それから中井さんはしばらく蒼樹さんの家の前で絵を描き続け、雪の降る夜に無事彼女とコンビ復活を果たした。その後中井さんは熱を出して倒れたが、福田さんが文句をいいながら送り届けた。それから3日仕事を休んですっかり良くなったらしく、仕事中にインターホンが鳴れば率先して出る余裕も見せ、色々な意味で完全復活といった様子だった。

「はい。……え、ちょっと待ってください。 先生、平丸さんが」

 平丸?平丸って、ラッコ11号の平丸先生?わたしは福田さんと顔を見合わせた。あの、現実を風刺しながら笑いを取り、最後にはラッコ11号がすべてを解決してしまうという王道マンガの要素をも持ち合わせた独特な作品を描くひと。エイジくんも「変わったひとだ」といっていたし、吉田さんからも「彼は才能がある」と聞いていたからとても興味深かった。けれど、わたしは咄嗟に「コーヒー淹れてきます」と逃げるように席を立っていた。

「……コーヒーでよかったでしょうか」
「ああ……やさしくて気が利く可愛いアシスタント。癒されるよ」
「あはは、どうも……」

 平丸さんは、高い背丈をもて余すように、細長い脚をこじんまりと折りたたんで座っている。彼は白と黒でできているようなひとだった。黒い髪に白いシャツ、黒いサスペンダーで吊ったスラックス。顔色は青白く、目の下は黒くクマがあった。いま、連載の愚痴をこぼす姿は完全にブラックである。
 まもなくして、インターホンが鳴った。福田さんが集英社に電話をしていたらしく、吉田さんが迎えに来たのだ。

「迷惑なんだよ!! あんたみたいなの見てるとテンション下がるしめちゃくちゃ腹が立つ。こっちは明後日の連載会議にマンガ家人生懸かってんだ! こんなところに来てなにほざいてやがるふざけんな!!」

 たしかに、平丸さんの悩みは連載をめざすひとにとってみれば贅沢すぎるものだった。ただでさえ短気な福田さんに思いきり怒鳴りつけられた平丸さんは、吉田さんに強制連行されていた。すこしピリピリとした空気のなか、エイジくんがふいにくちを開く。

「そういえば麗さん、今日お誕生日でしたよね? おめでとうです」

 エイジくんにそういわれて、わたしは今日の日づけをおもいだす。3月8日。18歳の誕生日だ。

「そうなの?白羽くん、おめでとう! つーか去年はなんもいってなかったよな……」
「僕はちゃんと去年もおめでとういいましたよ」
「仲のよろしいことで」

 中井さんがケーキを買おうかと提案してくれたが、今まで誰の誕生日も大々的なお祝いをしていなかったのに、今日じぶんだけしてもらうのは申し訳なかったので断った。それに、ケーキを買うのなら明後日にしましょう、とわたしがいえば、福田さんも中井さんも微笑んでうなずいた。

 ***

「よっしァあああーーーーーついに俺の時代がキターーッ!!」

 マンガ家をめざして上京して3年、ようやくスタートラインに立った、今のこの感情は今までのどれにも及ばない、的確に言い当てるすべも見つからない、そんな達成感であり、幸福感であった。
 思い返せばこの3年間、色々なことがあった。自分を追い込むためにもと思いきって新しいハーレーを買い、そしてそいつで移動するのに都合がよく、デザインもわるくない、という条件で選んだ鉄筋打ちっぱなしマンションの暑さ寒さに悲鳴をあげながらマンガを描いた。食事は専らバイト先のコンビニの賞味期限切れの弁当だ。そして新妻エイジが入選、順入選W受賞の回に佳作に食い込み、担当がついた。広島出身のよしみでと、久保先生のアシをさせてもらえたのは貴重な経験だった。その後新妻くんのアシをやって、天才高校生の作業光景を目の当たりにする。15歳の鬼才も、だ。色んなひとに世話になった。笑いあったし、切磋琢磨もした。それから、守りたいひとができた。
 俺を見るなり肩を強ばらせて目をそらした少女。それが白羽麗だった。よくもわるくも素直なのだろう。まあぶっちゃけ、気分がわるくなかったのか?、と、きかれたらわるかったに決まっている。けれど、彼女の状況を知って、隣の机にこじんまりと座ってまつげを震わせる姿に同情をおぼえて、それから、可愛いと、おもってしまって、なんとかしてやりたいとおもったのだ。
 俺は彼女にどれだけのことをしてやれたのだろうか。初めて会ったときに比べればずいぶんとマシになったが、まだ本格的に仕事ができるほどじゃない。そんなこんなで、俺のほうが先に……。
 だから、この連載は、彼女に捧げる。

「福田さん? えっと、用事ってなんですか?」

 新妻くんの仕事場で中井さんと連載の喜びをわかち合い、亜城木くんたちからお祝いの言葉をもらったところで、新妻くんが全員を早めに上がらせてくれた。4つのマグカップを洗うために台所へ向かおうとする白羽くんを呼び止めて、「ちょっと用事あんだけど、俺んち来れるか?」って、もうちょいマシな誘い方はなかったのかと、一時間前の俺に言いたい。

「ああ、ほら、白羽くん一昨日誕生日だったんだろ?だから、お祝い。……こんなのもらっても嬉しくねえかもしんねーけど」
「わあ……!」

 誰かのために絵を描くのはいつぶりだろう。ちょっと他人より絵が上手いから、教室で見せびらかすようにノートに絵を描いていればクラスメートが寄ってきて、版権キャラや似顔絵やなんかを頼まれて。いまおもえばあんな下手くそな絵をよく人前で描けたものだなァなんておもうけれど、リクエストをしてくれた彼の、彼女の、あの笑顔がなによりも嬉しかった。

「これ、わたし、ですか!」
「当たり前だろ。似てねえとかいうなよ。これでもけっこう頑張ったんだから」
「福田さん……おんなのこ描くの上手になりましたね!」
「そこかよ!!」

 それから白羽くんは、ありがとうございます、とぱっと花開くように、あどけなく、笑った。その顔は、今までの誰のものよりも深く、心に刻まれるのだろう。それほどに、俺は、おまえのことが。

「それから、さ、白羽くんさえよければなんだが……俺のアシやってくんねえか?」

 ああ、昨日寝ずに考えたプランが台無しだ。まずは「好きです、付き合ってください」、それから「一緒に仕事がしたいんだ」だろ。
 あーそうじゃねえだろうが! と心の声が出てしまったようで、白羽くんがきょとんとして俺を見上げていた。くそカッコ悪ィ、けど、ここで腹くくんなきゃもっとカッコ悪ィ!!

「好きだ」

 俺の告白のあとに、白羽くんが開けた間が妙に長く感ぜられて、心臓だけが駆け足で鳴っていた。お恥ずかしながらたいした恋愛経験のない俺は、無謀な告白をする勇気など持ち合わせていないから、それなりに勝算はあるつもり、だった。けれどもしも、彼女の答えが拒絶であったら。
 はらり、と、桜の花弁が散るように、彼女の瞳からひとつぶの涙がこぼれた。それを拭うのは、俺でいいのだろうか?

「ほんと、ですか」
「嘘でも夢でもねえよ。ためしに頬つねってやろうか」

 麗、と、俺はこのときはじめて彼女のなまえを呼んだ。目をまるくした彼女を、そっと抱きよせる。いつもおびえていた彼女を、ずっとこうしてやりたかった。

「キス、してもいいか」

 話をするときには、俺がすこしかがんでやって、麗の目線にあわせる。彼女を怖がらせないように。真っ赤に色づいた頬に手を触れてみれば、ふたりはゆっくりと引かれあう。そうすることが決まっていたように。目を閉じる前に見えたのは、麗の笑顔だった。