獅子に牡丹


 ラブホテルでの一件について。結果から言えば、彼は再び熟睡することに成功した。
 
『……ホンマ、どうなっとるんやろな』
 
 私をまじまじと見て不思議そうにする彼の姿は、未だ記憶に新しい。特に何もしていない私も彼と同じような気持ちでしかなかったが、一方で、上手くいってよかったと心底安心した。
 
 そして、今後のことも話し合った。まず、彼と寝るのは基本毎週火曜日と金曜日。場所は私の自宅。寝る日は彼が私の職場の近くまで来て、ボディーガードも兼ねて家まで同行してくれるらしい。ちなみにこれは万が一職場の人に見られたら色々と面倒なことになってしまうので、自宅付近に来るまでは少し離れたところからついてきてくれる、ということで落ち着いた。

 彼の依頼内容についても、少し変更点がある。ホテルで寝たときは「私が彼の眠りに関わっているかどうかの検証」という名目での依頼だったが、次からは本当に「彼が眠るため」の協力をすることが目的となった。
 
 話によれば、彼はどうやら一週間ほど前から不眠状態が続いており、なんと私と出会ったあの日まで一睡もできていなかったらしい。色々試したものの、今のところ他に対処法はないとのことで、そもそも私のなにが彼の睡眠に作用しているのかという原因究明は一先ず置いておき、とりあえずは彼の睡眠時間の確保を優先することになった。 不眠に悩まされている彼の定期的な睡眠の補助、それが私のすべきこと。毎週火曜日と金曜日と決めたのも、彼の活動限界を加味した上での設定だったりする。
 
 とりあえずはそんなことを話し合い、ラブホを出ると、彼は私を家まで送ってくれた。そして、今日までの濃い出来事は全て幻だったのかと疑ってしまうほど、本当にあっさりと、じゃあまた火曜日に、と軽く挨拶をし、その日は彼と別れた。
 
 
 *
 

「え、金曜まで予定合わなそうなんですか?」
 
 月曜日の夜。明日のことについて獅子堂さんに連絡しようかと考えていたところで、本人から電話がかかってきて。明日は都合が悪くなった、と伝えられた。何日も日が空くのは良くないと思い、水曜か木曜でも大丈夫だと言ったが、金曜までは時間が作れないとのことだった。
 
『夜に動かなアカン仕事が入ってな。お前と寝る時間が合わへんのや。昼は仕事しとるやろ?』
「そうですね……昼はちょっと厳しいです」
『せやから、次は金曜やな』
「……結構、日空いちゃいますね。少しでも寝られるといいんですけど」
『まぁ、横になって睡眠の真似事ぐらいはするつもりやわ』
 
 彼のその言葉を聞く限り、日曜の夜はやはり上手く眠れなかったのだろう。私は彼がぐっすり眠る姿を二度も見ているが、やはり彼の不眠具合は相当根強いものなのであろうと感じた。カレンダーの火曜日に× 印をつけた後、金曜日に〇をしようとすると、私はそこに既に予定が書いてあること気がついた。
 
「あ、そういえば、私今週の金曜日同期との飲み会があって。少しだけ遅くなっちゃうかもしれないんですけど、大丈夫ですか? 久しぶりに睡眠が取れるかもしれないのにすみません」
『別にええ。場所は?』
「……え? もしかして迎えに来てくれるんですか?」
『元々そういう話やったやろ』
「……わかりました。ありがとうございます。あとでお店の場所送っておきますね。多分、9時半頃には解散すると思います」
『分かったわ。ほな、金曜な』
「はい。じゃあ、また」
 
 そっか、飲み会があったか……。彼に居酒屋のURLを送りながら、なんだか申し訳ないなと思った。断れるといえば断れなくもないのかもしれないが、同期から強く、楽しみにしてる!、と言われている手前、今さら欠席するのは気が引ける。

 ……獅子堂さん、大丈夫かな。私はこの日から金曜日までの間、そのことだけが気がかりだった。
 
 
 *
 
 
 ふわりふわりと世界が揺蕩う。まったく誰なんだ。"最初はとりあえず全員生ビール" の文化を作った人は。おかげでビールが特に酔いやすい私は、半分飲んだ時点で既にかなり酔いが回ってしまった。しかも、それを一時間かけてやっと飲み干し、追加分はソフトドリンクを頼もうとしていたところで、お手洗いに行っている最中にレモンサワーが置かれていて絶望した。
 
「……これ、私の分だったりする?」
「そうそう!頼んどいたで!レモンサワー飲めるやんな?」
「……うん、ありがとう。でも、実は私ちょっとお酒弱いからこれで最後にしとくね」
「え、そうなんや〜!なんや可愛いなぁ」
「あはは……もう、結構苦労するんだよ?」
 
 ビールの件もレモンサワーの件も、みんな善意でやってくれていることだ、誰も悪くない。でも、やっぱりビールの文化を作った人は、少し恨んでしまうけれど。
 
 そして、私は結局、善意のお酒2杯を全て飲み干した。みんな4杯も5杯も飲んでいるのだ、私だって2杯くらい大丈夫だろう。周りの空気に流されて、私はそう高を括っていたのだ。
 
「おーい、ミョウジさん? 大丈夫か?」
「んー……大丈夫……あとは寝るだけ……」
「……相当酔っとるみたいやなぁ……」
「いやーマジか、なんか意外だわ。ミョウジさんって酔うとこんな感じになるんだな」
「せやなぁ……誰か帰りミョウジさんと同じ方向の人おるか?」
「あ、俺近いかも。前にその話で盛り上がったんだよね」
「田中かぁ……男やと少し心配やなぁ」
「いやいや、何かあったら気まずいしなんも起こらないって」
「ほんまやろなぁ?信じるで?」

 意識を保つことで精一杯の私には、周囲の声がひどく遠く聞こえていた。話の内容のほとんどは分からなかったが、気づいたらみんながこちらに手を振っており、私ともう一人だけが残されていた。
 
「……あれ、田中くん?どーしたの?」
「あぁ、俺ミョウジさん家まで送ることになってさ。……道、分かる?」
「うん?……うん、分かるよー」
「あー……ほんとに大丈夫?」
「うん、大丈夫……」
「……あのさ、俺ん家ここから結構近いんだけど、ちょっと休んでいかない? あ、別に何もしないから、そこは安心して?」

 なんだか、その言い回しには少し聞き覚えがあった。あれは確か……そうだ、獅子堂さんに初めて会ったとき。
 
『……あの、私の家すぐそこなんですけど……少し休んでいきませんか?』
『……は?』
 
 改めて思い返してみると、私、不審者でしかないなぁ。田中くんのようにもともと面識のある人が言うなら分かるけれど、初対面であれはさすがにないだろう。あの時の獅子堂さんの驚いた顔、少しだけ面白かったな。思わず、ふふ、と思い出し笑いしてしまうと、「なんか面白いこと言ったか、俺?」と田中くんは苦笑した。
 
「……うーん、でも私、送ってもらわなくても大丈夫だよ?」
「いや、そんなフラフラの状態で何言ってんの。いいからほら、俺に掴まって────」
 
 田中くんがなにかを言いかけたのと同時に、携帯の着信音が鳴る。多分、私だ。ごそごそとバッグの中からスマホを取り出すと、画面には【獅子堂】と映り出されていた。
 
「はーい、もしもし」
『…………』
「……獅子堂さん? 聞こえてますかー?」
『……迎え、着いたで』
「え! ほんとですか!? 今どこにいますか?」
『お前の言うてた居酒屋の近くや。今は物陰におる。……お前の姿も、ここからしっかり見えとるで』
「わ、そうなんですね。了解です! じゃあ、ちょっと待っててくださいね」
 
 私が通話を切ると、田中くんはすぐに「今のって、男?」と尋ねてきて。私はそれに頷き、その人がすぐそこまで迎えに来てくれている旨を伝えると、そっか、と呟いた。
 
「じゃあ、ここまでで大丈夫そう?」
「うん! 本当にすぐそこにいるみたいだし、大丈夫! 田中くんの自宅は、こっち方向?」
「……いや、俺はあっちの方なんだよね」
「そっかー、帰り反対なのにわざわざありがとう! また来週ね!」
「……ああ、またな」
 
 私は田中くんに手を振ると、いつもの帰路へと歩いていった。先ほどまで眠気と体の重さに辟易としていたが、獅子堂さんと話してからは妙に気分が高揚して、驚くほど足取りが軽かった。
 
 
 *
 
 
「ミョウジさん、男いたのか……いけると思ったんだけどなぁ」
 
「……っ!」
 
「……なんだ、今の……視線……?」

「……気のせい、か……?」


 *
 
 
 とん、とん、とん。一歩一歩を踏み締め、ゆっくりと足を進める。居酒屋から離れ、繁華街を抜けるも、彼は未だ現れなくて。まだ田中くんが近くにいるからと、気を遣っているのだろうか。もう少ししたら電話をかけてみようかと思っていたそのとき、ふと視界の横に見覚えのある柄のジャケットが目に入ってきて。顔を見上げれば、「……数日ぶりやな」と鼻を鳴らす彼の姿があった。
 
「あ、獅子堂さん!お久しぶりです! もう、遅いですよーすぐそこにいるって言ってたじゃないですか!」
「…………お前、ホンマに酒弱いんやな。前とキャラ全然ちゃうで」
「えー? そんなに変わってないですよ?」

 ほら! と言って両手を広げると、身体がぐらりと揺れてしまって。あ、と一瞬思ったものの、私の体はすぐに彼によって支えられ、転ぶのは未然に防がれた。
 
「言わんこっちゃないな」
「……ふふ、ありがとうございます」

 すぐに彼が助けてくれたことがなんだかとても嬉しくて、にこにこと口元を緩ませていれば、はぁ、とため息をつく彼。私のバッグを手に取ると、「家着くまで大人しく掴まっとき」と片腕を差し出してくれて。じわじわと胸があたたかくなるのを感じながら、「じゃあ、掴まっときますね」と言ってはにかんだ。
 
 ものすごく気分が良くて、心が弾んで仕方がない。それはきっと、お酒が入っているからだけの理由じゃないのだと、ぼんやりとした頭の中でも理解していた。
 
 
 *
 
 
「し、獅子堂さん……!」
「なんや、急にデカい声出して」
「また……また、すっごいクマできちゃってるじゃないですか!」
「……しゃあないやろ。前に比べたら良うなった方や。ええからはよ靴脱ぎ」
 
 自宅に着いて電気をつけるとすぐに、彼の目の下の青黒いクマが蘇っていることに気がついた。彼は結局、あのラブホテルで寝た日から今日まで、まともに眠れなかったのだろうか。こうしてはいられない。早急に彼に睡眠を取ってもらわねば。私はふらつきながらも急いで靴を脱ぐと、ベッドの上まで直行した。
 
「獅子堂さん、早く寝ましょう」
 
 ベッドの端に座り、ぽんぽん、と膝を叩いてみせると、彼は訝しげな顔をした。
 
「なんや、その動きは」
「ここに頭を置くんです、そして今すぐ寝てください」
「……お前、自分が何言うとるか分かっとんのか?」
「それはもちろん!」
「………正気に戻って後悔すんのはお前の方やで」
「大丈夫です、いいから来てください!」
「はぁ……」
 
 彼は気が進まないという態度を隠さずに、頭を搔きながら、私の方へと歩いてきた。じっ、と私を見下ろす彼に、ほらほら、と若干ベッドに深く座り込んで期待の眼差しを送ると、ぎしり、ベッドに膝をつき、ゆっくりと私の膝へと頭を乗せた。
 
「……これが……命の重み……」
「は? どんな感想やねん。色気なさすぎるやろ」
「えー? ちなみに、獅子堂さんの感想は?」
「……まあまあやな」
「そっかぁ、まあまあですか」
 
 睡眠のことしか頭になかったが、傍から見たらすごい構図だろうな、と今更ながらに思う。すっごく大きな男性が、私の膝枕で寝ているだなんて。ベッドから足が大きくはみ出してしまっているのが、より味を出しているような気がした。
 
「……」
「……」
 
 手の届く位置にある、彼の顔を見つめる、こんなにまじまじと見るのは、初めてかもしれない。硬くてしっかりした髪に、太くて力強い眉、迫力のある瞳と、がっちりとした首、そしてなによりこの体躯。この人は全体的に、生命力というか、活力というか。言葉にするのは難しいが、「生」という概念に満ち溢れた人だと思う。それが、彼本来がもつものなのか、死線をくぐり抜けてきた結果得たものなのかは、分からないけれど。だからこそ、なぜこのような人が不眠に陥っているのか。不眠になってしまうほど彼を揺るがす存在とは、一体なんなのか。それが、気になって仕方がなかった。
 
「……この前、苦しかったやろ」

 ふと、ほんのり充血した眼が、私の首元に向く。内容から察するに、ホテルで起きたあのことだろうか。
 
「俺は、首絞められる苦しみをよう知っとる。オマケにアンタはその細い首や、相当力入っとったはずやで」
 
 彼の紡ぐその言葉のひとつひとつは、その声色は、あまり覇気がなくて、どこか後ろめたさが窺えた。もしかしたらこの言葉には、彼なりの謝罪の意が込められているのかもしれない。私は、自分なりにそう判断した。
 
「……もう全然苦しくないですし、後遺症もなかったので気にしないでください」
「…………」
「……よしよし」
「…………あ? 急に何しとんのや」
「だって、苦しみをよく知ってるってことは、獅子堂さんもたくさん苦しい思いをしたってことですよね? だから撫でてます」
「…………」
 
 彼のごわごわしていて硬い髪に、再び優しく手のひらを滑らせると、彼は一度は眉間に皺を寄せたものの、咎めることを諦めたのか、無言で私の行動を受け入れてくれた。
 
 ……ああ、だめだ。彼を寝かせないといけないのに、私の方が眠くなってきてしまった。まさかこんな体勢で寝てしまうことはないだろうが、睡魔は侮れない。私は意識がなくなってしまう前に彼に伝えておきたいことを言葉にしようと、語彙を絞り出した。
 
「……私はですね、獅子堂さんの幸せを願ってるんですよ。ちゃんと睡眠をとって、少しでも穏やかに過ごせたらいいなって。だから、睡眠のお手伝いも引き受けたんです」
「……ハッ、幸せなぁ。つくづくオメでたい頭しとる女やわ。……なら、お前は俺の代わりに死んでった奴らんことは、どう思うとるんや。 あん時は軽く殺し合い言うたが……俺はホンマに、この手で何人もヒト殺してきたんやで?」
 
 彼は自身の右手に目をやり、その手のひらを一度開いて、閉じた。彼の表情は、先ほどの静かなものから一変し、嘲るように口を歪ませていた。
 
「まあ、俺の方はそんなん心底どうでもええ話でなぁ。勝って生き残って、のし上がったんが俺。それが全てや。そこに、罪悪感なんてもんは微塵もない。……せやけど、お前はちゃうやろ? 自分がされて嫌なことは人にせぇへんちゅう常識が通じる、ただ真っ白なだけの、フツーの女や。そないなお前が、俺に殺されてったもん差し置いて、人殺しの俺の幸せを、ホンマに願えるんか?」
 
 この心境を説明する言葉を、私は知らなかった。喜怒哀楽のどれにも当てはまらないそれ。とろりと、視界が乱れる。私は今、涙が零れそうになっていることだけを理解していた。でも、それをしたらまた、彼にアホだって呆れられてしまうような気がして。私は、必死にそれを堪えて、回らない頭でぐるぐると言葉を探った。
 
「……願えますよ。だって私は、今の獅子堂さんしか知らないんですから。私の知る貴方は、重い過去を背負ってて、それが原因でちょっと変わった寝癖があって、でも今は謎の不眠に悩んでいて……そんな、睡眠に少し縁がない、フツーのひとです。誰にだって、どんな人の幸せも、願う権利はあるでしょう? だから、獅子堂さんの幸せを、ホンマに願えます。……私、おかしいこといってますかね?」
「…………」

 彼はいつものような、あの呆れ顔はしなかった。ただ私を、その茶色がかったふたつの眸で、澄みやかに見据えていた。そして、ゆっくりと瞬きをすると、小さく微笑んだ。
 
「……いや、アホなお前らしくてええんとちゃうか」
 
 優しい、笑みだと思った。ああ、もったいないな。今の彼の笑みも、一晩して酔いが覚めたら、忘れてしまうのだろうか。そう、真っ先に悔やんでしまうくらいに。

「……もう。すぐあほって言ってくるんですから」
「褒め言葉やで、今のは」
「……求めてるのとちょっと違います」
「なら、なんて褒められたいんや」
「……この場合だと違うかもしれませんけど……例えば、かわいい、とか?」
「…………ハッ」
「あ、ひどい!今すっごく傷つきました!」
 
 それから、彼は私が怒る姿を見て一頻り笑うと、おもむろに上体を起こした。……そうだ。獅子堂さんを眠らせることが目的だったのに、むしろものすごく会話してしちゃったな。少し反省しながら、膝から消えた重みに一抹の寂しさを感じていると、「……傷と言えば、」と彼が切り出して。私の首元に手を伸ばすと、僅かに襟を捲ってきた。
 
「……ここの痕は、さすがにもう消えとるか」
「……え? あのとき痕なんてつきましたっけ? 手形とか、そういうわかりやすいものはなかった気がしますよ?」
「そっちやない。お前押し倒したときの方や」
 
 押し倒したとき。それは、彼を最初にこの部屋に招いた日のことだろう。そういえば、そんなこともあったっけ。なんだか少し、懐かしくも感じてしまう。彼はそのまま、捲った襟から覗く私の肌を、親指でするりとなぞった。
 
「……あん時と同じやな。お前の身体、熱いで」
 
 妖しく細められた目に、きゅう、と胸が締め付けられる。彼の声ってどうしてたまに、こんなにも官能的に響くときがあるのだろう。もともと熱い頬が、更に熱を帯びていってしまう。あつくて、どきどきして、むねがくるしい。この感情は、一体─────。
 
「…………いや、これはさすがに熱すぎやな」

 ……?
 
「でこ触るで」
 
 ……??
 
「…………お前、熱あるやろ」
 
 ……。
 
「……おい!」
 
 彼の焦ったような声が聞こえたと同時に、ぼすん、とベッドに身体を預け。その記憶を最後に、私はそのまま意識を失った。


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