獅子に牡丹


 どさり、硬い床に寝かせられた衝撃に、はっと目を覚ます。薄暗い空間。窓から差し込む僅かな光によって、周囲が確認できる。寂れたコンクリートと砂がざらつく地べた。廃ビル、のようなところだろうか。
 
 少しずつながらも、頭を覚醒させていく。腕は後ろで拘束されていて動かせない。足も同様、何かで固定されている。声を出させないためか、口には布のようなものが巻かれていて。ここまでくれば、きっと誰でもわかる。私は今、誰かに誘拐されてしまったのだと。
 
 私は地面に押し付けていた頬をずらし、おもむろに首を動かす。すると、タイミングよく、私を上から見下ろす男と目が合ってしまった。
 
「おお、さすがに起きたみたいやなぁ。……姉チャン、今どないな状況か分かるか」

 カーキスーツを着たその男は、私を見下ろし、下卑た笑みを浮かべた。きっと、私が今喋れないことを知っていて、いや、自らしているのにもかかわらず、あえて尋ねてきているのだ。さらに言えば、どうしてこうなっているかなんて、私にわかるはずもない。

 私は特に抵抗せず、困惑のまま男の目を見返した。すると、男はおもむろにその場でしゃがみ込んで。「遠目パッとせんなあ思うてたが……よう見てみればなかなかええ女やな?」私の臀部に、太腿に、男の手が這っていく。ぞわり。全身に鳥肌が立ち、不快感に凍りついた。
 
 と同時に。頭上あたりから、がしゃん、と金属が激しくぶつかり合う音が響き渡った。驚いて音のする方へと顔を向けると────そこには、目を血走らせてこちらを、否、男を睨みつける、拘束された状態の獅子堂さんがいた。あたりは暗かったが、派手なバロック調の紋様のダウンジャケットは覚束ない視界の中でもはっきりと目視でき、私はそこにいるのが紛れもない彼だということを確信した。
 
 良かった、また会えた、と安堵する一方で、やはり彼は事件に巻き込まれていたのだと心を痛める。彼は腕や足元に取り付けられた金属製の拘束具を振り払うかのように、身体をくねらせ、じゃらじゃらとチェーンの音を鳴らした。私と同様、猿轡のようなものを取りつけられている彼は声が出せない状態だったが、憎悪の籠った燃えるようなその双眸は、今にも飛びかかって来そうな気迫に満ちていた。
 
「どないしたんや獅子堂? 散々言うたやろ、大人しくせんと……」カーキスーツの男がそう口にするやいなや、私は背後から現れた別の男によって上体を起こされると、首元にひやりと冷たい何かが触れた。「この女、死ぬで」その言葉によって、私は首に押し当てられたものが刃物であると理解した。
 
 それを機に、金属音は響かなくなった。獅子堂さんが、一切の動きを止めていたからだ。しかし、その瞳には依然として、殺気立つような憤りが宿っていた。
 
「なんやその目は。お前が悪いんやで? ワシらのせめてもの温情で、大人しくしとったらお前の女には手ェ出さへん言うとったやろ。ちぃと渡瀬の話したぐらいで噛み付いてきおって……ハッ、まるで番犬やな」
 
 周りにいる数人の男たちが、合わせるようにせせら笑った。獅子堂さんが睨みつけている、また、偉そうに獅子堂さんを挑発しているカーキスーツの男は、私達を拐った主犯格なのだろうか。
 
「せやけど、番犬も一丁前に女作っとったときた。それも堅気様のや。ようやっとお前の弱み見つけて、しかもソレがアタリで安心したわ。……のう、姉チャン。スラム育ちの薄汚い駄犬のどこが良かったんや? やっぱソッチの具合が良かったんか? ほんなら、ワシも少しは自信あるで?」
 
 カーキ男は再び下卑た笑みを浮かべると、中指と薬指を立てて前後に揺らすジェスチャーをした。あまりの品の無さに、私は即座に目を逸らす。獅子堂さんと彼らの間に何があったのかは何一つ知らなかったが、この場においての "悪" が獅子堂さんではないことは明白だった。

「……ワシらはなぁ、八代目の跡目候補が出始めたときから、納得いかへんかったんや。高知、勝矢、渡瀬……同じ直参っちゅうのになんでか親父の名は挙がらんかった。そん中でも渡瀬に限っては、未だに若頭の立場で近江を我が物顔しよって……古株やないお前なら、ワシらの気持ちも少しは分かるんとちゃうか?」
 
 話の内容のほとんどは、当然私には理解することができなかった。しかし、これがヤクザ同士の揉め事であり、獅子堂さんの属する組とカーキ男の属する組との間で起こっている問題であろうことは、なんとなく整理することできた。
 
「調子突いとる渡瀬組を組長不在時に乗っ取る。ワシらがこの計画を立てたとき、いっちゃん邪魔やったんがお前や、獅子堂。お前さえ御せれば、あとは渡瀬組のモン一人一人に『あの獅子堂をやった』言うてお前の情けない写真でも見して揺さぶれば、大抵はワシらの傘下入り。下のモン扱き使うてる鶴野は強さもたかが知れとるやろ。多勢に無勢で仕舞いや」
 
 愉悦に浸り、クク、と喉を鳴らして笑うカーキ男は、獅子堂さんの方へと足を進めた。「どや、獅子堂。今なら泣いて謝れば、指一本でウチに引き入れてやってもええで? お前腕は殺すには惜しいからのう」そして、彼にそう語りかけると、付近にいた部下であろう男に指示し、口枷を外させた。
 
 獅子堂さんの口元が顕になる。まずは、一度息を吐き出して。次に、痣を滲ませた口角をフッと釣り上げて。彼は、真上のカーキ男の顔を見た。
 
「……腐っても御免やわ、雑魚が」
 
 掠れがかったその声が響くやいなや。カーキ男は顔を顰め、獅子堂さんの腹部を蹴り上げた。二回、三回、四回と容赦なく蹴り続け、最後には革靴の先でじりじりと踏み潰す。やめて、と叫びたいのに、塞がったままの口元。かといって変に動こうとすれば、再び首にナイフを当てられてしまうだろう。目の前で獅子堂さんが痛めつけれているのに、何も出来ずに、むしろ足手まといになっているだろう自分が歯痒くて、悔しくて、視界が歪んだ。

「チッ……お高く留まりおって! 武力じゃこっちも互角、なら、渡瀬のいない渡瀬組の相手なんぞ屁でもないわ! ええか、次の近江を背負うんはな……ワシら清水組や!!」
 
「……ほう、なんやおもろい話しとるなぁ」
 
 そのとき。憤りに叫んだ男に続いて、第三者の声が聞こえてきて。それに気を取られているうちに、急に背後から男の唸る声が聞こえたかと思うと、口元に開放感が広がった。
 
「スマンのう、少し遅うなったわ」
 
 声の聞こえる方に顔を動かすと、そこには柄シャツにサングラスをかけた、知らない男性がいた。手にはナイフが握られていることから、おそらく奥で床に伏している男を倒したのであろう。男はそのままナイフを使い、私を拘束している結束バンドを外してくれた。
 
「獅子堂、この子はもう大丈夫や」
 
 サングラスの男がそう言い放った瞬間、獅子堂さんの方から、がしゃん、という金属音が響く。次に彼の方を見たときには、手枷のチェーンを腕力で破壊する、獅子堂さんの姿があった。既に立ち上がっていることから、足枷の方も同様に破壊したのだろう。彼は付近にいた男たちを殴り、蹴り飛ばすと、こちらを向いた。
 
 私は上体を起こして、駆け寄ってくる彼を見据える。ところどころ見られる生傷が痛々しい、けれど、立って、動いて、呼吸をしている彼の姿に、とにかく胸がいっぱいになった。

 彼はこちらに辿りつくと、目線を合わせるように、私の前で跪いた。目が合っていたのは、おそらく1秒か2秒ほど。瞬きもせず、何も口にせず、じっと私の瞳を見つめた彼は、すぐに反対を向き、私を背中で隠すように立ち塞がった。
 
「……鶴野、お前……な、なんでや、外にも人は居ったはず……!」
「いくら頭数揃えたところで所詮は烏合の衆や。誰を相手にしとるか……その見るからに空っぽそうな頭で、もういっぺん考え直した方がええで?」
 
 獅子堂さんに殴られたのか、腹部を押さえて動揺するカーキ男に、鶴野と呼ばれていたサングラスの男が答える。
 
「渡瀬の親父のいない渡瀬組は、やったか? えらい大口叩いた割には、ほとんど俺一人にやられてもうたなぁ。下のモンの勝手な判断で看板泥まみれにされて……お前んとこの親父、今頃泣いとるんとちゃうか」
「……確かに、これは計算外やったわ。せやけど、まだ終わっとらんで?」
 
 男は額に汗を滲ませながらも、にやりと笑ってみせて。「おうお前ら!! 奥の手や、全員出てき!!」大声でそう叫ぶと、暗闇の奥から5人、10人と仲間であろう男たちがぞろぞろと出てきた。
 
「相手はたった二人、内一人は虫の息や! すぐ地獄に送ったれ!!」
 
 カーキ男の発破に、男たちがバットや鉄パイプなどを構える。相手は武器を持っている上、大人数だ。私は息を飲み、嫌な音を立てる心臓の音を感じながら、二人の表情を盗み見た。獅子堂さんは、ほぼ無表情だった。しかし、鶴野さんという人の方は……笑みを浮かべていた。
 
「……虫の息? はっ、ウチの獅子舐めてもらっちゃ困るなぁ。さっきまでは人質がおる手前、下手に動けんかっただけや。こいつはまだ、牙の一つも見せとらんで」
 
 鶴野さんはこんな状況だというのに、余裕そうに相手を挑発すると、獅子堂さんの横にしゃがみこんだ。
 
「俺がこの子に付いとくわ。一人でやれるな?」
「……カシラは絶対手ェ出さんといてください。俺がやらな気が済まへんので」
「分かっとる。最初からそのつもりや」
 
 互いに聞こえる程度の声量での会話。私のいる位置では、はっきりと聞こえた。信頼関係の伺えるやり取り、確信に満ちた表情。私には、もう分かってしまった。ああ、彼は本当に出来てしまう人なのだろう、と。
 
 獅子堂さんの眸が、相手を鋭く見据える。まるで、獲物に狙いを定めた獣のように。鶴野さんは彼の肩に手を置くと、小さく呟いた。
 
「……行け、獅子堂。アイツ等ん喉笛、食いちぎったれ」
 
 鶴野さんの言葉を合図に、獅子堂さんは駆け出した。男たちの集団へと単身突っ込んでいき、拳を上げる。
 
 まるで、映画のアクションシーンを目の当たりにしているかのような気分だった。けれど、一方で、やはり映画はあくまでフィクションなのだと思い知らされもした。肉と骨のぶつかり合う生々しい音。聞いたこともないような呻き声。床に飛び散る血と汗。こんなものは、とても作りモノでは表現しきれない。今目の前にいる人たちは、互いが互いに、本気で相手を倒すべく動いているのだから。
 
 私は目の前の光景を逸らさずに見続けた。獅子堂さんが、ヒトを殴り、蹴る様子を。どんな表情で、どんな眼でそうしているのかを、しっかりと目に焼き付けるように。すると、私の横で同じように乱闘を見ていた鶴野さんが「なぁ、」と私に向けて語りかけた。
 
「素人には刺激強いやろ。この先、今よりもっとエグいの見ることになるかもしれんで。目瞑っといた方がええんとちゃうか」
「……いえ、見ます。一度見ておきたいって……見なきゃいけないって、そう思ってたので」
「……さよか。えらい肝据わった子やわ。俺かてあいつの喧嘩傍から見とったら、たまに目ェ顰めたなるで」
「……」
「ま、敗ける心配ない分、安心して見れるわな。もぉちょい待っとき、全員ノシたら早めに切り上げさせるわ」
 


 

 それから、間もなくのこと。鶴野さんの宣言通り、獅子堂さんは本当に難なく相手を倒していき、ついに彼以外に立っている者は誰一人としていなくなった。しかし、彼はというと、未だその瞳をギラつかせていて。地に伏す男たちの中からカーキスーツの男を見つけると、胸倉を掴み上げる。そして、再び拳を振り上げようとしたそのとき、「もうええやろ。その辺にしとき」と鶴野さんがストップをかけた。
 
 獅子堂さんは一旦動きを止めるも、振り上げかけたその握り拳は、男を見る瞳孔は、未だに震えている。ゆっくりとこちら側に顔を向け、その視線を鶴野さんへ、次いで私へと移していくと、憑き物が落ちたかのように拳を下ろし、男を粗雑に床へ捨てた。そのまま真っ直ぐこちらに向かい歩いてくる彼の姿に、私はひどく安堵した。
 
 彼はどこからか取り出した鍵を使い、手枷と足枷を取り外した。鍵は、おそらく男たちの中の誰かが持っていたのだろう。そういえば、彼はもともと繋がれていた拘束具のチェーンをすんなりと自力で壊し、先ほどまで手足にそれを着けたまま戦っていたんだということを思い出す。私には到底出来ない芸当に、改めて彼の底知れなさを感じた。

「後始末は俺がやったる。獅子堂、お前はその子連れてもう行き」
「……また、カシラに借り作ってもうたようで」
「なんや、今更水臭いで。それに清水組は、もともと親父が目ェ光らせてた組やった。ま、ここまでアホやったのは、さすがに想定外やったがな。今のうちに潰せたんは僥倖や。……せやけど、」
 
 刹那。鶴野さんが、獅子堂さんを蹴り上げた。思わず、え、と声が出てしまう。目にも止まらぬ速さ繰り出されたその蹴りは、 あまりにも容赦がないもの。しかし、獅子堂さんは避けることなくそれを受け入れ、あまつさえ笑みを浮かべていた。
 
「……ハハッ、さすがカシラや。今のが今日イチ効きましたわ」
「そりゃそうやろ、痛くしたからな。……分かっとるやろ? 真っ白な堅気さん巻き込むんは失敗やった。このご時世、特に親父がムショん中にいる今なら尚更や。もし警察沙汰になっとったらどないするつもりやった? ……忘れるんやない、お前の責任背負うんは、お前でも俺でもない……渡瀬の親父ちゅうことを」
「……すんません。肝に銘じます」
 
 私は、鶴野さんの言葉を聞いてハッとした。真っ白な堅気、というのは私のことだろう。なら、獅子堂さんはきっと、私のせいで鶴野さんに怒られてしまっているのだ。そうだ、そもそも今回のことだって、私さえいなければ、彼はこんな目に合わなかったはずで。
 
「あの、待ってください」
 
 私は緊迫した空気ながらも、いても立ってももいられず、口を開いた。
 
「獅子堂さんをそんなに怒らないでください。 ……獅子堂さんは悪くないんです。獅子堂さんが巻き込んだんじゃなくて、私が獅子堂さんを巻き込んでしまっただけなんです」
「……きっかけはそうやったのかもしれんが、関わり続けたんは獅子堂の方やったんやないか?」
「それは……でも、合意の上でしたし……それに、最近はむしろ私の方が獅子堂さんに会いたいと思ってましたから……!」
 
 しん、と空気が静まり返る。鶴野さんと獅子堂さんは、目を丸くしていた。あれ、私、もしかして結構恥ずかしいことを言ったのでは? そう気づいたときにはもう、時すでに遅し。やがて、くく、と喉を鳴らして笑った鶴野さんは、先ほどとは打って変わって、優しい表情を見せていた。
 
「……安心しい、腸煮えくり返るほど怒っとるわけでもあらへんし、これ以上痛めつける気もない。ただ、俺の立場やと叱らん訳にはいかなくてなぁ。驚かせてスマンかったわ」
「あ、いえ、すみません……! 私こそよく知らないのに口を出したりして……」
「いや、ええんやええんや。むしろそういう方が特に俺らみたいなモンには刺さるヤツ多いで。 ……なあ、獅子堂?」
「…………さあ、どうでっしゃろ」
 
 呆れるような視線が、獅子堂さんから降り掛かる。「なんや、素直やない奴やなぁ」と鶴野さんがフォローか本音かよく分からないことを言うも、私には分かる。あの獅子堂さんの顔は、完全に私を「アホ」と言わんとしていると。
 
「引き留めて悪かったな。ほれ、もう行き」
「……へい。ありがとうございます、鶴野のカシラ」
 
 獅子堂さんが、私の横に並ぶ。「歩けるか」尋ねるその声が、心做しかとても優しく感じられて。はい、と微笑み頷くと、彼は足を進める。
 
「……ええ子やないか。枯らすんやないで」
「……ええ、分かっとります」
 
 すれ違いざま、彼らが交わしたそんな一言は、私には聞こえていなかった。
 

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