獅子に牡丹


 彼からの連絡は、あれから数時間後にきた。
 
 獅子堂
【今日の夜、空いとるか?】
 
 近いうちに、とは言っていたが、まさかこんなに早いなんて。カレンダーを見て特に予定がないことを確認し、【空いてますよ】と返信すると、すぐに既読がつき、数秒後には彼から電話がかかってくる。
 
「はい、もしもし」
『夜、アンタの家まで迎えに行く』
「……えっ、迎え? どこかに行くんですか?」
『ホテルや』
「…………はい?」
 
 思考停止。彼と話していると、この状態になることが多い。多分、唐突に結論だけ持ち出して、その話に至るまでの過程がないからだろう。私はなぜ彼がそんなことを言い出したのかをゆっくり噛み砕いて、なんとか理解しようと努める。
 
「……あの、もしかして、私とホテルで寝に行くってことですか……!?」
『それ以外ないやろ』
 
 てっきり私は、また私の部屋で寝るものだと思っていたから、まさかの展開に頭を抱えそうになった。確かにどこで寝るとは言ってなかったけども……! 出会ったばかりでいきなりホテル!? ハードル高すぎない……!?
 
『金はいらん。それ以外に持ってくモンあるなら準備しとき』
「え、」
『ほなな』
 
 ぶつ、と無慈悲に切られた通話に、もはや何も言えなくなる。でも、なんと言われようが私にはもう、拒否するなんて選択肢はない。自分で了承したことだ。どうにでもなれ。私はそんな半ば投げやりな気持ちで、カレンダーに [夜 ホテルで寝る] と書き込んだ。
 
 
 *
 
 
 時は早いもので、あっという間に辺りは暗くなり。夜とは言ったけど具体的に何時とか聞いてなかったな、などと思いながら、持っていくバッグの中身を確認する。寝巻きに下着に化粧品と……お金はいらないと言われたけれど、一応財布は持っておいて。どこのホテルだか分からないが、日本だし大抵のものは備わってるだろう。多分。
 
 念の為、シャワーは事前に済ませておいた。ホテルによっては備わってないところもあるし、なにより彼が近くにいる空間で風呂に入る……というのも少々気まずいと思ったからだ。
 
 そんなとき、噂をすればなんとやら。ピンポン、とベル音が鳴った。おそらく彼だろうな、と思いながらインターホンの画面を確認すると、案の定、あの派手なダウンジャケットを羽織った彼が立っているのが見えた。
 
「こんばんは」
『あぁ』
 
 画面越しで軽いやり取りをしてから、やり残したことがないか、軽く部屋を見渡す。遅れたら怒られそうだから、さっさと荷物を手にして、消灯して、玄関へ駆け込む。
 
「すみません、お待たせしました」
 
 彼は私の姿を見るなり、フッと小さく笑ってきた。

「逃げんかったか。こないな誘い、よう乗る気になったな。見かけによらず大した女やわ」
「……え」

 いや、あんな言い方されて容易に断れる人も少ないと思います……! と突っ込みたい気持ちもありつつ、言われてみればドタキャンすることも難しくなかったかもしれないなと思い至る。それをしようと思わなかったのはやっぱり、彼に助けられた事実があることと、単純に彼のことが気がかりだからなのだろう。
 
「すぐそこやから歩いてくで」
「……はい、わかりました」
 
 私は歩き出した彼の後ろをついていった。道中、彼との間に会話はなかったが、私はとにかく迷子にならないように彼を目で追うのに必死だったため、特に気まずい思いをすることはなかった。自宅近くではあるものの、まだ越してきたばかりで、通勤ルート以外の道はほぼ知らないに等しい。こんな店あるんだ、とか、この道はあそこと繋がってるんだ、とか。新鮮な気持ちできょろきょろしながら、気づいたらずっと先にいる彼の背中を見つけて、小走りして。彼が目立つジャケットを着ていて良かったなと思ってみたり。
 
 そうして歩き続けること約5分。「ついたで」と言い、彼が足を止める。そして目の前の建物を見て、思わずピシリと固まってしまった。ここ、ホテルはホテルでも……ラブホテルだ。[H♡TEL]表記、料金表の書かれた看板、無駄にオシャレな外観……これは間違いないだろう。途中からなんだか夜の雰囲気を醸す通りに来たから、まさかね、なんて思っていたけれど……。
 
 そんなこちらの心中などつゆ知らず、彼はすたすたと中に入っていってしまう。戸惑いつつも彼の後に続けば、早くも彼はフロントの前に立っていた。
 
「獅子堂様ですね。お待ちしておりました。いつもお世話になっております。ご指定のお部屋でご用意しております。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
 
 彼は小窓から差し出されたルームキーを手に取ると、「行くで。ぼけっとせんと、ちゃんとついてき」と言い、再びずんずんと進んで行った。獅子堂様、か……。一瞬お得意様なのかなとも思ったけれど、もしかしたらここは彼みたいな人達の経営する店とか、いわゆるケツ持ち?の店とかなのかもしれない。詳しくないから、あくまで想像でしかないけれど。脳内ではそんなことを考えながらも、迷子にならないよう、私は彼の一歩後ろをついて行く。
 
 そしてエスカレーターに乗って最上階へと向かい辿り着いたのは、かなり広々とした部屋だった。入ってすぐに、大きなテレビに、大きなソファー、(大きなダブルベッド……はとりあえず見ないふりをし)、カラオケ機器やマッサージチェアまでも設備されているのが目に入ってきて。生まれてこの方ラブホに縁がない人生だったが、これがおそらくスイートルームであろうことは私にも理解できた。
 
「まさか抱く以外の目的でココ使うことになるとは思いもせんかったわ」

 私も人生初のラブホデビューが出会って間もない男の人と睡眠目的で訪れることになるだなんて思いもしなかったです、なんて心の中で言い返しながらも、靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れる。
 
 勝手にラブホってもっとピンクピンクしていて、テレビはAVがついてて、しれっと大人の玩具やコスプレ衣装がある……みたいなイメージをしていたから、意外とそんなことはなくて安心した。目に優しい色合いで、比較的シンプルだけど少し高級感がある内装。他を知らないからなんとも言えない部分はあるけれど、ラブホってそこまで "そういうことをする場所感" ないんだなぁとしみじみ思った。
 
「アンタ、飯食ったか」
「はい、食べてきました」
「風呂は」
「シャワーだけ済ませてます」
「なら、浸かるだけ浸かるか? スイートの風呂や、なかなかええ広さやで。女はそういうの好きやろ」
「えっ……」
 
 まさか彼からそのような提案をされるとは思わず、驚きの声が漏れてしまった。彼が近くにいる中で風呂に入ることには少々抵抗があったが、断れば彼の気持ちを無下にしてしまうような気がした。
 
「別に覗いたりせんで。そないな趣味はない」
「…………いいんですか?」
「その間俺は飯食っとるからな」
「なるほど……じゃあ、お言葉に甘えることにします」
 
 なんだか、変な心地がした。強引な人かと思いきやこういう気の利いた一面もあるんだこの人、と。テレビ画面から何かをオーダーする彼を尻目に、まだよく分からないな、と思いながら、私は浴室へ向かった。
 
 
 *
 
 
 結果的に言えば、お風呂、めちゃくちゃ良かった。既にお風呂は沸いてたし、自動追いだきでお湯が温かかったし、ジェットバスだったし、かわいいお花浮いてたし……。謎のボタンがあったから出来心で押して見たら、浴槽がピンクとか青に光り始めたのは驚いてしまったけれど。彼を待たせるのも悪いかなと思って長く浸かるのはやめておいたが、本音を言えばもう少し浸かっていたかった。
 
 この機会に、寝巻きとして使っているルームウェアに着替え、限りなくすっぴんに近い状態の中、薄いアイメイクだけは施しておく。出会ったばかりの人に見せるには勇気のいる状態だが、致し方ない。
 
「お待たせしました。今あがりました」 
「次は俺が済ましてくるわ。無料やから酒でも好きに飲んだらええ」
「……すみません。せっかくですが、遠慮しときます。私、実はお酒弱くて」
「ハッ……確かに、言われてみれば弱そうな顔しとるわ」
「えっ……そんな顔してます……!?」
「どうやろな? ……先に寝るんやないで、ええな」
「あっ、はい……分かりました」
 
 そんなやり取りをして彼を見送ってからは、あっという間の時間だった。彼を待っている間に歯磨きだけはしておいて、何をするでもなくソファーに座って。そういえばさっきのやり取り、傍から見たらこの後何かある男女の会話でしかなかったな……などと思い返している内に、ラフな格好をした彼がすぐに戻ってきた。
 
「ほな、さっそく寝るか」
「……はい」
「分かっとると思うが、同じベッドで、やで。そこは同じ条件にせな意味あらへんからな。そのために、わざわざココ用意したんや」
「…………、はい」
 
 ついに、このときが来た。昨日の夜は彼が眠っていたし、最終的には同じベッドで眠ったわけじゃなかったから、緊張感がまるで違う。部屋の奥に重鎮する、ヒト5人は寝転がれそうなダブルベッド。最初見たときは気圧されていたが、思ったよりも大きさがあり、離れて眠ることが出来そうで安堵する。彼の言った「そのために」というのは、そこら辺を気遣ってくれた、ということなのだろうか。
 
 獅子堂さんが横になるのを待ってから、少し距離を置いたところで寝よう。そう決め込んで彼の様子を伺ってると、なぜか先ほどまで着ていたダウンジャケットの中を漁り出して。そこから彼が取り出したものを見て、私は思わず自分の目を疑った。
 
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
「あ?」
「あの、それ……なにかな、って思って……」
「見たまんま、ドスやろ」
 
 いやいやいや、そういうことじゃなくて……!え、ドス……!?普通に銃刀法違反……いや、こういう人には通用しない話だったりする……!?先ほどまでの緊張が、別のベクトルの緊張に変わり、変な汗が出てしまう。そういえばあの時も、寝起きにドスが何とかって言ってたような……。
 
「……どうしてソレを出したんですか……?」
「寝るときはいつも枕の下か、布団の中に入れとくんや。服に忍ばせておくこともあるな」
「な、なんでですか……!?」
「ドスが近くにないと寝付けんからや」
「えぇ!?そんなことあります!?……どんな事情か知りませんけど、私と寝るときはそんな危険なもの布団に入れないでください! じゃないと私が安心して寝れないので……!!」
「は?それはアンタの……いや、せやけど昨日は無くても寝れたんやったか……」

 彼はぼそりと何かを呟くと、ドスとこちらを交互に見てきて。それに対して私が首を傾げると、彼は物騒なソレを再びジャケットの中にしまい、ジャケットごとソファーに投げた。
 
「…………わかった、ええで。今日はとりあえず離れた場所に置いとくことにするわ。これで上手くいったら、次からもそうしたる」
「は、はい。ありがとうございます……?」
 
 ドスが傍にないと眠れないってどういう状態なのだろう。獅子堂さんにとってはドスが、抱き枕やぬいぐるみのような役割を担っているのだろうか。親がいないというような話も聞いたし、もしかしたら形見とか、そういった類の物の可能性もある。もしそうだったら、彼には少し悪いことをしてしまったのかもしれない。とはいえ、どんな事情があろうとも、さすがにこれは拒否する他ないこと、妥協する必要は無いはずだ。
 
 彼はそのまま部屋の電気を消すと、今度はすんなりとベッドに横になった。促すような視線に耐えかねてこちらもおずおずと掛け布団を捲り、ベッドに入り込む。そして、彼とは体が触れ合わないくらいの、私たちの間にヒト一人分は寝られそうな十分な距離感で、仰向けになった。
 
「…………」
「…………」
 
 分かってはいたが、全く眠れる気がしなかった。どくどくと逸る心臓、ガチガチに固まった体。呼吸の音すら気まずくて、ままならない。こんな精神状態で、とてもじゃないが寝られるわけがなかった。
 
 私はひたすら天井に向けていた目線を、ちらり、横へずらすと、彼も眠れないのか、目を開けたまま上を向いていた。スタンドライトのぼんやりとした光は、彼の表情を見るには十分な明るさだった。彼の頬の深い傷痕が影を作っているのを見つめていると、さすがに視線に気づいたのか、彼の瞳がこちらを向いてきて。反射的に顔を逸らしたら、フッと彼が小さく笑う声が聞こえた。
 
「……なんや、聞きたいことでもあるんか」

 二人きりの静かな部屋の中、掠れがかった獅子堂さんのその声に妙な色っぽさを感じてしまい、じわりと顔が熱くなる。まずい、今こちらの様子を感づかれてはおしまいだ。聞きたいこと、聞きたいこと……頭をフル回転させ、どうにか振り絞る。
 
「……どうして、今日はホテルで寝ようと思ったんですか?」
「昨日はアンタの部屋で寝たやろ。せやから今度は場所変えて確かめてみよう思うてな。これで寝られんかったら、昨日のがマグレやったちゅうことになる。逆に寝られたら……やっぱりアンタが関わっとる可能性が高うなるわけや」
 
 意外にもちゃんと考えてんだ、と失礼ながら思ってしまった。逆にそこまで考えてたなら、話してくれれば良かったのに。いや、訊ねなかった私が悪いのかな。確かに最初誘われたときは、ほぼ一方的に予定を取り付けられてしまったが、今までに聞くタイミングは何度もあったはずだ。
 
「……そういうことだったんですね。少し、納得しました」
「さよか」
「…………」
「…………」
「……あと、執拗いとは思うんですけど、あの契約は守ってくださいね?」
「ああ、手出さへんってヤツか。そりゃ分かっとる。それに今は、何で昨日アンタの部屋で普通に寝れたのか……そっちの方が気になってしゃあないねん。せやから、それはちゃんと守るつもりや。アンタに協力反故にされたら困るのは俺やからな」
「そう、ですか……じゃあ、信用します」
「今後もそういうことで頼むわ。……今日で終わるかもしれへんけどな」
「……はい」
 
 そこで会話が途切れると、再び沈黙に支配される。もぞり、足を縮め、身体を丸め。ホテル特有のぴん、と張ったアッパーシーツを彼と共有しているから、今の私の動きも彼にまで伝わってしまっているのだろうか。そう考えた途端、以降少しも動けなくなってしまった。しかし幸か不幸か、そうやって動きを止めている内に、私はいつの間にか微睡みの中に落ちていった。
 

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