獅子に牡丹


 おそらく深夜であろう時間帯に、ふと目が覚めた。なんの前触れもなく、という訳ではなくて。がさりとシーツが引っ張られる感覚、ぎしりとベッドが軋む音。それらが、私を現実の世界へ徐々に覚醒させていく。これを引き起こしている主は、きっと彼しかいないだろう。
 
「……くッ……う、……」
「……!!」
 
 呻くような声が聞こえてきてハッとし、勢いよく上体を起こす。隣を見れば、玉の汗を滲ませ、苦しげな表情をする彼の姿があった。
 
「……ゥ……あ……ッ」
 
 悪夢でも見ているのだろうか。そうそう見ないような、ひどい魘されようだった。こういうとき、どうしたらいいのだろう。やっぱり起こしてあげた方がいいのだろうか。私がどうすべきか迷っている内にも、彼の顔色はどんどん悪くなっていく。
 
「ア゙ア゙ァ……ヴ……ッ」
 
 そして次には、彼は自らの首元を押さえて、苦しみ出した。上手く呼吸が出来ていないのだろう、ものすごく苦しそうだ。これ以上彼を放っておくのは危険だと感じた私は、おもむろに彼の方へと近づき、顔を覗き込む。
 
「……だ、大丈夫ですか……?」
「く……はッ……」

 何度か呼びかけてみるが、返事はない。やはり息が苦しいのか、悶えるような動きをする彼の肩に、次はそっと触れてみる。もう彼を起こしてしまおうと身体を揺らしてみた、刹那。
 
「……っ!?」
 
 肩を掴まれ、視界がぐるりと回り、ベッドに仰向けになる。次に瞬きしたときには、ギラギラとした猛獣の瞳が、私を貫いていて。彼に何かを呼びかけようとしたときには、彼の片手が私の首を絞め上げていた。
 
「っ……う……!」
 
 彼の手を引き剥がそうと、彼の腕を両手で引っ張ってみるが、びくともしない。足をばたつかせて藻掻くのも、まるで意味をなさなかった。これは、昨夜の襲われる≠カゃない。私は本当の意味で、彼に襲われている=B
 
 無意識に瞑った目を、薄く開けてみる。私を見下ろす彼の双眸は、私を見ているようで見ていなくて、どこか虚ろなもので。しかしその瞳の奥には、怒気、怨恨、殺意……燃え盛る炎の如く真っ赤な感情が、ひしひしと伝わってきた。おそらく彼はまだ、さきほどの悪夢の最中にいるのだろう。
 
「……おち、ついて、くださ、い……っ」
「…………」
「おね、が……っ、しし、ど、さん……!」
「……、」
 
 そのとき、彼の動きがぴたりと止まった。先ほどよりも喉の圧迫感が少し緩み、苦しみが軽減していく。彼にはまだ、理性が残っている。その可能性に一縷の望みをかけて、私は彼の頬へと手を伸ばし、宥めるようにその頬を撫でた。
 
「獅子堂、さん……もう……大、丈夫、ですから……」
 
 私が再び彼の名前を呼ぶと、彼は目を見開いて。勢いよく私から飛び退くと、やっと首の拘束が解かれた。
 
「ぅ……けほ、けほ……っ!」
 
 喉から入る空気が、未だに上手く通らない。生理的な涙が滲む視界の中、獅子堂さんは驚いたような表情で、自身の手のひらを見つめていた。

 
 *
 
 
 ゆっくりと息を吸って、吐いて。そうして呼吸を落ち着かせていると、目の前にペットボトルの水が差し出されてきて。見上げれば、獅子堂さんが無言でこちらを見つめていた。その瞳にはもう、先ほどのような濁りはない。そのことに心底ほっとしながら、水を受け取る。ご丁寧に蓋まで空けておいてくれているそれに、思わず笑みが零れそうになった。
 
「……ふぅ。もうだいぶ落ち着いたみたいです。お水、ありがとうございました」
「…………」
「獅子堂さんもさっきかなり魘されてて苦しそうだったんですけど……今はもう大丈夫ですか?」
「…………」
 
 返事はない。ベッドの隅に座る私の、対の隅に座り込んでいる彼。顔色を窺うと、なにか言いたげな表情で。私はそれ以上はなにも問いかけず、彼の言葉を待つことにした。
 
「…………アンタ、どういうつもりや」
「え……?」
「下手したら死ぬところやったやろ。なにを呑気に人の心配しとんのや」
 
 ぴりりとした空気を、肌で感じる。気持ち低く響く彼の声色が、彼の心情を物語っていた。
 
「……でも、本当に獅子堂さんも危ない状態だったんですよ? 呼吸も上手くできていなくて……お互い何とかなりましたし、良かったってことでもいいんじゃないですか?」
「……はぁ?」
 
 獅子堂さんの声色が、さらに低くなる。彼はずん、と立ち上がると、怒りを宿した目を私に向けてきた。
 
「何が良かったや! いよいよ頭ん中お花畑なんとちゃうか!? ヘラヘラしよって……お人好しも大概にせえ!!」
 
 彼のこんなに大きな声を聞いたのは、これが初めてだった。イラついた様子は何度か見たけれど、これは怒っている、かなり。まるで食って掛かりそうなその勢いは、ものすごく迫力のあるものだったが、彼に対する恐怖心はなかった。それはきっと、彼のその怒りには、私を案じるような意味合いが含まれていたから。
 
「……獅子堂さんは、私のために怒ってくれるような人なんですね」
「…………はァ?」
「見返りを求めている訳じゃありませんでしたが……獅子堂さんがそういう人なら、やっぱり助けてよかったし、心配してよかったです」
 
 獅子堂さんは怒りから転じて、ますますわけが分からないというような表情を見せて。「なんやそれ……」と、暫し私を見つめた後、呆れたように大きくため息をついた。
 
「……もうええわ。アンタとこれ以上話してたら、アタマ痛なってまう」
 
 彼は片手で頭を抱えながら、再びベッドに座り込んだ。ぎしり、揺れるベッドの振動が、こちらにまで伝わってくる。
 
 なんだか、不思議な感覚だった。獅子堂さんには昨日と今日とで、様々な感情を抱いてきた。プラスのものも、マイナスのものも、本当にいろいろ。だからこそ、彼といると言い表せない気持ちになる。しかし、一つだけ、はっきりしている心があった。

 ……この人のこと、もっと知りたい。

 それがなんでとか、知ってどうするのかとか、そういうことは分からないけれど。ただ知りたいと、純粋に思った。今がその、チャンスなのではないか。いや、多分今しかない。でないともう二度と聞けなくなるような、そんな気がした。
 
「……あの、獅子堂さん。何があったら、あんな風に魘されるんですか?あなたを苦しめているものの正体は、一体なんですか……?」 
「…………」
 
 口にしてから、すぐに後悔した。出会って間もない人に聞くには、あまりにも踏み込んだ内容だった。尋ねるにしても、もっと遠回しな言い方があったはずだろう。
 
「……すみません、無神経でした。やっぱり聞かなかったことに、」
「ええで、話したる」
「……え?」
「殺しかけた詫びや。ようわからんけど聞きたいんやろ」
「……、はい」






 ─────それから、彼の口から語られた彼の過去は、想像を絶するものだった。
 
 幼い頃からまともな生活が送れていなかったこと。借金を抱える父親の元で、常にひもじい思いをしていたこと。いつか報われると信じ、必死に耐え忍んで生きてきたものの、15歳のときに闘技場という場所に売られてしまったこと。その闘技場では毎日、殺し合いをさせられていたこと。そこで奴隷のような扱いを受けている中、ある日闘技場を見ていたヤクザの一人に腕を見留められ、そこを出ることができたこと。そういった経緯でその拾ってくれたヤクザの組に属することになり、今に至ること。
 
 絶句、という他なかった。彼は本当に私と同じ世界で生まれ育った人なのかと疑ってしまいそうなほど、あまりに現実離れした内容だった。彼の過去はきっと、私の想像や彼の語ったこと以上に、壮絶なものに違いない。しかし、凄惨な過去を語る中でも獅子堂さんは決して感情を乱すことはなかった。ただ淡々と事実を述べている、というような。そんな様子が、私には余計に痛々しく感じられた。
 
「……暴力と殺し殺されの毎日。そないな生活を長年続けてたせいやろなぁ、俺は気づいたときにはまともに寝られなくなってたんや」
「……親のこととか、闘技場のこととか……そういう悪夢を、今でもよく見るんですか? それで、あんな風に……?」
「夢はよう見とるが、お前の首絞めたんは多分、お前が俺に触ったからやな。闘技場はいつ寝首掻かれてもおかしない世界。殺られる前に殺らな思うて、体が勝手に動いたんやろ」
「……あ、もしかして、ドスがないと眠れないっていうのは……」
「それも闘技場んときの名残や。万が一寝込み襲われても反撃できるようになんかしら武器傍に置いて寝とったら、ないと寝付けなくなってもうた」
「他人の横だと熟睡できない、とも言ってましたけど……それも似たような理由ですか?」
「せや。寝るときが一番無防備やからな。深い眠りでもしとって殺意に気づかんかったら、すぐ死んでまう。そういうモンが、体に染み付いとるんや。……せやけど、そんな俺の常識をぶち破ってきたんがお前やった。こんなん気ならない方がおかしい話やろ」
 
 ……まあ、こんなとこや。彼は話せることは一通り話し終えたのか、最後にそう口にすると、たくさん話して喉が渇いたのだろう、残っていたペットボトルの水を一気に飲み干した。
 
「……話してくれて、ありがとうございます。きっと思い出すのも、嫌な記憶でしたよね。すみません、いろいろと話させてしまって」
「あないなことされたらフツー疑問に思うやろ。別に気にせんでええ」
「……でもおかげで、獅子堂さんのことを少し知れた気がします」
「なんや、少しかいな。全部話したやろが」
「……本当に、全部ですか?」
 
 私がそう咎めると、彼はこちらに視線を向けてきて。私の方も覚悟を決め、彼の方へ体を向けると、その双眸を真っ直ぐに見つめた。
 
「魘されてた理由とドスがないと寝れなかった理由は、確かに分かりましたが……不眠については、また別の問題なんじゃないですか?」
「…………」
「不眠に悩み始めたのって、多分ここ最近のことてすよね? 昔からずっとそうなら、もっと前に限界を迎えていると思いますし……最近なにかそうなるようなきっかけがあったとしか思えません。違いますか?」
 
 踏み込んでしまったのなら、もう後戻りはできない。ならいっそのこと、とことん踏み込んでしまおう。そんな心持ちで、私は言い放った。やっと彼のことが掴めそうな気がして掴みきれない、そんなもどかしさを拭いたかったから。
 
「……アンタ、基本抜けとる癖に変なところで鋭いな」
「…………」
 
 彼はそう鼻で笑って、私から視線を逸らした。その態度が答えなのだろう。彼はもうこれ以上語る気はないのだと私は悟った。
 
「もう辞めるか」
「……え?」
「寝るのをや。さすがに怖なったやろ」
 
 急な話題転換だったから、追いつくのに少し時間を要した。彼の言葉で、そういえばもともとそれが目的だったのだということを思い出す。意外だった。もともと半ば強引に頼みをきかせてきたのに、ここにきて逃げ道を用意してくれるのかと。彼としても、さすがに負い目があったということなのだろうか。
 
 しかし、今の発言ではっきりした。彼は同情を買うために過去を話したわけではなかった。本当に詫びの気持ちとして、私にそれを語ってくれたのだと。そしてそれに伴って、私の覚悟もより強固なものとなった。
 
「……いえ、辞めません。続けても大丈夫です」
「……ほう?」
「ここまで聞いておいて、放棄するのも違う気がしますし……正直全く怖くないかと聞かれれば、嘘になるんだと思います。でも今はそれよりも、私の協力が少しでも獅子堂さんの助けになるのなら……そう思う心のほうが、強いので」
 
 それは、嘘偽りない私の本心だった。きっと傍から見たら、お人好しだなんだと言われるような気がしたけれど、そんなものどうでもいいと思えるくらいには、私自身がそうしたい、という強い意思があった。
 
「……アンタ、ホンマに見かけによらず図太い女やな。……せやけど、今回ばかりはその図太さに救われることになりそうやわ」
 
 そう言うと、獅子堂さんはどこか満足げに、フッと笑みを零した。とくり、胸が鳴る音を聞く。それは、初めて彼の笑顔を見た瞬間に似たざわめき。しかし今回の彼のそれは、より自然体で、柔らかく映るものだったから。前よりも高鳴りは強く、加えてじわりと体があたたかくなるような心地がした。
 
「今日寝てみん内には、何もわからへんけどな。ほな、もういっぺん寝るか」
「……そうですね」
 
 先ほどまですっかり目が冴えてしまったと思っていたのに、安心感故か、気づいたら再び睡魔がすぐそこまで訪れてきていて。ベッドに入り、彼が横になる姿を見た途端、瞼が重くなっていく。
 
「……おやすみなさい、獅子堂さん」
「……ああ」
 
 私は彼の顔に刻まれた傷痕を見つめながら、ゆっくりと瞳を閉じた。あの痕を最初見たときから、きっと何かしらの事情があるのだろうとは思っていたけれど、まさかあんな過去があっただなんて。あの痕はまさに、彼が生きるか死ぬかの世界でなんとか生き抜きいたという、動かぬ証拠だったのだ。
 
 ……どうか今度は、彼が悪夢を見ませんように。彼の眠りが、少しでも穏やかになりますように。私は決して人を安眠に導くなんて能力はないと思うけれど、今だけはそうなった気分で、ただ祈り続けた。
 
 今回の睡眠がもし成功して、この関係が続くことになったら、いずれ彼の不眠の原因を知ることもできるのだろうか。知りたい、と思う。だってそれが解決しないと、彼の体調は一行に良くならないはずだから。そして単純に、私が彼のことをもっと知りたいから。いつか、話してくれるかな。私はそんな淡い期待を抱きながら、再び彼とともに眠りに落ちていった。
 
 ─────このとき私が、躊躇いもなく彼の方を向き、寝息が聞こえるほどの距離で寝ていたことに気づいたのは、次の日ことだった。


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