月の見えない夜更け。僕たちは関東北部にある廃墟へ訪れていた。目的地は山々に囲まれた場所にポツンとたたずむコンクリート打ちっぱなしの建物。実際に近くで見ると、資料に添付されていた写真よりもはるかに劣化していた。崩れた壁面から階段部分が露出しており、少なくとも二階層以上であることがわかる。まさに廃墟、といった風貌のそこは雨霧で視界が悪いこともあって、より一層イヤな雰囲気を醸し出していた。
共同任務として赴いたこの場所は、所謂いわくつきの場所として地元の人たちには有名な心霊スポットとなっているらしい。怖いもの見たさで訪れる人たちは後を絶たず、姿を消した被害者の数は約二十名でほとんどが男性。不思議なことに男女のカップルは生還できるといわれていて、そのあたりもオカルト好きには良いネタになっているらしい。
僕たちはそれが呪霊のせいかどうかを調べ、祓うことを目的とした任務に就いた。訪れた人間を拐っている可能性がある」と話されたけれど、一級呪術師の先輩と僕の二名で派遣されるあたり、ほぼ確実な情報なのだろうとはすぐに察しがつく。
だからこそ、一秒たりとも気を抜いたつもりはなかったのだが――
気がついた時には遅かった。当たりを見回せば暗闇、それだけでなく狭い空間に閉じ込められていた。考えるに僕たちは建物に入った瞬間から呪霊の生得領域内にいたのだ。
通常、生得領域内には出口が存在するが、この空間にはそれが見当たらない。なにしろどこもかしこも暗く、目の前にいる先輩の姿がぼんやりとわかるかどうかというくらい視界が悪い。加えて、壁と思わしきものを切りつけようが、呪力をぶつけようがビクともしないんだ。
床の境目を触って辿ってみたけれど、おおよそ一畳もないようで、天井も立ち上がれる程の高さは無く、さきほど刀を抜いた時にしっかりと頭をぶつけた。
例えるならば、ワンルーム…高専寮の押し入れサイズくらいだろう。つまりこの密室である空間に、僕と先輩は閉じ込められてしまっているのだ。呼吸音が聞こえるほどに狭い箱の中に、名前さんと、ふたりで。
「憂太くん、だいじょうぶ?」
声の方向へ顔を向けると、視線がぶつかりはっと我に返る。話の途中で黙りこくった僕を心配して声をかけてくれたのだろうか、先輩はいつもの溌剌とした表情を曇らせ心配そうにこちらを見上げていた。
「はい、名前さんこそは異変ないですか?」
「うん、特に無いんだけど…それが逆に不気味すぎて気持ち悪いくらいというか……」
たしかに、この空間は不気味だ。なぜなら漂う呪力に殺意がない。人間がギリギリ収まる空間に閉じ込めるだけで何もしてこなければ、酸素が減っている気配もしないし、いまのところ二人揃って体に変化もない。一通り、思いつく限りの術は試したからわかるけれど、まるで閉じ込めることだけを目的としたようなかんじだ。
出口を作らない代わりにそれ以上の縛りを設けているのだろうが、その意図は想像がつかない。こんな局地的に発現した呪霊が、一体なんのために?
ううん、と思案をめぐらしていると先輩はおもむろにスマートフォンをとりだした。
「だめだ…これも使えない。きっと所定時間をすぎても戻らなければ伊地知さんが動いてくれそうだけど…時間がちゃんと進んでるかわからないし…」
「いずれにしても早めに出る方法を見つけたほうがよさそうですね…なにか手掛かりになるものがあればいいんですが」
「手がかりかあ…ここに発現している呪霊って確か“自我がある”んだったよね? もしかして関係あったりーー」
はらり。とそれは先輩の言葉を遮るように頭上から落ちてきた。音を立てず僕の足のうえに転がったのは、白い紙で折られた五センチほどの鶴。いったいどういうことだろうか。突如現れた真っ白な折り鶴に、ふたりの脳内は疑問符で埋め尽くされたものの、この状況で現れた物体を確かめない訳にもいかなかった。
手を伸ばす先輩の手を制止して、右手でくちばし部分を掴んだ。手のひらにのせて細部を見た感じは、どこにでもある一般的な折り紙で作った鶴にみえる。
「変わったところある?」
先輩がずいっと僕の手元を覗き込む。わずかに空いている床の隙間に片手をついて身を乗り出し、傾げた首に合わせて顔立ちによく似合った艶やかな髪が肩を流れた。伏せられた黒々とした睫毛が綺麗で、そのまま鼻筋をたどって中途半端に空いた口元までしっかりと見てしまえば、ばくん、と心臓が跳ねる。
いま目に映っている画角があまりにも艷っぽくて、見てはいけないものを盗み見したような気持ちを抱いてしまい、咄嗟に視線を手元に戻した。
「いえ…特にないですね、ひらいてみましょうか」
「ほとんど呪力感じないし、なんなんだろこれ…」
どうやら、見る限りでは折り鶴には相変わらず殺る気のない呪力しかこもってないようなので、無遠慮に手際よく解体を始めた。興味しんしんな様子の先輩がどんどんこちらに近づいていることにも、こつんと膝がぶつかり甘い香りが鼻腔をくすぐって胸がぎゅっと苦しくなるのにも気が付かないふりをしつつ、鶴をただのひし形に変化させる。あとすこしで一枚の紙にもどるというところで、内側に文字らしきものが見えた。小さく細かな字で書かれていて、中身はしっかりとは読み取れない。
「を、し…? 何か文字が書いてあります」
「ん、ほんとだ。なになに……」
その文字がよく見えるように、解体しきった紙の皺を伸ばして広げてみせる。ふたりして覗き込んだそこに書かれていた文字は――
「「唇にキスをしないと出れませ……」」
最後のほうは互いに尻すぼみになった。丁寧に開いた紙をひと握りで潰し、もう一度心のなかで書かれた文字を復唱するが、まったく飲み込むことが出来ない。誰が誰となにをするって? 僅かな沈黙のあと、先に声を発したのは先輩だった。
「自我があるって、そういうこと、か」
「……え?」
「変態ってこと」
先輩は言いつつ、萎れたぬいぐるみのように眉根を持ち上げて表情をぐにゃりと歪ませた。
たしかに先輩のいうとおりであれば、ほんとうに、かなり悪趣味な呪霊だ。例えばこの呪霊がとてつもない変態だったとして、ここに閉じ込めた人間たちに僕らと同じような課題を出す。そこでクリア出来なければ帰れず、出来れば生還。カップル同士であれば僕らに出されたような要求を呑むことも容易いだろうから、生還率が高いという噂も納得できる。まったく理解はできないけども。
「理屈は分からないですけど…カップルが生還しているって話……」
「根拠生まれそうだね」
「はい」
「となると、やっぱりミッションをクリアしない限りここに閉じ込められたままってことに…」
うううんと考え込むように顎に手を当てた先輩が、紙を見つめながら冷静に呟いた。真面目に打開策を考えなくてはならないのに、人差し指に乗っかっている下唇から目線が外せない。もしかして、このまま方法が見つからなければ、試してみる流れになってしまったり。そうしたら僕は先輩とキスをするのか?本当に、ほんとうに?
「憂太くん」
「ふぁい!?」
「……見すぎ」
「えっ!あ、いや、あはは…すみません」
慌てる僕を見てクスクスと愉快そうに笑った。あ、可愛い。いや、そうじゃなくて。どうするかを考えなくてはいけないのに、自分が愚かしくも正直者だと感心する。
ああ。こんなとき真希さんだったら『めんどくせぇ…さっさとやるぞ』なんて言っちゃいそうだけど、僕には到底無理だ。それができたら今までだってもっと初歩的なことがスマートに出来てたろうし、きっと狗巻君みたいさらっとふたりで出かけたり、みんなみたいに新しいヘアスタイルも気軽に可愛いって言えたはずだ。
僕以外が当たり前のようにできることを満足に出来なかったのに、急にそんな…傍にいれるだけで御の字だと思っていたひとと、キス、だなんて。幼稚園に通ってる子が一日で大学を卒業するくらいの飛び級だ。ようするに無理だ。無理なんだ。
思い直した僕はひとまず、唇にキス…ではなく別の手段から提案をしようと思ったのだが。
「悩んでてもしょうがないし…一回試してみる? 」
「ひゅっ」
喉が変な音をあげた。またしても稲妻に打たれたのではないかという衝撃が全身に走る。今日は何度不整脈になったら気が済むんだろうか。
「冗談だよ!そんなに嫌だった…? 」
「い、嫌だなんてそんなわけ…!!な、ないです…」
思ったよりも食い気味で、大きい声が出てしまった。嫌だなんて滅相もないけど、反射で勢いよく否定したから気持ち悪かったろうなあ。…我に返ると猛烈に恥ずかしくなってきた。じわじわと頭のてっぺんからつま先まで汗が吹き出して止まらない。
「な、なんか暑いなあ…ははは」
少しも意味をなさない手扇で微量な風をふかせて誤魔化しつつも、盗み見るように視線を遣れば予想だにしない真剣な表情で僕を見つめているではないか。これは引かれたとか嫌われたというより――いや、思い違いだ。頭に思い浮かべた理想を消し去って、僕は咄嗟に目を逸らしてしまった。
膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめて逸らした視線を元に戻すと、先輩は不安げに眉を顰めている。視線を通わせるのが合図かのように遠慮がちに白い手が伸びて来たかと思えば、手の甲に先輩の小さな手のひらが重なった。涙液を多く含んだ熱っぽい瞳が僕を捉えて離さない。
「…やっぱり冗談じゃないって言ったら、キスしてくれる? 」
思い違いじゃないかもという期待と致死量のときめきに完全に息が止まった。それでもって脳みそが思考を放棄した。心拍数は160をゆうに超えて、皮膚を破って出てきてもおかしくないってくらいに心臓が暴れてる。
辛うじて動いた首をこくりこくりと縦にふると、先輩は「良かった」なんて表情を一転させてはにかんだ。これは夢かもしれない。夢ならどうか覚めないで欲しい。
固く結んでいた拳を解いて小さな手のひらをぎこちなくも優しく握りしめる。それに応えるようにきゅっと握り返してくれた先輩は、ほんの数秒だけ言葉をのんで、恥ずかしそうに呟いた。
「憂太くんも……目瞑ってね」
なんて愛らしいのだろうか。普段の明朗快活な姿からは想像もつかない一面にどっ、と鼓動はさらに煩さを増す。
胸の中心の痛みを抑えて僕は意を決した。色素の薄いブラウンの瞳に吸い込まれるように顔を近づけると、濃くなった甘い匂いに頭がクラクラする。
眼前に迫るすっと伸びた鼻先をゆっくりと最後まで視界に捉え、ふっくらとした薄い桃色の唇に触れる寸前、どちらともなくゆっくりと瞼をとじた。そして――
――ピピピピピピピ
突如聞こえた大音量の規則的なアラーム。空間を裂くような音に、まどろみのなか意識が引き寄せられてまぶたを開ける。するとそこには見慣れた部屋の天井が広がっていた。
完全に覚醒していないけれど、部屋が真っ暗だったので朝ではないことは理解できた。さっきまでみていた光景はかなりリアルだったけど、ぼんやりとした頭でもここが現実≠ナあることは嫌でも分かる。こういうときほど鈍感になってくれればいいのに、とひとり頭のなかで愚痴をこぼした。
「………………」
ピピピピピピピ。部屋中にこだましている、けたたましい音。聞かなかったことにして、夢の続きを見ようとまぶたを閉じかけたが、それを許さないアラームは鳴り続けている。なんて…夢だったんだ。
「はあ」と重めなため息を一つこぼしてしまったけれど、案外あきらめがつくのは早かった。夢ならばしょうがない。残念な気持ちを納得させて、アラームを止めるべく枕元に転がったスマートフォンを手に取り、僕はいつも通り目覚まし時計のストップボタンへ画面をスワイプさせた。
――つもりだったのだが。
『もしもーし、憂太くーん…聞こえてますかー』
スヌーズを解除したはずの手元からは人間の声が聞こえてきて、思考も動きも固まる。まさか夢の延長なのか。目をこすっていま一度ディスプレイをしっかりとみるも、表示されているのは先輩の名前。
『憂太くん、起きてー起きてくださーい』
聞き覚えのある朗らかな声にもう一度自分の名前を呼ばれて、慌ててスマートフォンを耳元へ寄せた。
「は!はい、もしもし…」
『あ、おきた?なかなか出ないから焦っちゃったよ、あと30分で集合だからね』
「えっと、あの…」
『あれ…もしかしてまだ寝ぼけてる? 昨日約束したでしょ起こすって』
「…あっ、はい!ありがとうございます」
『じゃあまたあとで。ちゃんと起きてね』
ぶつり。ぷーぷーぷー。
先輩らしく要件を伝えてすぐに切られてしまった。手元を照らしたままの切電を知らせる通話終了 56秒≠フ文字をながめていると、ありありと夢でないことを実感させられる。そうだ。今日は先輩と任務だった。
胸のひだりがわに手をあてて目をつぶると、夢のなかと同様に心臓が早鐘を打っていた。夜半の部屋に明かりをともして、僕は朝支度を始める。
けれども、歯磨き粉で顔を洗ってしまっても、足の小指をぶつけてもしばらく夢から抜け出すことは出来なかった。
