胸元の十字架のネックレスがつめたく、おもたい音で揺れた。ひ、とおもわず喉が鳴る。こわい。それがわたしの福田さんへの第一印象だ。その迫力の前では、よろしくおねがいします、とちいさくいって頭を下げるのが精一杯だった。
そのとき、大音量のBGMが鳴りやんで、麗さん、とあどけなさの残る声がわたしを呼んだ。
「麗さん、もう、だいじょぶなんですか」
「なに、新妻くんの知り合い?」
「知り合いもなにも、福田先生だって知ってるはずです。白羽麗先生です」
「は!? 白羽麗!?!?」
福田さんはほんとうに驚いたというような声でいうと、目をまるくしてわたしを見た。そしてすぐにわざとらしくおおきな音で立ち上がり、怒りを込めたような目で雄二郎さんを睨みつける。
「なんで白羽麗にアシスタントなんてさせんだ! じぶんのマンガに集中させるべきだろ!? 白羽くんのマンガは文句なしに面白いし、ジャンプに必要だ! だいたい新妻くんと一緒に連載決まってたはずだろ? なんで無かったことになってんだよ納得いかねえ!!」
いまにも雄二郎さんに掴みかかりそうな勢いで、福田さんはひといきにいいきった。初対面のにんげんのことでどうしてこんなに本気になれるんだろう、とわたしは息を呑んでその場に立ち尽くしていた。
はじめこそ驚いたものの、すこしずつ別の感情がまざってゆくのを感じていた。いつもの気持ちの悪い動悸とはまったくちがうふうに胸が激しく波打って、おもわず、すこしだけ泣きそうになる。
「あの、もう、いいです……!」
わたしの声で、福田さんは雄二郎さんの胸ぐらに伸ばしかけた手を引っこめた。福田さんの視線がこちらに向く。それから逃げるようにわたしはうつむいて、いいんです、ともう一度いう。どういう意味だよ、と腑に落ちないといった声色で福田さんはわたしを覗きこんだ。
「わたしが、わるいんです。だから……」
「白羽くんが悪いわけじゃないよ」
「……なんでもいいから俺にもわかるように説明してくださいよ。ちゃんと納得いく理由なんでしょーね」
連載が決まったあとに男性恐怖症になってしまい、またストレスからか自律神経失調症も引き起こしたわたしは入院ののち自宅療養しているのだということを、わたしのかわりに雄二郎さんが簡潔に話してくれた。福田さんはじぶんのことのように悩む仕草をして、目を伏せた。
「っ、でも、うれしかったです。さっき、福田さんがああいうふうに、いってくれて。……ありがとうございました」
「いいよ、礼なんて。それに、礼をいうんならまだ早え。俺たちが、ジャンプを変えるんだからな。白羽くんもその一員だ。話し相手の練習台くらいにならなってやるから、早く治して表舞台に戻ってこい!!」
もう、声を放って泣いてしまいたいくらいだった。「返事は!?」という先生みたいな台詞が飛んできたから、わたしは涙をこらえてうなずいた。