ぼうっとする頭は、つめたい水で顔を洗ってもすこしもよくならなかった。からだの部位ひとつひとつがいつもの倍くらいに重く感じる。風邪を引いた、と自覚するのにさほど時間はかからなかった。症状は今のところ、倦怠感と熱っぽさだけ。そこから考えるに、おそらく微熱があるだけだろう。実際に体温計のディスプレイに映し出されたデジタルの数字を見ると余計に具合がわるくなる気がする、という理由で体温は計っていない。同室の友人には無理をしないようにと言われたが、それは無理な相談である。Sクラスの授業は、余力を残すようなやり方ではついていけないくらいにハードだから。それでも、友人の気づかいにはありがとうを言っておいた。
「おはよう、レディ。上気した頬と潤んだ瞳。官能的でわるくない。綺麗だよ」
教室に入ればそんな甘ったるいことばがふってきた。今日に限って、彼をとりまく神宮寺ガールズ(と私は勝手に呼んでいる)はいなかった。朝っぱらから面倒なおとこに捕まったなあと、わたしはしずかに神宮寺さんの胸に頭をあずけた。神宮寺さんの目が、物珍しそうにひかる。
「レン。弱った女性をそのような目で見るのはどうかと思いますよ」
手元の文庫本から顔を上げた一ノ瀬さんは、唯一の常識人だった。体調管理は怠らないように、大事にするように、とだけ言って文庫本に視線をもどす。なんだかんだでやさしいなあ、とおもったわたしがありがとうございますと言うより先に、一ノ瀬さんは思い出したように口をひらいた。
「くれぐれも私にはうつさないでくださいね、みょうじ君」
前言撤回。一ノ瀬さんはやさしくなんかなかった。
「おはよー……って、なまえに何やってんだよレン!」
「おチビちゃんか、おはよう。実はレディは今日、」
体調がすぐれないらしい、とそう言いかけた神宮寺さんの口を、背伸びをしてふさいだ。翔くんに迷惑をかけたくない。今日はずいぶんと積極的なんだね、だなんて都合よく解釈された台詞はこの際無視するほかない。
「なっなんでもないから!」
「そうなのか? つーか、だったら早く離れろこのバカ!!」
そのバカはわたしに向けたものなのか、神宮寺さんに向けたものなのか。きっと両方だろう。翔くんは、わたしを神宮寺さんから引き剥がしてくれた。
幸いなことに、今日は体育の授業も学園長先生の乱入もなかったので、あまりからだを動かすことなく1日を終えることができそうだった。放課後特有のにぎわいをかき分けて、翔くんはわたしの前にやってきた。わるい、と両手を胸の前であわせて、申し訳なさそうに目をつむる。わたしの記憶が正しければ、翔くんがあやまらなくちゃいけないようなことはなかったはずなのだけど。
「レコーディングルーム、取れなかった! だからさ、今日は自主練でいいか?」
わたしのパートナーである翔くんは、昨日、今日の放課後のレコーディングルームを確保してくれると言った。しかし予約で埋まっていてそれができず、仕方なく明日に入れたらしい。わたしとしては、翔くんには少しわるいけれど、それは都合の良いことだった。からだのだるさは増す一方だったから、翔くんとの練習に支障が出るのではないかと不安だったのだ。
「うん、わかった。明日ね」
「ほんと、ごめんな。あ、寮まで送るぜ」
「え! わ、わるいよ……!」
「レコーディングルーム取るって約束したのに、取れなかったからな。そのお詫び。ほら、行くぞ!」
翔くんはそう言って、机の上からわたしのスクールバッグをさらっていってしまう。翔くんは、ずるいひとだ。これでわたしは、翔くんを追いかけざるを得なくなってしまったのだから。
「待って、翔くっ……ん」
一歩を踏み出したそのしゅんかん、ぐらりとわたしのからだが傾いた。自分で思っていた以上に、熱が上がっていたのかもしれない。膝を床につくより先に翔くんの腕がのばされて、わたしを支えた。
「だいじょぶか?」
「う……ん。へいき」
「よく言うぜ。そんな顔じゃ説得力ねーっつの」
翔くんはそのまま、わたしを抱き抱えた。いわゆる、お姫様だっこというやつをされてしまったわたしの心臓は、破裂してしまいそうなほどに高鳴る。翔くんの横顔がちかくて、顔から火が出そうなくらいにあつい。ぜんぶ、風邪のせいだと言い聞かせたかった。
「お前さあ、俺が気づいてないとでも思ったわけ?」
「な、なんのこと?」
「はぐらかすな! 俺様を誰だと思ってんだよ。みょうじなまえの唯一無二のパートナー、来栖翔様だぞ? けどお前、変に気をつかわれるのとか嫌いだろ? だから、ギリギリまで手出さなかったんだけど」
翔くんにはかなわないなあとわたしが笑えば、翔くんはあたりまえだと言って胸を張った。
これは後日聞いたはなしなのだが、実はこの日、レコーディングルームの予約は取れていたらしい。けれどわたしが風邪を引いているということを見抜いた翔くんは、たまたま通りかかった春歌ちゃんに譲ったのだという。翔くんは、ちいさなからだ(と言うと本人は怒るけれど)に溢れる愛を、惜しみなく他人に注ぐすてきなひと。今回のことでまたひとつ、あなたが好きって気持ちがおおきくなったよ。
// 20150810