私が目を覚ましたときには、既にとなりのベッドはからっぽで、テレビからHAYATOのおちゃらけた声が聞こえてくるだけだった。断じて、寝坊をしたわけではない。テーブルの上にはサンドウィッチと紅茶、その脇には書き置きがあった。同室の友人は、今日は朝からパートナーと練習だそうだ。
 からからと渇いた喉に、紅茶を流し込む。朝起きたときから喉に違和感のようなものを感じていたのだけど、どうやら渇きのせいではなく、風邪で喉をやられてしまったせいらしい。私は作曲家コースだからまだよかったけれど、アイドルコースだったら大変だっただろうなあ、なんてぼんやり考えながら、サンドウィッチをかじる。いつもより狭い食道の入り口を抉じ開けるようにして、咀嚼したものが通った。ふいにげほげほと咳き込んでしまい、喉がひゅうと変な音をたてた。咳をしても一人。まさにそんな状況だった。私は食べかけのサンドウィッチをラップに包み直して、身支度をはじめた。


「なまえちゃん、おはようございます!」

 教室の前で、大量のノートを抱えた春歌ちゃんに会った。人一倍やさしくてお人好しな彼女のことだから、先生の頼みを断れなかったのだろう。挨拶を返したら、両手が塞がっている春歌ちゃんのために教室の扉を開けて、それから半分持ってあげよう。ところで春歌ちゃんはおおきなひとみをこぼれんばかりに見開いて私を見ているのだけど、それはどうして? ちゃんと部屋の姿見で全身をチェックしてきたはず。どうしたの、そう言いかけて私は戦慄した。春歌ちゃんの手から、ノートがばさばさと盛大に落ちた。

「こっこここ、声が! 出ないんですか!?」

 どうやらそうらしい。私は春歌ちゃんにおはようを返してもいなければ、親切の言葉をかけることもできていなかったようだ。思えば、朝起きてから今までコミュニケーションを必要とする場面がなかったから、一度も声を発していなかった。

「みなさん! 大変ですーっ」

 教卓にノートを置いた春歌ちゃんは、トモちゃん、一十木くん、聖川くん、四ノ宮くんのいつものメンバーをあつめて、言った。四ノ宮くんと目があえば、彼は「なまえちゃーん!」と私の名前を呼びながら近づいてきて、その腕のなかに閉じ込めてしまった。非常に痛い。肺が押し潰されてしまいそう。いつもなら、私が苦しいと言えば、申し訳なさそうに微笑んで力をゆるめてくれる四ノ宮くんだけど、今日の私はそれができない。私は、言葉で伝えられない代わりに四ノ宮くんの背中に自分の腕をまわして、軽くたたいた。

「わあ、なまえちゃんからもぎゅーってしてもらえるなんて、僕、嬉しいです! もっとしてあげますね! ぎゅーっ」

 ちがう、そうじゃない……!

「四ノ宮。みょうじが苦しそうだぞ。お前は力を加減するのが下手なのだから」
「え……? あ。ごめんね、だいじょうぶ?」

 聖川くんの助け船のおかげで、私は四ノ宮くんから解放された。私の顔を覗きこむ四ノ宮くんのイエローの瞳にエメラルドが陰って、不安げに揺れている。大丈夫だと伝えたくて、私はせいいっぱい微笑んだ。一瞬だけ驚いたような顔をした四ノ宮くんだったけれど、それならよかった、と頭をなでてくれた。

「なるほど……。今日はなまえちゃんのあったかい声が聴けないということですか…残念です」

 ようやく四ノ宮くんにも話を通じることができた。目に見えてがっかりする四ノ宮くん。パートナーとして、友達として、大切に思ってもらえているのだなあと、嬉しくなった。

「それにしてもさ、声が出ないってのは不便よね。授業で当てられたりしたら、どうすんの?」
「たしかに……あ! 紙に言いたいこと書いて見せればいいんじゃない?」
「なるほど、筆談か。考えたな、一十木」

 一十木くんたちも、そうだ。私のために、こんなに一生懸命になってくれている。私は幸せ者だなあ、なんて思っていたら、とんと肩がたたかれた。

「なまえちゃん。ちょっと、こっちを向いて」

 耳元で四ノ宮くんのやさしい声が聞こえたものだから、すこし驚いてしまった。どきんと跳ねた心臓を押さえつけるように胸元のリボンをにぎって、顔を後ろに向けた。すると、四ノ宮くんの片手が私の後頭部に添えられて、それから四ノ宮くんとの距離がゼロになる。やわらかく触れたところを、四ノ宮くんの舌がつんとつついて、反射的に薄く開いたその一瞬で、なにかが私の口内へと転がってきた。

「一日のはじまりに、僕がいつも舐めているのど飴です。今日はひとつしか持ってきていなかったので、特別に僕のぶんをあげますね。はやく治りますように!」

 渡し方はほかになかったのかと尋ねたかったが、声が出ないのでそれもできない。恋愛禁止令に触れたらどうしてくれるんだ、というのは建前。それに、とうの昔にそんなものは破ってしまった。私も四ノ宮くんも、直接気持ちを伝えてはいないけれど、たしかに私たちは恋に落ちている。好きなひとにキスをされて、平静を保てるわけがない。うるさい心臓と真っ赤な顔をそのままに、私はうなずいた。のど風邪がこんなに心臓に悪いものだったなんて、知らなかった。


// 20150810