獅子に牡丹


「お前、最近入れ込んでる女がいるらしいやないか」

 とある日の昼下がり。組員が出払っている事務所内にいるのは、俺とカシラのみ。煙草を咥え、煙を吐き出し、一息ついたカシラがそう尋ねる相手は、俺以外にはいないはずだ。

「……カシラには全部お見通しですか。まぁ、一緒にメシ食って寝るだけですがね」
「だけってなんやねん。普通にやることやっとるやないかい」
「いや、ホンマにただ寝るだけなんです。添い寝っちゅうんですかね」
「…………は?」
 
 意味が分からないというように口をあんぐりと空けるカシラに、まあそれが当然の反応だろうなと一笑する。何せ自分ですら、つくづく頭のおかしい関係だと思っているからだ。
 
「その女が隣にいると、不思議と寝つきが良くなるんですわ。俺も最初は信じられへんかったんですが、他で試してみても上手くいった試しがあらへんもんで」
「あぁ、そういやお前、女抱いたらすぐ帰る、朝帰りせぇへん男って言われとったな」
「昔は意味もなく目ぇ瞑ったりしてみたんですがね。段々面倒になってもうて。……せやから、その女の傍で寝たときはホンマに驚きました。最近、不眠気味やったこともあったもんで余計に」
「ああ、前にお前が風邪や言うてたんは不眠のことやったんか。ほんで、それが良うなったんは、その女のおかげやと」
「そうなりますわ」
「なら、お前にとってのその子は牡丹なんやな」
 
 カシラの放った言葉の意味が理解出来ずに、会話が止まる。俺にとったら、あの女が、ボタン。己の持ちうる知識では、それを解釈するのは無理だと悟った。
 
「……ボタン? そりゃ、どういう意味でっか」
「お前、獅子に牡丹っちゅう言葉覚えとらんのか? 墨入れるときに彫り師が説明しとったやろ」
 
 シシニボタン。聞き覚えがあるような、ないような。いや、やっぱりない。彫り師が説明していたと言われても、墨を決めたのはほぼと言っていいほど渡瀬の親父と鶴野のカシラであり、俺はただ「親父とカシラが言うんなら、ソレで」と言っただけで。当時の俺にとってはそれで極道の世界に入ることのできるのならば、そして、前の自分と隔絶したという証明になるのならば、正直何でも良かったのだ。

「…………」
「はァ……しょうがない奴やなぁ」
 
 カシラは煙草を深く吸った後、灰皿に押し付け、ソファーに座り込んだ。

「……百獣の王の獅子にも、唯一恐れるモンがある。それは、身中の虫。身体に寄生しとって、肉まで食らいつくす害虫や。どんなに大きく力のあるモンでも、内部の裏切りは身を滅ぼしかねん、ちゅう意味があるらしい。そんで、その害虫が嫌う物が、牡丹の花に滴る夜露なんやと。せやから、獅子は牡丹の花から離れられん。牡丹の花の下やないと、安心して眠れん。これが、獅子と牡丹の取り合わせが多い所以と、この諺の由来や」
 
 それは、思わずカシラの作り話なのではないかと疑ってしまうほどに、現在の俺の状況に当てはまっていると思った。あいつが、この紅く派手な大輪の花か。あいつを花で例えるのなら、もう少し素朴で控えめなものを想像するが、今の話を聞けば、あいつは牡丹、そうとしか想像が出来なくなっていた。

「……そりゃ確かに。その話やったら、あいつは俺にとっての牡丹みたいなもんかもしれませんわ」
「せやろ? なら、枯らさんように、よう水やって大事にせな」
「……なんや随分詩的な表現しはるんですね」
「別にええやろ。少しはカッコつけさせんかい」
 
 機嫌を損ねたカシラは、フン、と鼻を鳴らして、足を組む。俺はそんなカシラを見て小さく笑った後、カシラの正面のソファーに座り込んだ。
 
「……ところで、カシラ。俺の事より、もっと大事な話があるんやないですか」
「あ? 改まってなんや」
「なんややありませんわ。─────例の計画、もう少し作戦練りませんと」
 
 誰もいないというのに、密談をするかの如く、自然と声が低く小さくなる。カシラはちらりと俺を見遣ると、「……あぁ、せやったな」と零した。俺はそのままカシラの次の言葉を待っていると、突然、カシラがフッと笑みを浮かべた。
 
「……なに笑うとるんですか」
「……いや。お前がおると頼もしい思うてな」
「……」
 
 ホンマに、この人は……。俺は、そのカシラの言葉に何と答えればいいのか分からなかった。だが、逆にいえば、分からないほど様々な感情を持ち合わせているともいえた。解散計画を打ち明けられてからは、きっと数ヶ月も経てば、この漠然とした感情も、いつか怒りと怨みに変わるだろうと踏んでいたが、俺は未だに答えのない答えを抱えたままだった。そして、そんなとき決まって浮かんできたのは……。
 
「…………それも、例の牡丹のおかげかもしれませんわ」
「……ん? 今なんか言うたか」
「……『ありがたい言葉ですわ』言いました」
「……そうか」
 
 カシラは俺の誤魔化しに気づかなかったのか、あえて気付かないふりをしたのか、それ以上言及されることはなかった。
 
「気張ってくで、獅子堂」
「……へい」
 
 そしてカシラは、俺たち以外には誰にも見せていない、極秘の資料を取り出した。
 
 




 
 


 僅かに明るい光が、瞼の間から差し込んでくる。ゆっくりと目を開けていけば、腕の中にいるなにかが動く感覚がした。
 
「…………あ、起こしちゃいましたか?」
 
 斜め下を見ると、申し訳なさそうにこちらを見上げる、一糸纏わぬ姿の女がいた。首元や胸元には、昨夜己が咲かせた紅い花が散らばっているのが見え、支配欲が満たされていく感覚がした。

「……ナマエか」
「ふふ……はい。……おはよう、ございます」
 
 女は名前を言ったことが嬉しかったのか、ふにゃふにゃと頬を緩めながら、律儀に挨拶をする。こういうところや、無駄にお人好しなところを見て、最初は育ちがいいのだろうと思うのみだったが、これはこの女の個性なのだろうと最近では評価を改めた。実際、自分自身も女のそれを、悪くないと思い始めているような気がする。

「……」
「……どうかしましたか?」
「……なんや夢見とった気がしてな」
「夢……」
 
 あれは確か、数日前の出来事だ。どうしてあの夢を、と思ったが、そういえば昨日カシラに『枯らすんやないで』と言われたことを思い出す。もしかしたら、それが原因かもしれない。
 
「……悪い夢でしたか?」
「嫌な夢やなかったはずや。もうよう覚えとらん」
「そうですか……でも、悪夢じゃなかったならよかったです」
 
 例えどんなにささやかなことでも、俺にとって良いことがあれば、ことさら綺麗に笑ってみせる女。絶対に手放さない、とは言わないが、この笑顔が他の男の物になることを許せる自信はない。
 
「……俺は、もう少し寝るわ」
「えっ、今起きたばっかりですよね?」
「別に今日くらいええやないか」
「……じゃあ、私も寝ちゃいましょうか」
「当然やろ。お前は俺の、」
 
 思わず、夢の中の言葉がリンクして、花の名前を言いそうになる。ここでそれを出せば、妙な誤解を生みかねない。

「……俺の女やからな」
「!」
 
 女の頬が、みるみる内に紅く染まる。下を向いて一点を見つめ出すも、やがて顔を上げると、はい、と幸せそうにはにかんだ。……もう少しで、手が出る。そう本能的に察知すると、俺は名残惜しくも女から目線を逸らした。

「……おやすみなさい、獅子堂さん」
「……ああ」
 
 俺はしばらくの間、目を瞑らず腕の中にいる女を見つめていた。すると、驚くほど早く穏やかな寝息が聞こえてくる。

 ……お前が俺に安住を与えてくれるなら、俺はお前に水を注ぎ続けたる。俺の横で咲き誇るお前を、俺は枯らしはせん。
 
 せやから、お前は、お前だけは─────

 
『これからも、どうか傍にいさせてくれませんか……?』
 

「…………いや、杞憂やったか」
 
 せや。俺は獅子なわけやない。お前も牡丹なわけやない。お前曰く、どっちも普通のヒト。おまけに、獅子と牡丹はいい取り合わせらしいが、俺らの取り合わせなんぞ、傍から見たら最悪やろ。
 
 あの日、俺がお前の横でよう寝れたのは、お前が牡丹やったからやなくて。
 

『あの、大丈夫ですか……?』
 

 暗闇彷徨うてた俺に、アホほど真っ直ぐな目で手差し伸べてきた、唯一の存在やったから。……かもしれへんな。

「……おやすみ」

 俺はその時、生まれて初めてそれを口にした。
 

 ……これからはちゃんとお前にも言ったるか。

 
 そんな、近い未来のことを考えながら。




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