真島さんと二人で映画を楽しんだあの日から、何か月経っただろうか。
あの日は、ゆっくり二人の時間を取れる最後の日だった。
真島組はシマの拡大に乗り出し、大きな上納金を東城会に提供するために事業拡大を図ろうとしていた。
あの日を最後に真島さんを始めとした真島組構成員たちは一層力を入れて働き始めた。
血眼で働く彼らを見て、邪魔はできないと考えた私は事務所に顔を出すことをなるべく控えていた。
たまに、差し入れを持って行って少しでも何かの役に立てればいいと思っていたのに。
それは、偶然、私が事務所に居る日を選んで起きてしまった。
「親父、大変です!」
「武装した他の組の奴らがエレベーターで上がって来とります!」
「カチコミです!!」
人間というのは不思議なもので、平和な環境に順応しきってしまうとそれが当たり前で、普通であると勘違いしてしまう。
自分の視界に写る本物たち以外はまるっきりフィクションであるかのように錯覚する。
ニュースで伝えられる紛争や感染症の猛威、殺人事件や強盗など、本当に起こっていると分かっているようでわかっていない時がある。
そして。
それに気付くのはいつだって、自分自身の周りで何かが起きた時だと。
発生の瞬間に思い知らされるのだ。
警戒を知らせるアラーム音。
組員たちの怒声がフロア中に響く。
そんな現実が、私に自分を見ろと、叫んでいるように思えた。
「天下の、真島組ですよね、ここ…?」
「真島組に手を出そうなんて奴はそうそうおらん…せやけど今回は…。」
今回ばっかりは違う、そう言わずに口の中に収める西田さんの顔は明らかに強張っている。
普段は見られない緊迫感のある表情が、余計に私の心拍を速めていく。
「勢力拡大に乗り出した今が攻め時と判断されたんです、あちこちに手を回す今なら事務所本体に人が少ないちゅーことを見越して。」
冷静に、けれど震える手を隠すことなく東山さんは目を合わせずに説明してくれた。
あまりにも突然に起こった非日常の中の非日常が私の身体をぐらぐらと揺さぶって。
唐突に、非日常の中の日常がぐしゃりと崩れ始めたのを、身体が感じた。
現実味のない現実が、楽しそうににやりと笑って、こちらに近づいてくるのが分かる。
近寄らないでといってもそれは既に私の眼と鼻の先にまで迫ってきているのだろう。
分かり切ったような気になって分かり切れていないとんちんかんな思考から逃れるようにして真島さんを見上げる。
「…ほんま、東城会はアホばっかやなぁ。」
彼の表情は。
楽しそうで、嬉しそうに見えるように、コーティングされていた。
誤魔化しに誤魔化しを重ねたその表情。
なんだって、そんな顔ができるのだろう。
なんだって、そんな顔で誤魔化そうとするのだろう。
全く、馬鹿らしいにも程がある。
幾らそんな表情を作ったところで、目だけは。
彼の眼だけはなにも誤魔化せずに、寂しさを纏ってしまうのだから。
「名前。」
「…なんですか。」
真っ黒な隻眼が、じっとこちらを見下ろす。
おどけてみせない、ドスの効いた声が彼の素性を思い出させた。
「だいぶ前にみた映画、覚えとるか。」
だいぶ前。
漠然とした情報なのに、彼が伝えたいであろう映画はすぐに頭の中に浮かぶ。
ここ最近見た映画はそれしかなかった。
最後に彼とゆっくり出来たあの日、見た映画。
そして、その時に真島さんと話した内容までもが鮮明に蘇る。
主人公は、窮地に追い詰められたとき、ヒロインを逃がした。
頭の中を駆け抜ける主人公とヒロインの掛け合いが私の体をさっと冷やしていく。
「…嫌……ですよ………?」
彼は、困ったように笑った。
笑ってる場合じゃないというのに、笑った。
「あん時は、鼻でわらっとったやないか。」
否定は、出来ない。
あの映画を見ているときは、ヒロインに嫌気が指していた。
そんな駄々をこねる暇があるならさっさと逃げて主人公のためになるように努めるべきだと思ったのだ。
だけど。
これは現実だ。
困ったことに、今ここで目の前で、実際に起きていること。
これは、フィクションなんかじゃない。
「…これが、女の本能だって言ってたじゃないですか…。」
悔しくて。
認めたくなくて。
食らいついて見せるけれどそれは虚しくも彼には通用しない。
「頼むから、言うこと聞いてくれんか。」
なんで、私の心はここまでわがままなのか。
危険が迫っているのはわかってる。
私なんていう一般人にはなにもできないことだって分かってる。
…だけど。
私は、離れたくない。
貴方から、私は離れたくない。
足手まといだって分かってる。
彼の危険を増長させるだけだってそんなこと分かってるよ。
「こんなこと、言いたくないですけど。」
こんなこと、自分が考えるだなんて思わなかったから。
こんなこと、毛嫌いしているはずだったのに。
私は腐っても貴方が好きだから。
私は、逃げたくなんかない。
「言いたくないですけど、嫌です!」
貴方をただここに残して。
どうなってしまうかも分からない結末に身を任せて。
自分一人で生きてエンドロールを迎えるだなんて馬鹿げてる。
だから。
私は、嫌です。
嫌なんです。
ぴしゃりと響いたこの声は、一瞬で騒がしい事務所中を包み込んだ。
そこまでしてようやく。
ようやく。
寂しそうに見えた彼の眼までもが、面白いと笑ってみせた。
私の思いがどこまで彼に届いたのかだなんて今はどうだっていい。
貴方の隣に置かせてくれたら私はそれでいい。
ずしり、と。
思っていた以上に重たく頭に置かれた彼の手。
しゃあないなあ、と乱される髪の毛。
少し、身体が落ち着いてようやく周りの状況が見えてきた。
普段の真島組では見ることのなかった銃器を構成員たちが運んでいる姿を見て。
敵がどこまで迫ってきているのかを伝える叫び声がより切迫しているのを聞いて。
再び映画のような現実に直面しているのを感じる。
「…なんでもいいんです、私にできること、何かさせてください。」
何だってするから、貴方の近くに置かせてください。
怪我した人の手当てだって不慣れだけどやってみせるし。
貴方が人を殺せというのなら、この手を朱色に染めても構わないから。
私は貴方から離れたくないんです。
「ほしたらついてきぃや。」
頭の上に置いていた手を下して、私の手首を優しく掴む革の手袋。
予期しない動きに引っ張られる体。
西田さんと東山さんの静止を聞きもせず、彼はかつかつと足音を鳴らして正面から事務所を出ていく。
事務所前には、大人数の構成員がエレベーターに向けて銃を構えていた。
少し後ろのほうで壁にもたれてエレベーターを見つめていた南さんも、突如現れた真島さんにぎょっと目を開く。
「お、親父、何しとるんですか!」
流石、統率の取れた真島組、というべきなのか。
南さんが声を荒げても構成員たちはざわざわと小声を出しても、エレベーターから目を離すことはない。
「おう、南、ちょっとの間任せたで。」
たったそれだけ。
歩きながら、そちらに目を向けることもせずにその一言を残して、彼はかつかつと目的の場所に向かう。
ちらりと見えたエレベーターの階数表示の数字は50と示していた。
もう、すぐそこに喧騒は迫っている。
血なまぐさい、現実とは思えない現実が、迫っている。
どこに連れていくつもりなのだろう、だなんて考えるだけ無駄だと思った。
そんなことより、彼と一緒に居られるこの時間が、こんな緊迫感の中でも幸せに感じられる。
かつかつ。
かつかつ。
少し歩いて、彼は何も言わないまま階段を昇り始める。
一段一段、歩くたびに私と彼とを繋ぎ止める腕が揺れる。
下の階のほうから、騒ぎ声と複数の重たい足音が聞こえる。
きっと彼らは、エレベーターだけじゃなくて階段からも来ているのだろう。
ちらりと見える現実の一端が怖くなった。
「こんなに、お前と一緒に居れるとは思っとらんかった。」
ぽつり、と吐き出される彼の声。
階段をのぼりながら、彼は確かめるように言葉を口にする。
「こんな事を生業にしとるせいもあって、好いた奴とはそう長くはおれん。」
以前、彼の部屋で映画を見ていたとき。
彼が一瞬、過去を思い出していたように見えたことがある。
そのことを言っているのだろうか、この背中はいつもよりも大きく、けれど重たく見える。
「せやけど、お前と居れてよかった。」
「こんな状況でも、逃げ出さんと食らいついてくるお前で良かった。」
ぽつり、ぽつり、と。
言葉を吐き出す彼なんか見たことないから。
どうしようもなく、どうしていいのか分からなかった。
「ずるいですよ。」
「分かって言うとんねん、あほか。」
少し、後ろを振り返ってにへらと笑って見せる。
ずっと年上のくせに、少年みたいな顔で笑って見せる。
そんな彼が、たまらなく恋しくて、愛おしい。
途端に、いつも彼と話しているときのような。
今日がなんでもない、普通の日であるかのような感覚がして。
少しずつ、恐怖感が薄れていっているのを実感した。
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真島組はシマの拡大に乗り出し、大きな上納金を東城会に提供するために事業拡大を図ろうとしていた。
あの日を最後に真島さんを始めとした真島組構成員たちは一層力を入れて働き始めた。
血眼で働く彼らを見て、邪魔はできないと考えた私は事務所に顔を出すことをなるべく控えていた。
たまに、差し入れを持って行って少しでも何かの役に立てればいいと思っていたのに。
それは、偶然、私が事務所に居る日を選んで起きてしまった。
「親父、大変です!」
「武装した他の組の奴らがエレベーターで上がって来とります!」
「カチコミです!!」
人間というのは不思議なもので、平和な環境に順応しきってしまうとそれが当たり前で、普通であると勘違いしてしまう。
自分の視界に写る本物たち以外はまるっきりフィクションであるかのように錯覚する。
ニュースで伝えられる紛争や感染症の猛威、殺人事件や強盗など、本当に起こっていると分かっているようでわかっていない時がある。
そして。
それに気付くのはいつだって、自分自身の周りで何かが起きた時だと。
発生の瞬間に思い知らされるのだ。
警戒を知らせるアラーム音。
組員たちの怒声がフロア中に響く。
そんな現実が、私に自分を見ろと、叫んでいるように思えた。
「天下の、真島組ですよね、ここ…?」
「真島組に手を出そうなんて奴はそうそうおらん…せやけど今回は…。」
今回ばっかりは違う、そう言わずに口の中に収める西田さんの顔は明らかに強張っている。
普段は見られない緊迫感のある表情が、余計に私の心拍を速めていく。
「勢力拡大に乗り出した今が攻め時と判断されたんです、あちこちに手を回す今なら事務所本体に人が少ないちゅーことを見越して。」
冷静に、けれど震える手を隠すことなく東山さんは目を合わせずに説明してくれた。
あまりにも突然に起こった非日常の中の非日常が私の身体をぐらぐらと揺さぶって。
唐突に、非日常の中の日常がぐしゃりと崩れ始めたのを、身体が感じた。
現実味のない現実が、楽しそうににやりと笑って、こちらに近づいてくるのが分かる。
近寄らないでといってもそれは既に私の眼と鼻の先にまで迫ってきているのだろう。
分かり切ったような気になって分かり切れていないとんちんかんな思考から逃れるようにして真島さんを見上げる。
「…ほんま、東城会はアホばっかやなぁ。」
彼の表情は。
楽しそうで、嬉しそうに見えるように、コーティングされていた。
誤魔化しに誤魔化しを重ねたその表情。
なんだって、そんな顔ができるのだろう。
なんだって、そんな顔で誤魔化そうとするのだろう。
全く、馬鹿らしいにも程がある。
幾らそんな表情を作ったところで、目だけは。
彼の眼だけはなにも誤魔化せずに、寂しさを纏ってしまうのだから。
「名前。」
「…なんですか。」
真っ黒な隻眼が、じっとこちらを見下ろす。
おどけてみせない、ドスの効いた声が彼の素性を思い出させた。
「だいぶ前にみた映画、覚えとるか。」
だいぶ前。
漠然とした情報なのに、彼が伝えたいであろう映画はすぐに頭の中に浮かぶ。
ここ最近見た映画はそれしかなかった。
最後に彼とゆっくり出来たあの日、見た映画。
そして、その時に真島さんと話した内容までもが鮮明に蘇る。
主人公は、窮地に追い詰められたとき、ヒロインを逃がした。
頭の中を駆け抜ける主人公とヒロインの掛け合いが私の体をさっと冷やしていく。
「…嫌……ですよ………?」
彼は、困ったように笑った。
笑ってる場合じゃないというのに、笑った。
「あん時は、鼻でわらっとったやないか。」
否定は、出来ない。
あの映画を見ているときは、ヒロインに嫌気が指していた。
そんな駄々をこねる暇があるならさっさと逃げて主人公のためになるように努めるべきだと思ったのだ。
だけど。
これは現実だ。
困ったことに、今ここで目の前で、実際に起きていること。
これは、フィクションなんかじゃない。
「…これが、女の本能だって言ってたじゃないですか…。」
悔しくて。
認めたくなくて。
食らいついて見せるけれどそれは虚しくも彼には通用しない。
「頼むから、言うこと聞いてくれんか。」
なんで、私の心はここまでわがままなのか。
危険が迫っているのはわかってる。
私なんていう一般人にはなにもできないことだって分かってる。
…だけど。
私は、離れたくない。
貴方から、私は離れたくない。
足手まといだって分かってる。
彼の危険を増長させるだけだってそんなこと分かってるよ。
「こんなこと、言いたくないですけど。」
こんなこと、自分が考えるだなんて思わなかったから。
こんなこと、毛嫌いしているはずだったのに。
私は腐っても貴方が好きだから。
私は、逃げたくなんかない。
「言いたくないですけど、嫌です!」
貴方をただここに残して。
どうなってしまうかも分からない結末に身を任せて。
自分一人で生きてエンドロールを迎えるだなんて馬鹿げてる。
だから。
私は、嫌です。
嫌なんです。
ぴしゃりと響いたこの声は、一瞬で騒がしい事務所中を包み込んだ。
そこまでしてようやく。
ようやく。
寂しそうに見えた彼の眼までもが、面白いと笑ってみせた。
私の思いがどこまで彼に届いたのかだなんて今はどうだっていい。
貴方の隣に置かせてくれたら私はそれでいい。
ずしり、と。
思っていた以上に重たく頭に置かれた彼の手。
しゃあないなあ、と乱される髪の毛。
少し、身体が落ち着いてようやく周りの状況が見えてきた。
普段の真島組では見ることのなかった銃器を構成員たちが運んでいる姿を見て。
敵がどこまで迫ってきているのかを伝える叫び声がより切迫しているのを聞いて。
再び映画のような現実に直面しているのを感じる。
「…なんでもいいんです、私にできること、何かさせてください。」
何だってするから、貴方の近くに置かせてください。
怪我した人の手当てだって不慣れだけどやってみせるし。
貴方が人を殺せというのなら、この手を朱色に染めても構わないから。
私は貴方から離れたくないんです。
「ほしたらついてきぃや。」
頭の上に置いていた手を下して、私の手首を優しく掴む革の手袋。
予期しない動きに引っ張られる体。
西田さんと東山さんの静止を聞きもせず、彼はかつかつと足音を鳴らして正面から事務所を出ていく。
事務所前には、大人数の構成員がエレベーターに向けて銃を構えていた。
少し後ろのほうで壁にもたれてエレベーターを見つめていた南さんも、突如現れた真島さんにぎょっと目を開く。
「お、親父、何しとるんですか!」
流石、統率の取れた真島組、というべきなのか。
南さんが声を荒げても構成員たちはざわざわと小声を出しても、エレベーターから目を離すことはない。
「おう、南、ちょっとの間任せたで。」
たったそれだけ。
歩きながら、そちらに目を向けることもせずにその一言を残して、彼はかつかつと目的の場所に向かう。
ちらりと見えたエレベーターの階数表示の数字は50と示していた。
もう、すぐそこに喧騒は迫っている。
血なまぐさい、現実とは思えない現実が、迫っている。
どこに連れていくつもりなのだろう、だなんて考えるだけ無駄だと思った。
そんなことより、彼と一緒に居られるこの時間が、こんな緊迫感の中でも幸せに感じられる。
かつかつ。
かつかつ。
少し歩いて、彼は何も言わないまま階段を昇り始める。
一段一段、歩くたびに私と彼とを繋ぎ止める腕が揺れる。
下の階のほうから、騒ぎ声と複数の重たい足音が聞こえる。
きっと彼らは、エレベーターだけじゃなくて階段からも来ているのだろう。
ちらりと見える現実の一端が怖くなった。
「こんなに、お前と一緒に居れるとは思っとらんかった。」
ぽつり、と吐き出される彼の声。
階段をのぼりながら、彼は確かめるように言葉を口にする。
「こんな事を生業にしとるせいもあって、好いた奴とはそう長くはおれん。」
以前、彼の部屋で映画を見ていたとき。
彼が一瞬、過去を思い出していたように見えたことがある。
そのことを言っているのだろうか、この背中はいつもよりも大きく、けれど重たく見える。
「せやけど、お前と居れてよかった。」
「こんな状況でも、逃げ出さんと食らいついてくるお前で良かった。」
ぽつり、ぽつり、と。
言葉を吐き出す彼なんか見たことないから。
どうしようもなく、どうしていいのか分からなかった。
「ずるいですよ。」
「分かって言うとんねん、あほか。」
少し、後ろを振り返ってにへらと笑って見せる。
ずっと年上のくせに、少年みたいな顔で笑って見せる。
そんな彼が、たまらなく恋しくて、愛おしい。
途端に、いつも彼と話しているときのような。
今日がなんでもない、普通の日であるかのような感覚がして。
少しずつ、恐怖感が薄れていっているのを実感した。