
「帰ったっす」
がたりと扉の閉まる音に続き、耳になじむ低めの声が聞こえた。玄関から一直線にリビングへ向かって来た恵は、すでに用意された料理の匂いを嗅いでか、こちらへ近づくに連れて顰めた眉をすっと緩めた。彼の行動をしっかりと見て、湯気のたつ出来たてのおかずがのったお皿をテーブルの上に置く。味見をした限り、我ながら今日の仕上がりは上々だ。早く食べてほしくて、柄にもなく内心ワクワクして、自然と口角が持ち上がる。
「おかえり、手洗っておいで。ご飯食べよ」
「はい」と返事をして肩から鞄を降ろした恵をちらりと見遣り、あたため終わった味噌汁の火を止めた。お揃いのお椀を手に取って、おたまでくるくると鍋の中身をかき混ぜれば、買ったばかりの味噌とだしのいい香りが立ち込める。きっとお腹すいているだろうなあ、なんて考えながら切り分けられた豆腐をひとすくいした。瞬間。
「おっと」
急な振動で手元が揺れ、ぽちゃん、とおたまの上の豆腐が味噌汁の中に落ちてしまう。視線を下に落とすと、わたしのお腹にきつく巻かれた腕が目に入り、すぐさま肩には彼の頭が乗っかった。洗面所へ消えたはずの恵がすぐ後ろにいる。完全に動きを止められたわたしの心は、浮ついた感情よりも恵の珍しい挙動に戸惑いが隠せないでいた。
「すみません」
あっさりと謝罪するや否や、言葉とは裏腹に込められた力が一層強くなる。それに加えて、すぐ近くで聞こえる呼吸音は、ひどく浅い。これは恋人同士がする甘いものとは程遠く、まるで懇願するようなものに思えた。触れている部分は温かいのに胸の内側は仄暗く冷えていく。本人はぎゅうと抱き着いたまま、うんともすんとも言わなくなるから、身動きが取れず立ち尽くしてほとほと困ってしまった。
「恵」「どうした?」わたしの呼び掛けにも応答はない。さて困った。後ろに回られては、彼がいまどんな顔をしているかもわからないし。
…まあ、帰宅早々こんな様子になるということは、十中八九、任務関係で何があったに違いないだろうが。もしかしたら、この部屋に入るまでしかめ面だったことと同じ理由なのか、などと考えが頭をよぎってしまい殊更気がかりだ。わたしはおたまとお椀を元に戻して、空いた手で肩に乗っている雲丹頭をわしゃわしゃと撫でた。何年か前までは不思議でなかったこの動作。昔を思い出して、ノスタルジックな気持ちになりながら、精一杯の柔らかい声で問いかける。
「恵、せっかくなら前からお願いできる?」
ピクリと肩が揺れ、ゆるゆると腕が解かれて同時に頭も離れていく。恵にとってこの提案は嫌ではなかったようで、素直に言うことを聞いてくれるみたいだ。そうして解放された身体をゆっくりと一回転させれば、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた恵が、いた。上背がわたしより高いせいで、下を向いた顔には深く影が落ちているように見えるし、薄い唇は一文字に閉じられ強く結ばれている。一目見るだけで良くないことがあったと容易にうかがい知れた。
「はい、どうぞ」
腕を広げて待ち構えていると、涼しげな瞳がちら、とこちらを見た。その瞼が伏せられると、一瞬で引き寄せられてあっという間にふたりの距離がゼロになる。額を胸元に押しつけて息を吸うと、僅かに土埃の匂いがした。きっと今日もたくさん頑張ったんだろう。わたしは、労いの気持ちを込めて背中に回した手のひらを規則的に叩きはじめた。とんとん、と繰り返される一定のリズムに落ち着いたのか、ようやく彼は大きく息を吐く。それを合図と受け取り、わたしは恵にひとつ提案をした。
「恵、楽しいこと、考えようか」
いままで彼に対して家族愛に近い庇護欲を抱いていたけれど恋人≠ノなってからはひとりの男性としても、優しく在りたいと思うようになった。だって、当たり前だと思っている日常が明日も来るとは限らないし。なあんて、身近なカップルの受け売りだけれど、私自身も苦しいほどにその痛みは理解しているつもりだから。この手が届くうちは、一秒でも幸せな時間を過ごしてもらいたいと考えるのは自然なことだ、と胸を張って言える。いまのわたしなら。
「楽しい…たとえば…どんな?」
「物凄くベターだけど、明日から休みっていわれたら〜とかどうかな」
「…急っすね、でも……」
いいですね、と恵は言葉を続けた。わたしの空想ごっこにツッコミはいれても、付き合ってはくれるようで。
「だったら…旅行に行きたいです、ふたりで」
恵からは考える間もなく答えが返ってきた。うん、良かった。ちゃんと考えられるじゃん楽しいこと。わたしが「それいいね、沖縄行きたい」と言えば「最近お土産もらったからって、他人に影響されてません?」なんて、からかい言葉も出てきて。それからはサーターアンダギー食べてみたいだとか、ガジュマル見てみたいだとか、空想旅行のプランを気のすむまで話した。そうして、渡された会話のボールをどちらが持っているか分からなくなったところで、区切りをつけるように、恵はわたしからゆっくりと体を離した。腕から滑らせるように降ろした手のひらで、わたしの手をゆるりと握る。
「ありがとうございます」
「うん、どういたしまして」
何に対しての感謝なのかは理解しているけれど、あえて触れないでおいた。なのに、恵は小さな声で「すんませんした」と呟く。平静を取り戻したおかげだろうか、こちらからなんと言ったわけでもないのにバツの悪そうな顔で視線を右下へ落としている。
「冷めちゃったご飯のことを心配してるなら、たくさん食べてくれればそれでいいよ」
一拍ほど間をあけて「今日めっちゃ自信あるし」と付け足すと面白いほど間髪をいれずに「それは、任せてください」と宣言された。が、まだなにか言いたげな眼差しを寄越されて、わたしは子首を傾げる。恵はしばらく押し黙ったあと、意を決したように口をひらいた。
「聞かないんですか」
「うん、聞かないよ」
「!」
恵は即答したわたしに分かりやすく瞠目している。そりゃあ、世間では辛いことは吐き出せってよくいうけど、すべての人間が当てはまる訳でもない。逆に口にすることで余計に辛くなることもあるだろうし、ましてや生死に関わる仕事をしてれば尚更。
「聞いて欲しいなら別だけど、無理に話さなくていいんじゃない?」
「…はい」
「話せるくらいに吹っ切れたら教えてよ、またなでなでしてあげるからさ」
「いや…な、撫でんのはもう、いいっすから」
「遠慮しなくていいよ」
「…俺、手洗ってくるんで」
恵は手のひらで口元を覆い、くるんと踵を返して逃げるように洗面所へ消えていった。若干どもり気味の言葉に、思わず吹き出しながら、しっかりと愛くるしい彼氏の背中を見送る。その後ろ姿は、帰宅した時よりも幾分かしゃんとしていてわたしは静かにホッと胸を撫で下ろした。
さて、今日わたしができることは、せいぜいあと3つくらい。恵の胃を満たし、肩までお湯をつからせて、ふかふかの布団に押し込むことだろう。コンロに再び火を灯しながら、今日は思い切り甘やかしてあげよう、そう心に決めたのだった。