獅子に牡丹


 不意にぱちりと瞼を開いた。あついけど、さむい。ちぐはぐで、ぼんやりする、決して良いとはいえない心地の中。ふと、衣服の違和感を感じて。これ、今着てるのって、まさかロングスカート? そのことに気がついた瞬間、私の頭は一気に覚醒した。
 
「っ……!」
 
 勢いよく上体を起こせば、ずきん、と頭が割れるような痛みに襲われ、目を顰める。二日酔いだろうか。確か昨日は飲み会があったはずた。それで、その後は……。

「もう起きたんか。まだ4時やで」
 
 ふと声のした方に目を向けると、そこにはソファーの上にどっかりと座り込む、獅子堂さんの姿があった。そして彼の顔を見た瞬間、まるで走馬灯のように、昨夜の記憶が蘇ってくる。
 
 ……ああ、もう、消えてしまいたい。思い出せたのはかなり断片的なものだったが、そのどれもが恥ずかしい出来事だったので、実際はもっと酷い有様だったに違いないだろう。
 
「獅子堂さん!昨夜は本っ当にご迷惑をおかけしました……!」
「別にええわ。それより、気分はどや」
「えっ……気分、ですか……?」
「覚えてへんのか? 昨日、話の途中でぶっ倒れたやろ」
「……え?」
 
 服装の状態から酔ったまま寝てしまったであろうことはある程度予想できていたが、まさか倒れてしまっていたとは。必死に記憶を遡ってみるも、残念ながら全く思い出すことができなかった。
 
「……ごめんなさい。昨日の夜のこと、一部は覚えてるんですけど結構曖昧で……でも、たしかに言われてみれば体が怠い気もします」
「なら、まだ治ってへんのやろな。酒か風邪か、原因は分からんが」
「……あの、獅子堂さん、私なにか大きいやらかししてたりとか、」
「それは別にええ言うたやろ。それより、先に着替えた方がええんとちゃうか」
「……あ」
 
 
 *
 
 
 彼に着替えを促された私は、寝巻きを手にし、覚束ない足取りのまま洗面所へ向かった。着替えて、歯磨きをして、顔を洗うところまでは最低限終わらせよう。私はそう決め込むと、さっそくロングスカートの留め具に手を掛ける。
 
 ホテルで風呂を勧められたときにも感じたが、彼は意外と気遣いができる人なのではないかと思う。当時はよく分からない人だな、なんて考えていたが、今思えばこれは、彼がヤのつく人であるが故にできることなのかもしれない。縦社会(という噂)だから、下積み時代(?)には気が利くというのも大事な要素だろうし。
 
 ……ちょっと待って。これ、女の子相手なら普通にモテるのでは? しかも獅子堂さん、体格もいいし身長も高いし厳ついけど顔もかなり整ってるし。……あれ、なんか、少しもやっとするかも。
 
「……」
 
 私はそこで自分の手が止まっていることに気づき、慌てて行動を再開した。落ち着かない心を払拭するようにぱしゃりと顔に水をかけ、洗顔を済ませる。そして最後に鏡で顔を確認すると、思わず、うわ、と声が出そうになった。体調も相まってか、ホテルのときよりひどい状態な気がする。しかし、もう寝顔すら見られている可能性が高いのだから、もはやどんな状態でもいいのでは……? 私はそう無理やり妥協点を見つけ、洗面所を後にした。
 
「……着替え終わりました。すみません、気遣ってもらっちゃって」
「……で、この後はどないするんや」
「うーん……あんまりお腹も空いてないですし、まだ夜中なので、とりあえずもう一回寝てみようかと思います」
「ほうか。……なら、俺も少し寝るわ」
「……えっ!?」
 
 思わず大きな声を出してしまった。なるほど、今そうくるのか。心の準備がまったくできていなかったため、やけに大きく胸が跳ねた。しかも、「先入ってええで」と言ってきているあたり、なんとなく予想はしていたが、やはり同じベッドで寝る気らしい。私が動揺したまま立ち尽くしてると、彼はわざとらしく溜め息を零してきて。
 
「さっきまで小さいソファーで寝とったせいか、身体の節々が痛うてなぁ。しかも、ぐっすりっちゅうわけにもいかんかった。……俺がそうなったんは、誰の責任や?」
 
 た、畳み掛けてくる……! 獅子堂さんって口達者というか、私を丸め込むのが上手いとつくづく思う。しかし、そもそも昨夜の時点でこういう展開になる予定だったのだし、拒む理由はないだろう。ただ、私の心の準備が間に合ってなかっただけで。
 
「……わかりました。でも、今更ですけどこのベッド二人で寝るには少し狭い気もして……大丈夫ですかね?」
「ギリギリ入るやろ。お前、そんなん言うてたら男連れ込めんで?」
「!? つ、連れ込む予定なんてないです!」
「……」
「……いや、確かに連れ込んだのかもしれないですけど……! でも、獅子堂さんはそういうつもりじゃなかったのでノーカンです!」
 
 語気を強めて主張する私に対して、彼は、ほう?、というような顔をしてくる。気まずくなってしまった私は、彼の視線から逃れるように、颯爽とベッドの中に入り込んだ。すると、彼はさっそくソファーから立ち上がり、その場でダウンジャケットを脱ぎ捨てると、ベッドの前に佇んできて。顎をくい、と動かす彼に促されるまま、極力壁際の方へと体を詰めれば、掛け布団を捲った彼が、ベッドに膝をつく。そして、ぎしりというスプリング音とともに、彼はベッドの中に入り込んできた。

 ぎっちり。みっちり。そんな感覚。もしかしたら彼は少しはみ出してしまうのではないか、と思っていたが、意外にもベッドの中に収まっているようで。 ……どうしよう、何も考えられない。前回寝たときとは、比にならないくらいの密着度。絶対に彼の方へ顔を向けられない、この距離感。彼側に置いてしまっていた手をお腹の上にずらそうと、おもむろに動かしてみれば、指が彼の身体に当たってしまい、ぶわりと汗が滲んだ。
 
 そういえば、実質これが私の家での彼との初めての共寝になるが……慣れるまでには相当な時間がかかりそうだと感じた。私の方はかなり寝づらいが、彼の方はどうなのだろうか。顔を動かさないまま彼の様子を探ろうとすると、ふと、私の知らない匂いが鼻を掠めて。これはおそらく、男性用の香水、つまり、彼から香ってきたものだろう。私はそれに気づいた瞬間、もう一つ別のことに気がついてしまい、壁際に寄せた体を更に端へ押し付け、出来るだけ彼から距離をとろうとした。
 
「……なんや急に」
「いや、その……私、昨日からお風呂入ってなかったから……臭うかもって思って」
 
 自分から言ったものの、恥ずかしくて仕方ない。獅子堂さん、出来ればノーコメントでお願いします……! 切実な思いでそう願っていると。すん、と耳元で鼻を鳴らす音が聞こえてきて。思わず視線をそちらの方へと向けると、私の首元近くに寄り、再びすんと鼻音を鳴らす彼の姿があった。
 
「……別に変な匂いはせんで」
 
 急激に頬が熱くなっていく私に対して、彼は特段なにも気にしていない様子。先ほど気遣いができる、と評価したのは間違いだったのだろうか。
 
「ちょ、ちょっと!急に距離感おかしくないですか……!?」
「は? 今さらやろ。昨日俺にあないなことさせた女に言われたないな」
「えっ?」
 
 何のこと、と言おうとしたが、そのときふと昨夜の記憶がフラッシュバックする。
 
『ここに頭を置くんです、そして今すぐ寝てください』
『……お前、自分が何言うてるか分かっとんのか』
『それはもちろん!』
『……正気に戻って後悔すんのはお前の方やで』
『大丈夫です、いいから来てください!』
『はぁ……』
 
 …………!!
 
「あ、あれは! ちょっと酔ってて、その……!」
「なんや、アレは覚えとるんやな」
 
 楽しそうに目を細めるその様子から、彼は私を試してたのだと気がつき脱力する。私は羞恥で赤くなった頬を隠すために、顔の半分を毛布に沈めた。
 
「……もう、意地悪しないでください」
「ハッ、せやな。これ以上は熱上がってまいそうやわ」
 
 いや、もう十分上がってると思います……! 私はこれ以上彼に赤くなった顔を見られることに耐えられず、彼に背を向けた。くつくつと笑う彼の声に、揶揄われたことによる小さな怒りがむくりと顔を出しかけるが、それはやがて後から押し寄せてきたあたたかな波にさらわれていき、声を出さずに微笑んだ。
 
 会話が途切れ、微かに眠気が降りてこようというとき。「……そうや、寝る前に言わなあかんことあったわ」忽然と、彼がそう語りかけてきた。
 
「もう2時間したら俺は出る。そん時、いっぺんお前起こすわ。鍵閉めなアカンやろ」
 
 ……やっぱり、わりとちゃんとしてる人なんだよなと感心してしまう。こんなの普通にモテちゃうやつだよね、困るな。私は定型的に、分かりました、と答えようとしたが、ふと別の考えが浮かび上がり、喉元まで出かかっていた言葉を別の文に取り替えた。
 
「起こしてもいいんですけど、スペアキーがあるので、そっちを使ってもらってもいいですよ。玄関近くの小物入れの中に入ってます。次の火曜日に返してもらえればそれでいいですから」
「……またお前は俺にアホや言われたいんか?」
 
 呆れを混じえたその声色に、思わず彼のほうに顔を向けると、想像通り、今にもため息を吐き出しそうな顔をした彼がそこにいて。至近距離でその瞳と目が合ってしまうと、慌てて視線を下に向けた。
 
「警戒心なさすぎやろ。そんなんでよくここまで生きてこられたもんやわ。目ぇ覚めたら金目のモン全部消えてたらどないすんねん」
「だって……獅子堂さんは、そんなことしないですから。私だって相手は選んで言っているつもりです」
「俺が信用できるっちゅうんか? まだ知り合うて日浅いやろ。その自信はどっから来とんのや」
「そうですね……そういうことをしよう思えば、できるタイミングはいつでもあったと思いますし……あと、話しづらい過去の話もわざわざしてくれましたし……」
「……」
「酔った私の介抱もしてくれましたし、普段の言動にも気遣、」
「もうええ、わかった。俺がなんべん言うても無駄やいうことがようわかったわ」
 
 若干突き放すようなその言い方に、僅かな不安が過ぎる。ちらりと向けた目線の先の彼は、目を瞑っていた。

「……怒ってますか?」
「……どうやろな」
 
 煮え切らない返答。けれど、肯定でも否定でもなかったのは、どちらともいえない、それが本音だったからなのかもしれない。私が思案しながら黙り込んでいると、彼は私が自省していると思ったのだろうか、「……ええからもう寝とき。せやないと治るもんも治らんで」見かねたようにそう言ってきた。
 
「……そうですね、ありがとうございます。じゃあ、おやすみなさい、獅子堂さん。……また火曜日に」
「……ああ。鍵、持ってくればええんやな」

 彼の言葉にこくりと頷くと、彼はちゃんとそれを目視したのだろう、その後はなにも口にすることはなかった。
 
 彼との間に約束された「また」があること。それがこんなにも私の心に温もりを与えてくれるものなのだと。私はこの時点でもう既に、薄らとその正体に気づき始めていた。
 

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