
「はい?」
恵って可愛いよね、と言い放ったわたしに眉を顰めてみせた。お風呂上がりのゆったりとした時間。そこに突然発せられた言葉に不快感を隠さずにじり寄る彼。わたしはそれにつゆとも臆せず、肘を乗せたテーブルからマグカップを攫って口をつける。中に入った紅茶をしっかりと嚥下するまで待てるのが、恵の可愛くていいところだ。
「…珍しく抽象的なこと言いますね、結論から言ってくれますか」
恵は諦めたような口調で言いつつ、真向いに座っていたところからわたしのすぐ隣へと移動し、腰を落ち着けた。彼に対しての“可愛い”は外見のことではなく、わたしが用意したスウェットを文句言わずに着ていたり、ちゃっかり自分の歯ブラシを用意していたり。かまって欲しいけど口に出したくなくて視線で訴えてくるような、そんなところだ。
しかし、ありのままワケを話してしまえば意識して辞めてしまうことは明白。わたしは心の中でだけ恵の可愛いを記録してみては、すこしだけちょっかいを出したりしているのだ。
「あはは、言葉のままだよ。裏なんてないし思った事が口に出ただけ」
はぐらかすような言葉に、彼は不満げに息を吐き出しわたしの肩に頭を預けた。ふわりと同じシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、触れた髪先が頬を掠めむず痒さにちょっぴり身を捩ると「いやならどかしてください」だなんてぶっきらぼうに零された。
けれども、どかしていい、と言う割にわたしの腰へするりと腕を回すものだから。嫌じゃないと解っていての物言いに、またしても可愛いという感情を抱かされてしまう。
こうやって彼に対して慕情を抱くたび、“恵”と呼称するようになってから変化した生活のいくつもが頭の中に浮かんでは消える。
時間を合わせて一緒に部屋へ帰ること、おんなじ食卓を囲んでご飯を食べること、ひとつのベッドにふたりで眠ること。ひとつのものをふたりで分け合うこと、そのどれもが温かくてたくさんの色で満ち溢れていて。それは呪術師として自分の命も顧みず生きていた日々や価値観を、明日を失うのが怖いという思いに変えてしまうほど、恐ろしい感情だった。
「…急に黙って、どうしたんすか?」
さきほどの調子のいい声から一転、不安が混じった声色で問いかけられる。なんでもない、と軽くかぶりを振ると「そっすか」と返されたきり、彼は少し考えるようにじっと黙りこんでしまった。そんな様子を見て、年下の男の子に気を遣わせてしまった申し訳なさがじわじわと込み上がってきて、私は怖がりな思考回路を切りかえる。すこしでも明るい話題を振ろうと思いを巡らし、口を開きかけたとき。
「名前さん」
落ち着いた声で名前を呼ばれ、肩から頭を離した恵としっかり視線を通わせる。すると、大きな手がわたしの顔の輪郭に触れ、つーっと滑っていった。壊れ物に触るように丁寧に顎を持ち上げられ、ゆっくりと恵の鼻先がわたしの眼前に迫る。咄嗟に瞼を閉じると、すぐ落ちてきたのは予想していた場所ではなく、頬に柔らかな感触。驚いて目を見開けば口角を片方だけ釣り上げ、まなじりを下げた恵と目が合う。そして。ゆっくりと大きな口が開かれた。
「そんなに可愛い俺が好きなら、これで元気出してください」
終わりの一音を聞き終えたわたしの脳内は、完全に思考するのを投げ出した。そんな、まるで、ひと匙の砂糖を紅茶に溶かすように慣れた仕草で頬っぺにチューをされるなんて、微塵も思ってもみなかったわたしの頭の中は、面白いくらいに真っ白だ。
「そ、そん、なの…!どこで覚えてきたの…」
必死に手繰り寄せたワードは尻すぼみになって消えた。熱くなった頬を必死に隠すわたしを見て、恵は満足げなしたり顔を浮かべ笑ったのだった。
「…素直に甘えないアンタがいけないんすよ」