今日も今日とて補助監督の業務は、信じられないくらい目まぐるしい忙しさだった。
 朝から任務に発って、どっぷりと夜がふけた頃に高専へ生徒を送り届ける。そうして職員棟の談話室からタブレットで報告を終えた時には、すっかり日付が変わってしまっていた。
 
 毎日同じようなルーティーンで過ごしていたから慣れたようなものだけど、二十代前半のようなバイタリティはなく、さすがにこの時間まで働き詰めたら肩やら腰やら、色んなところがしんどくなってくるというもので。もう真っ赤になっていたヒットポイントがゼロになりかけている。
 
 いかんいかん。一秒でも長く座っていたらこのまま寝てしまいそうだ。そう決心して立ち上がろうとしたが、三時間睡眠を繰り返している身体は、もう限界と言わんばかりにカチコチに錆びついてピクリとも動けない。あれ、おかしい。視線をあげた瞬間に世界が回った。これは、だめかも。

「……はあ」
 
 五条は今頃なにをしてるかな。終電で出張から東京へ戻ってくると言っていたけれど、もう帰ってきたろうか。
 
 ふと脳内に顔を思い浮かべては、なにげなくスーツのポケットからスマートフォンを取りだし、チャットアプリをタップした。……まではいいものの、打ち込みたい言葉はつぎつぎ頭に浮かぶのに指先はスムーズに動かない。帰ってこれた?まだおきてる?声が聞きたい。どれもフリップの途中で消しては書いてを繰り返す。
 “素直じゃない女は可愛くない”なんて頭では分かってるけど、そもそも好意に甘えることはあっても、誰かに寄りかかること自体経験が乏しいというのに。恋人への素直な甘え方なんて誰が知ってるというのか。

「……寝よう」
  
 きっと疲れているから甘えたくなるんだろう。理性的じゃないのは良くないことだ、悩むことすらままならないなら、いまは身体を休めることだけ考えるんだ。
  
 スマートフォンを握りしめたまま椅子から降り、残りわずかな体力を振り絞って窓際に鎮座するソファへ身を転がした。
 ギシ、と鈍い音が鳴って体が軽く跳ねたがもうなにも気にならなかった。あれやこれやと回りの鈍い頭で思案しているうちに急激な眠気に襲われる。真っ暗な視界のなかにいまにも沈みそう。
 そうだな、いまから二十分だけ仮眠して、帰ってシャワーを浴びて。そうすれば四時間は寝れる。いや、今日はもういっそ高専に泊めてもらって――


 
 ちゅん、ちゅん。遠くの方でそう聞こえた気がして、わたしの意識は睡眠の海から浮上する。目元に眩しさを感じてまどろみの中でゆったり目を開くと、窓から差し込む白い光のすじと、同じくらい頭部が発光している白髪の男が映った。
 
「おっはよー、僕のモーニングコールで目覚めるとか愛だねぇ」
「なん……っ!?」
 
 “なんで居るの”と発声したはずが、側頭部からの鈍痛によって遮られた。ひどい頭痛に顔を顰めるとおぼろげだが昨夜の記憶が蘇ってくる。わたしの記憶が正しければ夜中に仮眠を取ろうとしてソファに横たわったはずだけど。
 
「ちょっとまって!?いま何時!!」
「はーい大人しくしてくだちゃいねぇ、オマエ今日休みだからねぇ」
 
 咄嗟に起き上がろうとしたが、華麗に指パッチンを披露した五条に肩を押し戻されて元の位置へ寝転がった。というか、あれ。ここ談話室じゃないな。ソファに寝てたはずなのに、いつの間にかベッドの上だ。
 
「ん、ねぇまって。いま休みって言ったよね」
「ああ、オマエ、キョウ、ヤスミ。オーケー? 」
 
 なぜかカタコトで話す五条は放っておいて、回りの遅い思考を必死に回転させるが、言葉の意味が理解出来ない。いま休みって言ったよな。スケジュール帳に狂いがなければ、今日は一日郊外で任務があるはずなんだけど。それも予定してた補助監督が怪我を負ったから代わりに出るって話で、どう考えても欠勤できないはずなんだが。
 
「いや、わたしが代わりに出ないと行けないって言われてて――」
「だーかーらー。それを別の人間に振ったの。んで、オマエは休み。つか、そんな身体で務まる仕事ないでしょ、死にたいわけ? 」
「それはっ!そうだけど……」
 
 矢継ぎ早に正論を言われて何も反論できない。たしかに五条の言う通りだ。正直、目を開けるだけで頭が酷く痛むような状態だし、こんな体で遂行できる仕事は事務処理ですらおそらくない。今のわたしでは車の運転もままならないだろう。
 ああ、最悪だ。仕事に穴を開けることになるなら、始めから高専に泊まっておけばよかったと、自責の念にかられた。
 
「ほらさっさと手、出しな」
「なんで、ちょ!なに? 」
 
 まだ反省も終わっていないのに、こちらの言葉なんぞ意に介していない五条は布団のなかからわたしの右手を発掘したかと思うと、無駄に大きい手のひらで親指と人差し指のあいだのツボをぎゅっと押しては離してを繰り返しはじめた。
 ただでさえクリティカルなツボなのに、手加減なんて知らない五条はお構いなしに施術してくる。
 
「いだだだだだだ!!無理、頭まで響く!!」
「オマエ知ってる?ここってゴウコクつって頭の悪さに効くツボらしいよ」
「いや、頭痛ね。分かってて言ってんでしょ。それ先週わたしが教えた豆知識じゃん……いや痛いって!」
 
 間髪いれずにつっこんでも全く聞こえていない素振りを見せて、指は飽きずに同じ動きを取る。五条が人の話を聞かないのは今に始まったことではないけれど、今日は特別機嫌が悪いらしい。
 
「ねえ、五条」
「あー? 」
「なんで怒ってんの」
 
 ピタリと手が止まる。宝石みたいな瞳がこちらを捉え「心当たりあんなら言ってみなよ」とキツく言い放つ。言い方の厳しさと反してやわく澄んだ虹彩になんだかバツが悪くなって目を逸らした。わたしは五条の。……悟の、諭すような表情にめっぽう弱い。

「無理して働いたとか……でしょうか……」
「それはもう諦めてる。ハイ、次」
 
 悟は手の動きを完全に止めて、間髪入れずに言葉と視線で“早く言え”と続きを促してくる。
 
「じゃあ談話室で寝てたからとか……」
「ハイ、次」
 
 声のトーンも再び伏せた目も変わらず、決してこちらを見ないのは、正解を当てるまで続けるつもりだからなのかな。
 正直、いま述べたものよりもっと確信的で心当たりあることがもう喉のすぐそこまで出かかっているけれど、なにから言い出したらいいのか、形容すべき言葉が分からなくて。どこへでもない場所へ視線を彷徨わせて布団のさきへ落ちる。
 
「……言ってみな」
 
 茶化すような言い回しはしないで、口調すらも諭すように問いかけてくるから。わたしは深く息を吸って思いつくままに吐き出した。
 
「……言わなかったから」
「なにを」  
「悟に、助けてほしいなぁって……」
 
 ちゃんと言ってみたものの自信がなくて、おそるおそる悟の顔を覗きみたら、肺の空気を全部出したかってくらい重いため息をつかれた。心底がっかりしたみたいな顔にいつもは覚える苛立ちも、今日は一ミリたりとも湧いてこない。むしろ、頭だけじゃなくて心臓までもがズキズキと痛んだ。
 
「名前さ……甘えるって言葉知ってる? 」
「…………う、ん」
「こんなウルトラハイスペック彼氏、もっと好きに使えよっつーの」

 ほれ。と、悟がおもむろにスマートフォンを取りだしてこちらに向かって投げつける。布団に転がったそれを拾い上げると、わたしと悟のトーク画面が表示されていた。

「え」

 やり取りを上から順に読み上げると、深夜にわたしが途中まで打ちかけたメッセージが中途半端なままで送信されていて、それに反応する悟のメッセージが続々とつづいていた。おーい。寝落ちかよ。いまどこ。並んでいるどのメッセージにも既読の文字が一切ついてなくて、最後は“迎えに行く”で終わっている。もしかして、まさか、あんな夜中にわざわざ談話室まで?

 スマートフォンへ向けていた視線を持ち上げると、悟は唇を尖らせてそっぽを向いている。わたしはこの表情に嫌というほど見覚えがある。言葉遣いも振る舞いも学生の頃とは変わったこともいっぱいあるのに、拗ねた時の顔は昔から変わらないんだね。

「頼れよバーカ」

 おっきな手のひらが頭上に降ってきた。ぶっきらぼうに言い捨てたのに、その手は髪の毛を梳くように優しく撫でつけるから胸の奥がくすぐったくなる。こんな歳にもなって恥ずかしいばかりだけど、気づいてしまったことを思うと口元が緩んで頬も上がる。「ごめんね」といえば「はいはい、さっさと寝な」なんて返ってくるから、コップから溢れるくらいに甘酸っぱい感情で満たされていく。わたし、愛されているなあ。なんて気持ちで。

「あはは……うん、ありがとう」

 かけ直された布団に潜って瞼を閉じると、背中から重量を感じて心地よい感覚が全身にめぐった。素直になれない彼女でごめんね。目が覚めたらもうちょっとだけ、甘えてみるよ。
 
 額に触れたやわらかい感触を最後にわたしは夢の中へと深く沈んでいく。思い出せないけれど今までに見たことのないくらい、とても幸せな夢をみた気がした。

「おやすみ、名前」

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