「……寒い」
自室の一角、ピアノやらシーケンサーやらが並べられた作曲スペースで、私は目を覚ました。時刻はまだ4時。冬はつとめて、なんて言うけれど、あいにくそんな風情ではない。私は寒さに身震いした。昨日は夜遅くまで藍の新曲の作曲をしていて、それから。ああそのまま眠ってしまったのかと、私はのびをした。座ったまま変な体制で寝てしまったからだろう、固まったからだからバキバキと嫌な音がする。また寒気がして、はっくしょん、と女子力皆無な大きなくしゃみが出た。心なしか、頭がぼんやりしている。嫌な予感がして熱を測ってみれば、37.7℃。少し横になって、それから作曲の続きをしよう。ティッシュを大量に取って鼻水を出し尽くしてから、私はベッドへと移動した。
「ねえ、なまえ。いる?」
あれからどれくらい寝たのかわからない。目覚ましの代わりは、扉をノックする音と藍の声だった。アナログ時計の長針は1、短針は8を指している。約4時間寝たけれど、熱は下がらなかったらしい。重いからだをどうにか動かして、ドアを開けた。
「作曲に集中するのはいいけど、ご飯くらいは食べなよ。昨日から丸一日部屋にこもって。徹夜は効率が悪いって、いつも言ってるでしょ」
丸一日? 昨日の夕方は藍と那月と翔と一緒に世間話をしながら食事をしたはずだから、まだ半日しか経っていないはず。頭上に疑問符を浮かべる私に、「カーテンも締め切ってるからわからなかったんだろうけど、今、夜の8時だから」と藍は呆れたように言った。なるほど。4時間ではなくて16時間寝てしまったということか。藍は、ガラステーブルに乗っていた体温計と、ゴミ箱に無造作につめこまれた五線譜の上のティッシュの量と、それから私の顔をそれぞれ見た。
「……もしかして、風邪?」
ガラス玉のような瞳が、つめたく光った。そこに映し出された自分の姿は病人そのもので、情けなかった。
「薬は……飲んでないみたいだけど」
「副作用が、こわくて」
「薬を飲んで風邪が治る確率と、副作用が起こる確率、どっちが高いかくらい少し考えればわかることでしょ」
「でも、作曲に影響が出るから」
「だから、薬飲んで早く治したほうがいいって言ってるの」
「そうじゃ……なくて」
今にも消え入りそうな私の声に、ちゃんと察してくれたらしい藍はそれ以上なにも言わず、まばたきをひとつして先を促した。
「昔飲んだ風邪薬のなかに、音が半音低く聞こえるようになる副作用が起こるものがあったの。薬を止めてからも、しばらくは低いままだった」
「……そんなの、データにないけど」
「じゃあきっと、藍のデータが最新じゃないんだよ」
「ボクに限って、そんなことがあるとでも思ってるの?」
心外だ、とばかりに眉をひそめた藍は、組んでいた腕をほどいて、片方を私にむかってのばした。額に触れた藍のてのひらは、いつもよりひやりと冷たくて、気持ちがよかった。藍の体温が変わるわけがないから、実際は私の額が熱すぎるだけなのだけど。
「でも、データに加えとく。なまえの情報は、ひとつも漏らさず把握しておかないとね。ボクは……彼氏、なんだから」
彼氏。藍のくちびるが紡いだそのことばを、反芻してみる。藍と私は、社長に交際を認めてもらっている仲だ。だけれど藍はふだん、そういう素振りを見せない。二人きりのときでも、だ。きみが愛を教えてくれた、とか嬉しいことを言ってはくれたけれど、そもそも彼は感情をもたない。だから、彼氏というたった一言を藍が自ら発したというこの状況は、極めて珍しいことなのだ。私は嬉しくてしょうがなくて、もともと高かった体温がメーターを降りきるくらいに急上昇するのを感じていた。
「ほら、早くベッドに戻って」
やさしく肩を抱いて、私をベッドへと向かわせる藍は、こうして見ると、ずいぶんとにんげんじみていた。藍なりに、私の彼氏になろうと努力をしていたのかもしれない。
「ありがとう」
「べつに、ボクは何もしてない。なまえの風邪をもらってあげることもできない。……ただ、時間が許す限り、一緒にいてあげることしか」
「それが、いちばん嬉しい」
「……そう」
おめでたい頭だね、と皮肉めいた言葉を続けたけれど、表情はやわらかかった。その笑顔と、私の頭をなでる手の速度がとても心地よくて、私はすぐに眠りに落ちた。
// 20150810
この副作用、実はわたしが経験したものでほんとにあります。音楽に関わっている方は気を付けてくださいね。