獅子に牡丹


 大阪に越してきて早数ヶ月。
 慣れない環境の中、それなりに順調に過ごしているつもりだけれど、もう既に何度かホームシックになりかけていたりする。果たしてこれは、甘えでしょうか。

「姉ちゃん、少しだけでも付き合うてくれや」
「えっと、そういうの大丈夫なので……」
「俺らがメシ奢ったるで?タダ飯食えるんやったら悪い話やないやろ」
「……すみません、いま急いでて」
「急いどるんやったらあの店とかええで。安くて早くて美味い!どや?」

 ……たとえば、こういうときとか。
 地元では似たような状況でも上手くかわせたのに、なぜかこちらでは上手くいかない。失礼かもしれないが、たぶん、聞き慣れない方言を威圧的に感じて、なかなか振り切れないのかなと思う。あとは、新しい地でそわそわしていることもあり、私自身に覇気がないから、隙があるように見えてしまうのだろう。どちらにせよ自分の問題だと思うし、早く対処できるようにしないといけない。

 しかし今日絡んできた男たちは、それを差し引いてでも執拗に話しかけてきて。一体どこまでついてくるんだ、というくらい彼らはしつこく付き纏い、ついに自宅付近まで来たことで、事態の深刻さに気づく。困ったな、これじゃ帰れない。かと言って知らない場所に行くわけにもいかないし、留まったらそれはそれで彼らの思うツボだ。

「すみません、もうこれ以上は本当に……」

 そう呟くと、男たちの醸す雰囲気が急に怪しくなった。肌がピリピリとする感覚。それはまるで、相手を怒らせたときのような。

「……なんや、ここまで来て俺らの誘い断る言うんか?」
「傷つくで姉ちゃん〜そないに俺らのこと嫌なんか?」

 あ、これ、やっぱり結構まずいやつかも。なにを言っても話が通じないし、きっとこのまま断り続けていても大人しく引いてはくれないだろう。……後戻り出来なくなる前に、さっさと逃げてしまった方が良さそうだ。私はそこでついに彼らを無視して、その横を通り過ぎようとした。

「おっと、俺ら置いてどこ行く気や?」
「っ、!」

 だが、それが適うことはなかった。男の一人が、私の手首を掴んできたことによって。まさかここまで強引な手に出られるとは思わずに動揺する。腕を振り切ろうとするも、かなり強く握られているようで、びくともしない。誰かに助けを呼ぼうとしたが、運悪く今のところ人通りはなくて。まさか、彼らはそういうこともすべて把握した上で、この行動に出ているのだろうか。

 こわい。口内が乾いていく。どくどくどく、警鐘を鳴らすように逸る鼓動。 早くなんとかしないと、このままじゃどうなるか分からない。逃げなきゃ、でもどうやって……! 男が私の手を引いて動き出そうとした、まさにそのとき。

「……道塞ぐなや。邪魔やわ、自分ら」

 背後から、別の男の声がした。おもむろに振り返ると、そこには、がたいの良さと長躯を併せ持つ、強面の大男が佇んでいた。こちらを見下ろすその姿に、思わず息を飲む。なんで今まで彼に気づかなかったのだろうと、不思議に思ってしまうほどの存在感。それは、稀に見る巨体の持ち主だったから、ということもあるかもしれないけれど、それだけじゃなくて。彼の纏う空気は、言葉では言い表せないような、圧倒的なオーラを放っていた。

「あ?なんやワレ、邪魔はそっちの方や。今ちょうどええとこで、」
「アホかお前!! この人は……!!」

 焦った様子の男がもう一人の男に何かを耳打ちすると、なにを聞いたのか、みるみるうちに顔が青ざめていく。そして。

「道塞いですんまへんでした! 俺ら、もう行きますんで!!」

 先ほどまで執拗く絡んできていたのが嘘かのように、彼らはあっさりと私の手を離し、一目散に逃げていった。その間、ものの数秒程度。驚く暇さえなかった。

 しん、とした時間が流れる。思わずへたり込んでしまいそうな気分だったが、そこに "その人" がいたから、なんとか立っていようと踏ん張った。

「………」

 ちらりと、その男の顔を見る。先ほどはしっかり見る余裕がなかったので気づかなかったが、その男の顔には無数の傷痕が刻まれていた。細かいものから、かなり深いものまで。普通の人生を歩んでいれば、まずこのような状態にはならないであろう。あの男たちが顔を見ただけで逃げたことから察するに、もしかしたらこの地ではそれなりに有名な人なのかもしれない。

 初めて彼を見た人の大多数は、彼のその傷痕と気迫に驚くだろうし、もしかしたら恐怖を感じる人も少なくないのかもしれない。だけど私には、それ以上に気になることがあった。

 ─────それは、彼の目の下に延びたクマ。

 今は夜。光と影の関係でそう見えているだけなのかもしれないと一瞬思ったが、おそらく違う。それはもう立派な青黒いクマは、確かに彼のそこに存在していた。心なしか、目元全体にも疲労が窺えるような気がして。疲れてるのか、寝不足なのか。もしかしたら、普段からクマがある人なのかもしれないけれど。

「……フン」

 彼は走り去った男たちの方をしばらく眺めた後、こちらを一瞥すると、私の帰路とは逆方向へと歩いていった。

 そういえば、お礼言ってない。このまま帰るのもなんだか心残りだし、ちゃんと伝えよう。私はそう思い至ると、彼の方を振り返った。

「あっ……!」

 瞬間、彼の体がぐらりと揺れ、倒れそうになる。しかし幸いにも、彼は既のところで電柱に身体を預けたため、それは免れて。思わずほっと胸を撫でおろすも、私の気持ちは休まらなかった。やっぱりあの人、体調悪いんじゃないかな。私は僅かに逡巡した後、意を決して彼の方へと小走りで向かった。

「あの、大丈夫ですか……?」
「…………あ?」

 ぎらり、彼の眼光が突き刺さる。きっと、数分前の私だったら、ただ彼に恐怖心を抱くだけだったであろう。実際、今だって正直少し怖い。でもやはり、私の中での今の彼は、"私を助けてくれた人" だから。そんな相手が目の前で顔色を悪くし、今にも倒れそうな状態でいたら、放っておくことなんてできなかった。

「体調悪いんですか? お水とか買ってきましょうか……?」
「……いらんわ、放っとき」
「そう、ですか……。じゃあ、ご自宅は近いんですか? もし嫌でなければ、途中までご一緒できますよ?」
「……いらん」
「なら、誰か友人とか家族を呼ぶとか───」
「チッ……なんなんやアンタ。放っとけ言うとるやろ。余計なお世話やわ」

 かなり頑張って食い下がってみたものの、これ以上はさすがに彼の言う通り、余計なお世話になってしまうだろう。でも、彼は明らかに無理をしているように見えた。今でこの状態なんだ、きっとナンパ男の前ではそれを悟られまいと気を張っていたに違いない。

 私は彼に拒絶されたにも関わらず、その場から動けないでいた。彼の方も思うように動けないらしく、未だ電柱に手を付き、気持ち荒い呼吸を繰り返している。私がどうすることも出来ずにもどかしい思いをしていると、彼は私の方を見て、はぁ、とため息をついた。

「……水はホンマにいらん。家はまだ先、ユージンもカゾクおらへん。コレは、少し休めばすぐ良うなる」
「……え、」
「もうええか?」

 突然一気に答えられたから、反応するのに時間がかかってしまった。友人も家族もいない……? 複雑な環境に置かれているのだろうか。そう考えると、もしかして顔の傷って……。ああ、だめだな。私の良くないところが出てしまっている。"お人好し" "いい子" 私が昔から周りの人たちによく言われる言葉。ポジティブな意味にも捉えられるけれど、実際はそれだけの意味で言われている訳ではないのだと、私にも分かってる。だけど、それでも。

「……あの、私の家すぐそこなんですけど……少し休んでいきませんか?」
「…………は?」

 私は、このまま彼を放っておきたくない。今彼を一人にさせたら、絶対に後悔することになる。それが明日か数日後かもっと先かはわからない。でも、きっと心残りになるに違いない。そう、心が訴えかけているような気がした。

「…………」

 彼は見定めるような瞳で、私のつま先から頭のてっぺんまでをじっと見つめてきた。……あれ、まさか不審に思われてる? 確かに、いきなり見ず知らずの人が、自宅に来ないか、と誘うのは、今更だがかなり、……。

「あっ、私、怪しい人じゃないですよ……!?」

 私は慌てて小さく両手を上げた。私は何もしません、善意100%です、の意を必死に表情に込めて。彼はそんな私を再び訝しげに見て、何かを言いかけるが、それは言葉にならずに口を噤む。そして一泊置いてから、再び口を開いた。

「……分かったわ。ええで」
「!」

 どういう風の吹き回しか、彼は先ほどの強い拒絶とは打って変わって、こちらの言葉を受け入れてくれた。彼の初めての肯定につい驚いてしまっていると、「行くなら早くしろ」というような目でこちらを見てきたことで、我に返る。

「えっと、じゃあ……こっち、です。歩けそうですか?」
「……あぁ」

 彼がのそりと動き出すと、私は彼の半歩前を歩く。彼の姿を窺いながら進んでいくも、そこまでふらふらした状態ではないことが見て取れた。少しは症状が良くなったのだろうか? でも、また気を張っているだけの可能性もある。急がせないように、でも、なるべく早く。そう心がけて、私は彼と会話ひとつすることなく、ただ彼の靴音に耳を傾けていた。


 *


「どうぞ、上がってください」

 ぱち、ぱち、といつも通り電気をつけ、いつも通り靴を脱ぎ、いつも通り定位置に鍵をおく。変わりない一連の行動。それなのに、私はひどく非日常を感じていた。たった一つの要素、彼がいるという、それだけで。

 部屋、掃除しておいてよかったな。他人に見られて困るものは出していない、はず。彼を案内する前に、軽く部屋を見渡して。

「狭い部屋ですけど、そこのソファーの上にでも座ってください。気分が良くなるまで、休んでて大丈夫ですよ」
「……」
「あ、お手洗いはあっちにあるので、使いたかったらどうぞ」
「……」
「……さっきはお水いらないって言ってましたが、今は何か飲みたいものとかありますか?」
「……」

 家に上がってから一言も発さない彼に違和感を覚え、バッグを整理していた手を止める。彼の方へと目を向けると、未だ立ちっぱなしの彼は、ただ私をじっと見つめていた。明るい場所で改めて見ると、彼の瞳は少し充血しており、やはりクマも目立っていることがわかった。

「……大、丈夫ですか……?」

 妙な緊張感を抱きながら声を絞り出すと、彼はずん、と一歩こちらに足を踏み出し、私の手首を掴んできて。

「えっ、と……?」

 私の手首を一回り以上するほど大きな手のひらに、ぐっと力が込められる。未だ状況が掴めない私をよそに、彼はそのまま二、三歩移動すると。────私をベッドの上に投げ飛ばした。

「……きゃ!」

 そして、間髪入れずに、彼は私の上に覆い被さってきて。脳が追いつく暇も与えられないまま、私の手首は彼によって、枕の上で拘束されていた。

「あの、な、なにして……?」
「なにて……ヤる以外になにかあるんか」
「や、や……!?」

 彼の口から予想もしていなかった言葉が降りかかり、思わず言葉を失う。この状態で「やる」といったら、間違いなく、今私が思い浮かべた、"そういう意味" の「ヤる」でしかないだろう。

「フツーに考えたら分かることやろ。夜、一人暮らしの女が男を部屋に連れ込んで……なにも起こらんと、ホンマにそう思っとったんか?」

 そこまで言われてやっと、今起きていることが現実味を帯びていき、血の気が引いた。身体が硬直し、ひたりと嫌な汗が流れる。

「わ、私……そんな、つもりじゃ……」
「そうやったとしても、何も考えとらんかったアンタが悪い。今から俺に何されても、それはアンタの自業自得や。せやろ?」

 彼はその力で絶対的に私を支配すると、こちらを見下ろし、嘲る。歪んだ口角に、ゾクリと背筋が粟立った。

 私はどうにか藻掻こうとしながら、彼から視線を外した。そしてたまたま目に入ったのは、彼のジャケットの中身。今まで隠れていて見えなかったが、その胸元には、派手な刺青が確かに覗いていた。この状況においてそれを見てしまえば、彼がどういう人なのかもなんとなく連想させてしまう。

「ひゃ、!」

 彼が私の首元に顔を埋める。ちう、と皮膚を食まれて、顔に熱が集まった。もう、なにしても無駄なのだろうか。でも、確かに彼の言うとおり、これは自業自得なのかもしれない。もう子供でもないんだから、こうなる可能性くらい少しは想像出来たはずだ。何やってるんだろう。せっかくあの男たちから逃れられたのに、自らこのような状況を招いてしまうだなんて。

 せめて、あまり痛くされませんように。私はついに全てを諦め、耐えるように目を瞑った……が。

「…………?」

 目を閉じて、しばらく経ってからの違和感。この人、首元に顔を埋めてからずっと動かない。まさかとは思うが、そういう、いわゆる匂いフェチみたいな趣味をもっているのだろうか。

 私は怖いもの見たさで、おそるおそる目を開けた。表情は確認できないが、彼が依然として私に覆い被さり、規則正しいリズムで緩やかに上下に揺れているのが目に入る。……規則正しい? あれ、まさかこれって……。

「……寝て、る……?」

 最初は疑っていたが、試しに自身の手首を動かしてみると、あっさりと彼の拘束から逃れられたことにより、確信に変わる。すごい体勢だけどめちゃくちゃ寝てる、この人。


 ……それから私は、彼を起こさないようにじりじりと身を捩りながら、なんとかベッドから脱出することに成功した。とりあえずは一件落着だけど、これからどうしようか。私はベッドにいる彼を暫し眺めて考えた後、彼の上に静かに毛布をかけて、夕飯の準備に向かった。


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