集英社での用事は原稿の受け渡しだけだったのですぐに済んでしまったのだが、吉田さんとすこし雑談をして、すべておわった頃には突然の雨が夕方を濡らしていた。吉田さんはわたしをひとりきりで帰すわけにはいかないと判断したようで、手早くタクシーを呼んで送ってくれた。日が落ちて暗くなった窓には、なさけなく呆けるじぶんの顔が映っている。助手席に座る吉田さんの表情はわからない。車内はほとんど音がなく、濡れた路面をタイヤが滑る音が足のしたで鳴っているだけだった。

「じゃあ、次のネームができ次第、電話して」
「はい。おつかれさまでした」
「お疲れ。おやすみ」

 玄関で靴を適当にぬぐと、電気もつけずにまっすぐ奥の部屋へと向かった。シングルのパイプベッドに転がりこんで、布団を頭までかぶった。雨に溶けて、青く凍ってしまいそうな、そんな気分がして、抱きまくらを引っ張ってきてめいっぱい抱きしめた。ゆるくデフォルメされた貘のデザインだ。……ぜんぶ、夢ならいいのに。抱きまくらが涙で濡れた。雨はまだやまない。


 携帯の着信音で目が覚めた。時刻は17時32分で、ほぼ丸一日寝ていたということになる。昨日とほとんど変わらない音で、雨が降りつづいていた。ぼんやりしているうちに、電話は切れてしまった。薄暗い部屋で青白く明滅する携帯電話のディスプレイをのぞくと、そこには不在着信11件と表示されていて、2件を除いてすべて福田さんからだった。その2件も新妻くんからのものであったから、仕事に来なかった理由を問いつめるためにかけたものだと考えるのが妥当だろう。かけ直さなければならないのはわかっているけれど、指先がつめたくこわばってしまって、ボタンのうえで固まっていた。迷っているうちにまた電話がかかってきたので、わたしは観念して通話に応じた。

「白羽くん大丈夫? 風邪?」

 福田さんはやさしい声でそういった。仕事を無断で休んだわたしを怒るでも咎めるでもなく、わたしのからだのことを案じてくれたのだ。そうやってやさしくされると、一晩で枯らすほど流したはずの涙がまたこみあげてきて、最終的には大泣きしてしまっていた。
 エイジくんが、中井さんが、福田さんが、どんどん前へ進んでいって、すごいなっておもって、でも、どんどん遠ざかってゆくのがわかるから、さびしくて。わたしもって、おもったんですけど。もうこう≠ネってずいぶんとたつのに、ひとりじゃなんにもできないんです。電車にすら乗れない。たくさんめいわくかけました。吉田さんも、愛想を尽かしているに決まってます。もう、どうしたらいいのかわかりません。
 嗚咽混じりで文脈もひっちゃかめっちゃかな告白を、福田さんは時折心地よい相づちを打って、しずかにきいてくれていた。

「ひとりじゃなにもできねえって、そんなの当たり前だろ。白羽くんはまだ子供だ」
「そういうことじゃ、ありません」
「そういうことだよ。周りをもっと頼れ」
「だってこれ以上、迷惑は……」
「吉田さんが迷惑だって、そういったのかよ」
「……いいえ、いってません、けど。でもぜったいおもってるじゃないですか! 変わらないと、いけないのに。変わりたいって、おもってるのにっ……!」

 情けなくさとやるせなさと、じぶんのみっともなさばかりが浮き彫りになって、止まることを知らない涙があたりに散らばってゆく。わたし、もうだめなのかな。収拾のつかなくなった自己嫌悪をくちにしたそのときだった。

「まだ終わってねえよ、決めつけんな!」

 受話器を割るほどの大声がわたしの心を貫いた。真面目な声で、熱のこもったいいかたで、福田さんは続ける。

「人間がほんとに駄目になるのは、変化を恐れてぬるま湯に浸かるのをえらんだときだ! 白羽くん、変わりたい≠チていったよな。だから、いまこうやって泣くこともできんだろ? しっかりしろ!!」

 ――わたしが恐れていること。このままどうしようもないじぶんのままずるずると生きてしまうこと。ジャンプで連載ができなくなること。難しいことはなにもない。こどものように純粋で、1+1の計算式より単純だ。

「それに、だ。俺が編集なら、白羽くんみたいな金の卵、意地でも抱えておきたいとおもうぜ。吉田さんだってそうだろ。だから余計な心配すんじゃねえ。いちいち考えすぎなんだよ」
「……はい。福田さんはすこし楽観的すぎるくらいです」
「テメー、ひとが心配して電話してやってんのに」
「うれしかったです、とっても。ありがとうございます」

 そういえば、お医者さまもいっていた。病は気から、というのはあながち間違いではなくて、じぶんのことに過敏になるとストレスなどの些細なことで自律神経を乱してしまうのだ、と。すぐに考え方を変えるというのは難しいけれど、良い考え方をしてくれるひとがこうして身近にいるというのは、これからの希望のようにおもわれた。

「明日は来れそう?」
「はい。今日のぶんもがんばります」
「その意気だ。……とはいえ、一人で電車はハードル上げすぎたんじゃねえの?急ぐ気持ちはわかるが、それで逆戻りじゃ元も子もねえ」
「福田さんのいうとおりですね。以後、気をつけます」

 おやすみをいって電話を切ると、なんだかおなかがすいてきてしまった。昨日の夜からなにも食べてないのだから空腹なのは当然なのだけど、福田さんと話して安堵したというのがおおきいとおもう。
 明日、お礼にクッキーを焼いていこう。福田さん、甘いもの好きかな。お口に合わなかったら嫌だから、ココアとアーモンドとか、抹茶とか、いろいろ作ってみようかな。今はただ、福田さんに会うのが楽しみで仕方がなかった。