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幼い頃。
とんと、幼い頃。
まだ快斗が、ふたつかみっつの頃。ものは試しだ、と両親に幼稚園見学と称して1日幼稚園に預けられたことがある。
その時快斗を任せられたのはもも組のクラスで、同じような年頃の子どもたちと一緒に遊んだ記憶がある。たんと遊んで、お昼ご飯にお弁当を食べて。お昼寝の時間になっても、快斗だけが1人、どうしても眠れずに起きていた。
そうしたら、もも組の先生がちょいちょいっと手招きをするから。なんだろうと思って近寄ってみたら、絵本の読み聞かせをしてくれるというではないか!
好きな本をもっておいで、と促されて本棚の前に立つ。何を読んでもらおうか、迷ってしまって困る。見たこともない本が沢山あって、あれもこれもと目移りしてしまうのだ。
急かすことなく、ゆったりと構えてくれている先生の存在がありがたい。
幼子の寝息と、軒先に吊るされている折り鶴が、どれがいいのかと胸をふくらませて待っている。
陽の光に照らされて先生の顔は見えないけれど、自然と大丈夫だと思った。庇護下に引き入れられた、と。
何だかソワソワとして、先生から視線を戻して本棚を見上げた。幼児用の本棚は大人の腰ほどの高さしかない。上を見上げると、絵本とは別に子どもにとっては分厚い、難しそうな本が隅の方に置いてあった。
よいしょ、と背伸びをして、重たい本を抱きかかえて先生にこれがいい、と本を差し出す。本を受け取った先生が、ちょっとだけ不思議そうな顔をして、これがいいのかと確認してくるから、絶対これなのだ、と鼻息荒く主張する。それに先生が、ひとつ やわこい 笑みをもらして、快斗を膝の上へと導いた。
ーーーもし迷子になったら
マザーを探すといい。
ぽつぽつ、そう呟いた先生に何のことかと問おうとしたのだけれど。
その疑問をぱちり、ウインクで封じ込めて、先生は朗々と、けれどもひそやかに本の題名を読み上げた。
「Good モーニング Gentleman」
昔昔、幼い頃。
読み聞かせてもらった本の内容を。
快斗はついぞ 思い出すことはなかった。
快斗は4歳になった。
家が隣同士の中森青子という女の子と、仲良くなった。
かくれんぼや、おままごと、おにごっこに快斗が覚えたマジックを披露することもあった。すっごく、すっごく、仲良しになった。
快斗は5歳になった。
いつもと何ら変わらない、そんな日に。何だか違和感を感じて。何か良くないものがあるような。胸がざわざわとして、誰かに見られているような気すらして。ここに自分の居場所はないと、何故だかそう思えてしまって。不安で不安で仕方なくて、心細くて仕方なくて、快斗のまんまるな目にうっすらと膜がはる。
はたはた、とついにはこぼれてしまった水を、服の裾で拭いながら快斗は家へ帰ることにした。声すらあげず静かに泣く快斗に母も父も最初は驚いていたようだが、何も聞かずに鼻水と涙を拭ってくれた。あたたかく迎え入れて、何一つかわらず抱きしめてくれる両親に、ようやく快斗の涙は止まってみせた。
わけもわからず泣いていた快斗を励まそうと考えたのか、用意されたご飯は快斗の好きなものばかり。至福すぎる献立に快斗もすっかりご満悦で、感じた違和感のことなどどこかへ置いてきてしまった。単純と笑うなかれ、5歳児なのだ。
おなかもいっぱいになって、さてもうひとあそびしてこようか、と。意気揚々と水筒を持ち、帽子を被り、玄関でお気に入りのシューズを履く。元気よく、あおことあそんでくる!と。
いざ往かん、と扉に手をかけたところで、洗い物を終えた母がエプロンを脱ぎながら見送りに来てくれた。
「快斗、車には気をつけるのよ。新しいお友達ができたのね」
忘れ物はない?なら、行ってらっしゃい。
笑顔で、元気に遊んでおいでと送り出された快斗はというと、玄関先でそのまろい頬も何もかも、蒼白にしていた。母さんが、あおこのことを新しい友達と言った。
毎日毎日、飽きもせず遊んでいる2人を、微笑ましそうに眺めていたのに。
何かとてつもないことに巻き込まれたのでは、自分は盛大な勘違いをしていたのではないか、と快斗はひたすら呼吸の仕方を思い出していた。
肺に空気を押し込んで、無理矢理酸素を取り込んで、ふらふらと壁伝いにお隣さんの表札を見た。
そこに「中森」なんて文字はなかった。
知っているはずの場所が、見知らぬ場所に思えて。快斗は途方に暮れた。
優しい両親に美味しいご飯、何一つかわらない快斗のおうち。
ただ、いつかのお隣さんが、跡形もなく知らない誰かとすり変わっていただけで。
ここは違う。
ちがうのだ。
幼なじみの青子がいて、青子のとーちゃんがいて、母さんと父さんがいて。
それが黒羽快斗の世界なのに。
帰りたいとつよくおもっても、帰り方がわからない。
また、あの違和感が、じわじわと這い寄ってくる。足元が落ち着かなくて、心臓がうるさい。
不安で不安で、怖くて仕方ないのだ。
するすると快斗の目から水が逃げていく。
しゃくりあげながら歩くことしか出来ない。何か、なにかないだろうか。
帰りたい。
もうやだ、と喚いてしまいそうになった時。頭の中で、昔どこかで聞いたような声が ささやいた。
ーーマザーを探すといい。
マザーってなんだよ、と頭にきてさらに水が逃げていく。他に思いつくこともないから、何なのかわからないマザーとやらを探して歩く。
とぼとぼ、夕暮れに染まってきた道を1人で歩いてどれほど経ったか。
いつの間にか、無意識だろう、元来た道を戻ってしまったようで、今は恨めしい我が家が見えてきた。暗くなってきたし、1度帰ることにして。
視界の中、小さかった家が大きくなるにつれて、快斗は少しづつ少しづつ、その胸を期待でふくらませていく。
だってあの、快斗の家の横にあるのは。
逸る気持ちを落ち着かせながら、到着した家の前。お隣さんの表札には「中森」の文字。
よかった。
快斗は、帰ってこれた。
これが、黒羽快斗の多忙な人生におけるはじめての迷子である。
5歳の時 はじめて迷子になった快斗は成長してもよく迷子になった。
そんじょそこらの迷子とはレベルが違う。侮るなかれ、気付いたらもう迷い込んでいるなどしょっちゅうだ。正直怖い。
下手にIQが高く優秀なのも困りものだ。いっそのこと気でも触れてしまえば楽だったのに。あぁ無常。
5歳の時からだいぶ飛んで省略させてもらうが、今現在快斗は花の三十路である。25年の中には濃密な迷子記録が刻まれている。6歳の時には同じベッドで知らない男の子が寝ていて泣いた。周囲曰く双子の兄とか。なんじゃそら。三十路の今だからこそ言えるが、あれ新一だった。思い返せばはじめての迷子の時のお隣さん、表札が工藤だったような…。
親父が殺された翌年には親父が死んでないところに迷い込んで、帰ってからしばらくふさぎ込んでたなぁ。KIDになると決めてから、時計塔でのヘリから発砲したやつを調べたらあら不思議かつての(仮)の兄またはお隣さんだった時の俺の気持ち。
返して俺の純情。
高校を卒業する年にはなんとあの黒の組織もその規模故に解体された。俺が放り投げたUSBが役に立ったのだと思いたい。
ちょいちょい、小さな手助けをしたり手を組んで謎解きをしたり、とそれなりに工藤新一という人物とは接点があったように思える。むしろ自分から作った。頑張ったぞ俺。
7年前、23の時に酔った勢いで新一に愛を語ってしまったことも、今ではいい思い出だ。長かった片想いのとしつきが報われて最高の瞬間だった。
迷い込むことも多々あるが、それでも確かに幸せを掴んでみせたのは、迷い込んだ先での経験もあったのだと思う。どこのファンタジーだよ、なんてつっこむほどの場所もあったし、心臓にぎゅうっと来るようなところもあった。よく耐えた俺。
快斗がこうして過去を振り返っているのには理由がある。
今日は久しぶりの休日なのだ。で、あるからして。
るんたるんた、るんたったと待ち合わせのカフェまで上機嫌で向かう。
明日からはまた仕事の日々ではあるが久方ぶりに新一に会えると思うと上機嫌にもなるというもの。今日は一体何をしようか、せっかく待ち合わせも外にしたのだからこのままどこかへ出かけてみようか。新一がテレビで興味を引かれていたサスペンスものの映画でも見に行くか?
なんにせよ今日は楽しくなりそうだ、なんせ新一と!デートなのだ!久しぶりの!
絶対誰にも邪魔させないと決意を固め、待ち合わせ場所のカフェのドアを引く。さらさら、と今どき珍しいタイプのドアベルが体を揺らして来客を知らせる。レトロでシックな内装はここ最近新一のお気に入りらしく、暇さえあればこのカフェで珈琲片手に本を読んだり、資料をまとめたりしている。
奥側の、こじんまりとした二人用の小さな席に、かわいい人はいつも座って微睡んでいる。さあて今日はどうやってかの君を楽しませてやろうか。そう舌なめずりをして、文庫本を読んでいる新一へ声をかけようとしてーー。
「早かったな、快斗」
ーーえ?
そこにいたのは、紛うことなき紳士であった。
あっ迷子だ。
男にしては細い肩、余計な肉もついていなければそれほど筋肉質でもない腕、腰まわり。すらっと長くて見栄えの良い足。伏せられているまつげは長く、なんとも扇情的で色っぽい、組み敷くと強請るようにほんの少し、薄い唇を開く所作を思い出す。
掴むわけでもなく、腰元に手を添えるだけだと拗ねてそっぽを向くのだ。かあいい。かわいい、愛しい。
白昼堂々、そんな思考に耽りながら観察してしまう程、なんというか、うん、己の恋人は色気を振りまきすぎじゃなかろうか。観察していて気付いたがこの新一、確実に快斗より年上だ。それも多分10歳ほど。まずい、また迷った。
早いとこ帰らなければと思う心と、もう少しだけこの年上であろう新一を眺めていたいという欲が出てしまってもう大変。俺はいったいどうすればいいんだ。うぉぉぉ、と店先で悶えていると、店員さんに不審者を見る目で見られた。申し訳ない。
「早かったな快斗。何やってんだ?」
悶えている間に会計を済ませた新一が隣に立っていた。やばい細い。歩き方に変な癖がついてる、怪我でもしたのかな、とか手に持ってるステッキ素敵だねなんつって、とかめっちゃ美人だね、なんて言葉はマッハで頭から追い出した。えー推定40代の新一美しすぎなーい?
「ほら、行くぞ。おめー後輩のマジシャンの勤め先に顔出しに行くっつってたじゃねーか」
そう言いながら、さっさと歩き出した新一を追う。その方向は確かに快斗の後輩であるマジシャンの勤め先へ向かっている。なるほど、これはついて行った方が良さそうだと判断して新一の隣へ並んだ。
そして到着したマジックバー。真昼間から。くそぅ店内の照明が暗くて新一のご尊顔がよく見えない。目が慣れてきた。あんっまぶしい。
カウンター席を陣取った2人は、それぞれバーテンダーに酒を頼んだあと、口を開くわけでもなくゆったりと小さなステージを眺めていた。日々マジックの腕を研磨するのに余念がないため、後輩とはいえ研究研究、と視線を向ける。
初々しさの拭えないマジックではあるものの、中々に上出来だ。
快斗に倣って、ウイスキー片手にショーを眺めている新一の横顔を肴に酒を呷る。
鼻筋はすうっと一筋、筆を引いたように麗しいし、薄い唇は柔らかく笑みを形作っている。
さわりたい、という欲求を押さえ込みながら、ぐいっと酒をまた呷る。
うぅむ、酔ってきたか?と浮き足立ったような心地でいると、グラスを取り上げられた。
「え?」
「おめーにこれは強すぎんだろ。ほれ、おじさんに任せてみろ。」
ヒィ。勘弁して。
おじさんって言った。この紳士おじさんて。しかもスマートに取り替えられるし。代わりにくれたこのお酒何。めっちゃおしゃれ。死ぬ。語彙力の欠如。
なにこの紳士。いたずらっ子みたいな顔でこっち見ないで。
俺の心臓はもうもたなくてよ。
「…俺を子どもか何かだと思ってる?」
荒ぶる心の内を鎮めながらかろうじてそう言い募る。ダンディーな紳士と隣り合うには少しくらい皮肉を混ぜねばやってられないのだ。
「…ん」
くい、と元は快斗のものであったグラスの中身を喉へ呼び込み、面白そうにちらりと視線をひとつ。むくれる快斗の顔を見て、ふは、と吐息をこぼしたかと思えば楽しそうに言の葉を差し向ける。
「まだまだ若造じゃねえか」
その顔のなんと楽しそうなことよ。
快斗よ、俺よ、我が人生よ、ここに極まれり。
やめておでこツンてしないで。死んでしまいます。嘘じゃねぇからな。フリでもねーよ。
頬の内側の肉を噛んで、ついでに下唇も噛んでこれでもかと耐える。ふぐぅ、とかひぃ、とかそういう類の声が出てしまわないように。うひぃ。
悟りの境地を会得してしまいそうな快斗のことなど露知らず、からかって満足したのか上機嫌にアルコールを呑んでいた新一が、不意にその双眸を伏せる。
テーブルの上に無造作に投げ出されていた快斗の手を、トン、と控えめにノックして呼ぶ。
何だ、どうしたんだ?と新一の方を見遣れば、少し伏せられて影を落とすまつげ、ほんのり酒気に染まった頬、アルコールを余分に含んだ吐息、湿った唇。
ーーこれ俺誘われてる?
さすがに硬直するしかない。しかもダメ押しのように…ダメか?なんて。
ダメじゃないです。
「もしかして、苦手だったか?」
赤くなりそうな顔面を頬の内側の肉を噛み締める事で耐えていると、新一の細い指にはちょん、と摘まれている煙草。
「あっ煙草、うん、全然平気!どうぞ!」
焦りと緊張が混ざってものすごい片言な返事をしてしまった。新一に怪訝そうな顔をされてしまったけどどうか大目に見てほしい。元凶はお前だちくしょう。俺の反応見て遊ばないでほんと。
愉快で仕方がない、とでもいうような顔をした新一が、煙草に火をつける。けぶる紫煙は思ったよりもライトな香りだ。
ーーーすぃ、と。
煙を吹きかけられて。
思わず目を白黒させてその唇を見つめてしまう。
「は、かぁわいいねぇ」
にや、と意地の悪い視線を向けられた。あぁクソ、嵌められた。
このおじさま遊んでやがる、と気付く。そして引っかかる快斗のあわれなことよ。
新一の口調が、やんわりと幼くなっているように感じる。さては酔ってるな。
このままだと酒の勢いもあって美味しく頂かれてしまうのでは?待って。やぶさかでないけれどどっちかというと俺が食べる方が良い。
ブツブツ、と酒のまわりはじめた頭でそんなことを言っていると、きょろり、と瞳を瞬かせた新一が不思議そうにこぼした。
「何だ、おめー俺に抱かれてーのか」
「いやむしろ抱きたいです」
「はっは、素直でよろしい」
間髪入れずそう返せば、またツボにハマったらしく笑いながら御褒美だ、とツマミのチョコレートを口に突っ込まれた。
えっちょっと待ってなんで俺の口に突っ込んだ指口元にあーーやめ、ひぃ、なんでそのまま口に含んだの。きゃぁ。供給過多で死んでしまいます。
せめて画面越しとかにして。
にたぁ、と笑った新一に背筋が凍る。
これ以上はだめだ、危険すぎる。
快斗の第6感とかそういうものが言ってる。適当な理由をでっち上げ、万札をテーブルに置いて立ち上がる。それを止めもせず静観する姿勢で快斗の挙動を眺めていた新一へ、意趣返しとばかりに。えいや、と。
「は?」
ぷちゅ、と可愛らしく頬に口付けられて、新一が呆然としている間に出口へ駆け込んだ。
随分長い間マジックバーにいたのか、もうすっかり日は落ちて、これから飲みに行きます、というような人達もちらほら見かける。
歩き出し、火照った体を冷ましながら、快斗は年上って怖い、と思い知るのだ。
「…かーえろ、と」
かわいい恋人へ、同じように迫ってみるのもいいかもしれない。
そんなことを企てながら。
扉の向こうへ消えた快斗を鼻で笑って、たまには遊んでやるのも悪かねーな、と自嘲した男のことなど知らず。
出直してくるがいいさ、がきんちょ。