獅子に牡丹


 昨日作った肉じゃがの残り、なめこの味噌汁、きゅうりの柴漬け、卵焼き、ゴールデンキウイと、蜂蜜をかけたヨーグルト。あとは、ごはんが炊けるのを待つだけ。現在の時刻は午前10:48。一人暮らしを始めてからというもの、予定のない休日は、こうした変な時間での朝昼ご飯が定番になってしまっている。

 束の間の待ち時間。ちら、と私のベッドにいる彼に目をやる。昨夜のプチ事件の後、私は警戒に警戒を重ね静かに夕食を作り、風呂に入り、なんとか就寝し、ついにこうして次の日を迎えるまでに至ったが、彼は未だに眠り続けたままだった。こんなにも熟睡しているんだ。きっと相当疲れが溜まっていたに違いない。
 
 昨日の件もありつつも、彼の様子には気になる部分も多く、無理矢理起こすのも忍びなくて。土曜日で仕事が休みということもあり、私は彼が起きるまで寝かせたままにしておくことにした。さすがにそろそろ起きるかな、と思い彼の分の料理も用意したけれど、どうだろう。
 
 ぼんやりそんなことを考えていると、軽快な音楽と共にごはんの炊き上がり音が鳴る。そして、それと同時に。
 
「────っ!」

 ばさ、という布擦れの音ともに、大きなシルエットが動き出す。ようやく彼が起きたようだ。
 
 起きたばかりの彼は、状況を図りかねているようで、しばらく固まっていたが。その瞳が私の姿を捉えると、昨夜の出来事を思い出したのか、止めていた呼吸を緩やかに再開した。しかし、次にはベッドの上を見て瞠目し、何かを探るようにシーツの上を手のひらでぽすぽすと軽く叩きだす。

「……ドスが、ない」
「えっ……!?そ、そんなのうちにないですよ!包丁ならありますけど、一体何に……」
「あ?いらんわ、お前が想像しとる意味とちゃう」
「そう、ですか……ちなみにですけど、仮にあなたが元々持っていたとしても、私は盗ってないですよ……?」
「いや、それはわかっとる」
 
 突然物騒なことを言われて驚いたものの、何故か私よりも彼の方が呆然としている様子で。「……どういうこっちゃ……」と信じられないようなものを見る目で、自身の手を見つめている。起きたばかりで、まだ寝惚けているのだろうか。
 
 「……あの、気分が良くなったなら、よければご飯食べませんか……?」
 「…………あ?」
 「昨日助けてもらったお礼、まだ出来てなかったので……お口に合うかは分からないんですけど」
 
 今さっきご飯が炊けたばっかりなんです、と努めて笑って言うと、彼はそんな私を見て眉間に皺を寄せた。
 
「ええ加減学習せぇ。昨日の今日でまだ懲りてへんのか」
「……昨日のことは、ただ私が不用心だっただけなので。あの状況だったら確かに、私は何をされても文句が言えない立場だったと思うんです。だから、今更どうこう言うつもりもありません」
「……よう分からんな。アンタ、俺がどういうモンかも少しは察しついとるやろ。これ以上関わりたくないんとちゃうか」
 
 その言葉を聞き、自然と彼の胸元に目がいく。服の中から僅かに覗く、対に描かれた黒い影。明るいところだと、よりはっきり見て取れる。そして、頭をよぎるのは昨夜の記憶。彼の顔を見ただけで逃げ出した男たち。それが意味するものは……本人がこのように言うのなら、予想通り"そう"なのだろう。
 
「それは、……それでも、感謝しない理由にはなりません」
「…………」
「……あっ、でも、迷惑だったら帰っていただいても大丈夫ですよ? 本当にお礼がしたいだけで、無理強いしたいわけじゃないですから」
 
 たどたどしくも本音を伝えると、彼は呆れたような表情をした。困らせちゃったかな、と少し不安になりながら彼から視線を外し、彼の分用に並べた料理を眺める。
 
「アンタ、アホやってよう言われるやろ」
「あ、あほ……!?」
「せやけど、極道おれに借り作らんのは賢い選択や」
「え?ってことは……」
「……変なモン食わしたらまた襲うで」
 
 変なモン……不味かったら、ということだろうか。とりあえず了承してもらえたのは良かったものの、少しハードルが上がったような気がして、急に自信がなくなってくる。
 
「……あっ、先に顔洗ったりしますか? 歯も磨きたければ歯ブラシのストックもあるので、遠慮なく言ってください」
「なんや、随分と手厚い礼やな」
「そうですか? 普通だと思いますけど……寝起きの人にご飯誘ってるわけですし」
「……やっぱアホやろアンタ。でもまぁ、ええ。貰えるモンは貰っとくわ」
 
 私はその言葉を受け、呆れを隠さない態度の彼を洗面所まで案内した。タオルと新品の歯ブラシと歯磨き粉を手渡すと、そそくさと料理を並べたテーブルに向かう。……よし。彼が戻ってくる前に、ちゃんと味見をしておかなくては。そして私は、かつてないほどの緊張感の中、自分の手料理を口にした。
 

 *
 

 本当に大丈夫かな……彼の言う変なモンはなかったと思うけど、人によって味覚は違うし……。なんて心配していたのは、どうやらただの杞憂だったようで。

 獅子堂さんの食べっぷり、ものすごい。寝起きなのによくこんなに胃袋に入るなと感心する。 男の人だからと気持ち多め盛ったものの、あっという間になくなってしまった。体格と食事量は比例するはずだから、彼のこの体躯からしてたくさん食べれるんだろうなとは思うが、それでもすごい。ご飯、2合炊いといて良かったな。いや、あと少ししか残っていないあたり、もしかしたら足りなかったのかもしれない。

「私もうお腹いっぱいなので、良かったら私の分も食べますか? こっちはまだ箸つけてないので」
「……いらんなら食うわ」
「ご飯もよそりますか? 少しだけしか残ってないんですけど……」
「あぁ」
 
 釜の中の最後の米を盛り切り、彼に茶碗を手渡すと、彼は私の分のおかずとともにまた食事を始める。料理はもう底をつくが、彼はまだまだ食べられそうな勢いだ。そういえば、家族以外の誰かに料理を振る舞ったのは、これが初めてかもしれない。あと何気に、この部屋に誰かを招いたのも。昨日から初めての連続で、ひどく新鮮な気分だった。
 
 私はヨーグルトを口に運びながら、もぐもぐと肉じゃがを咀嚼する彼を見つめた。味の感想こそなかったものの、自分の作った料理をたくさん食べてくれることは、素直に嬉しく感じられた。
 
 この食事量からみても明らかだが、彼の体調も回復しているように思う。昨夜は充血していた瞳も普通に戻っているし、クマも大分良くなった。もしかしたらこの人、寝不足だったのかも。部外者の私がこれ以上首を突っ込むのは良くないと思うけれど、彼が語った人間関係や顔の傷痕のことも考えると、彼の置かれている環境が心配になってしまった。
 
 そんなことをぼんやりと考えている内に、やがて彼はテーブルに並べた皿をすべて空にした。最後にひと口お茶を飲むと、ゆっくり立ち上がる。
 
「帰りますか?」
「あぁ。そろそろカシラにどやされてまう」
「…………そう、ですか」
「なんやその顔。やっぱりホンマは期待しとったんか」
「ち、違いますよ!……そうじゃ、なくて……」
 
 そこに戻っても大丈夫なんですか?……なんて聞けるわけもないが、気になってしまうのは仕方がない。そもそも私の考えすぎで、たまたま昨日は体調が優れなかっただけかもしれない。でも、やっぱりなんとなく、今の彼のいる環境が、彼の容態に関わっているのではないか。そんな予感がしてならなかった。勝手にこんなことを思っていても、私に何かが出来るわけでもないのに。
 
「……アンタ、スマホ持っとるか」
「えっ? はい、持ってますけど……」
 
 彼の唐突な問いに戸惑いつつもスマホを手に取ると、彼も自身のスマホを取り出して。ぽんぽんと軽く何かを操作した後、こちらに向けて画面を差し出してきた。それは、メッセージアプリのQRコードで。
 
「……えっと」
「なんや、使い方くらい知っとるやろ」
「いや、もちろんそれは分かりますけど……でも、なんで、というか」
「あ? ええからとっとと読み取り。話はそれからや」
 
 そんな横暴な、と思うけれど、当然こちらに拒否権はない。仕方なく彼のQRコードを読み込み、友達追加のボタンをタップする。名前欄に書かれていたのは【獅子堂】。まさに名は体を表すという言葉通り、彼に合いすぎている苗字で。思わず、偽名かな? なんて考えてしまった。
 
「……追加しました。それで話っていうのは?」
「あぁ。アンタに、また俺と寝て貰おうと思うてな」
 
 ……………………?
 思考が停止するとは、まさにこのこと。なに、なんて言った? また俺と、寝……? 全く想像していなかった展開に、私は遅れて「……はい?」と口にすることしかできない。
 
「せやから、アンタとまた寝たいんや。確かめたいことがあってな」
「すみません、全く意味が分かりません……!」
 
 彼の真意が何ひとつ掴めない。なぜ突然こんなことを言ってくるのだろう。というか、私と寝ることで確かめられることって一体なに……!? こんな提案に二つ返事で了承できる人なんて、おそらく絶対いないだろう。
 
「ごめんなさい。お礼をすると言い出したのは私ですが、そこまではちょっと……」
「礼? そないなつもりないで。これは、俺が個人的にアンタに頼んどることや」
「……あの、そもそもどうして一緒に寝るんですか? そこをもう少し詳しく聞きたいんですけど」
 
 正直、彼について色々気になることは多かったため、私にできることの範囲で彼の容態が少しでも良くなるのなら、協力してもいいとは思えた。しかし、それが "寝る" となると、彼には申し訳ないが快諾はできなかった。昨夜の例もあったことだし、警戒心を持つのは当然のことだろう。

「気になることは色々ある。……例えば、俺がアンタと寝られたのはマグレやないか、とかな」
「と、言いますと……?」
「俺は昔から、他人の横で寝れんのや。いや、正確に言えば熟睡ができん。女抱いた後も目ぇ瞑っとるだけで眠れへんで、少し経ったら金置いて家で寝ることがほとんどや。……今回もホンマはそうなるはずやった。せやけど、なんでか今日俺は他人のいる空間で一度も起きへんで熟睡しとった」
「……つまり、私の存在が獅子堂さんの睡眠に関わっているかどうかを検証したい、ということですか?」
「飲み込みええな。まぁ、大体そんなとこや」

 彼の主張は、明かされていない部分も多かったものの、概ね理解することはできた。でもさすがに、今まで誰の横でも眠れなかったというのに、出会ったばかりの赤の他人の私が要因で眠れたというのは、些か突飛すぎる話だと思った。
 
「……私は無関係だと思いますよ。あなたの体調不良の原因って、多分不眠とか寝不足ですよね? 昨日はちょうど、体が限界を迎えたんじゃないですか? 人の横では寝られないという今までの普通が、通用しないくらいに」
「分かっとる。せやからそれも含めて、確認してみたいんや」
「……」
「せやな……見返りはアンタの身の安全でどや」
「……え?」
「またいつ昨日みたいな男に絡まれるかも分からんやろ。俺がアンタの用心棒になったる。昨日みたいな面倒な男に絡まれたら、いつでも連絡してきてええで」
 
 私にとって、こちらにメリットがあるか否かについてはそこまで重要なことじゃなかったから、反応に困ってしまった。私を悩ませているのは、ほとんど何も知らない男の人との共寝を了承することへの抵抗と、このままこの人を放っておいてもいいのかという迷い。私のこの考えは、未だに上手くまとまらない。しかし、彼の発言によって、見返りを用意するくらいには、要求を飲んで欲しい気持ちがあることは伝わった。

「…………」
「……ま、連絡来たところで行くかどうかは俺の気分次第やけどな」
「……えっそれじゃ意味ないですよね……!?」
「フッ……冗談や。行けるときはちゃんと行ったる」
 
 彼の口角が、緩やかに上がる。と同時に、どきりと胸が跳ねた。それは多分、彼の笑った顔を、このとき初めて見たから。ただ漠然と、彼はこんな風に笑うひとなんだって、そう思った。
 
 様々な感情が交錯する。見知らぬ私を助けてくれた彼。寝不足で体調を崩していた彼。複雑な環境にいることを匂わせた彼。私を力で組み敷いてきた彼。手料理をたくさん食べてくれた彼。そして、今こうして笑みを浮かべている彼。
 
 まだ一日も経っていないというのに、私は彼のさまざまな表情を見てきた。だからか、なんとなく、彼の頼みをキッパリ断るのは気が引けた。そうするには、彼を知りすぎてしまったのだ。そもそも、赤の他人の私にこんなことを頼んでくること自体、普通じゃない。だからこそ、そう簡単に無下にしていいものなのか。この人は赤の他人の私を、無条件で助けてくれたのに。
 
「…………わかり、ました。あなたの頼み、とりあえず聞きましょう。でもその代わり、一つ守ってもらいたいことがあります」
「ほう? なんや、言うてみい」
「絶対に、昨日みたいなことはしないって約束してください。【一緒に寝る以上のことはしない契約】です。目的はあくまで、私の傍で寝ることだけ……そうですよね?」
「……ハッ、ちゃんと学習したっちゅう訳やな。ええで、約束したる」

 彼は再び口角を上げると、そのまま玄関の方へと歩き出した。見送る、というのもなんだか変だけれど、ここにいるのもなんだか気まずいので、私も彼の後ろに続く。
 
「ほな、また近い内に連絡するわ」
 
 彼の言葉に対してなにも言えないまま、ひらり、片手を上げた彼が外へ出て、ドアに阻まれる。そして私は、その背中が見えなくなって初めて、大変な要求を受けてしまったのではないかと我に返った。前途多難。先行き不安。でも不思議と、後悔はなかった。


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