獅子に牡丹


 彼と廃ビルを出て、まず問題になったのは、私たちはどこへ行くべきか、ということだった。私の自宅は、外に出てすぐ男たちに拉致されたことから、場所を把握されている可能性があるため、今日のうちは避けた方がいいのでナシ、獅子堂さんの方も同様に安心はできないということでナシ。その他に、この近辺で安全が保証できる場所はあるか。そう考えたときに挙がったのが、以前彼と赴いたあのラブホテルだった。
 
 目的地を定めた私たちは、道中、替えの衣服と簡易的な応急手当用品を買いつつ、ホテルまで歩いて向かった。彼は怪我人だし、タクシーを使わないかと提案したが、まだ残党がいる可能性も捨てきれないため、不振な動きを察知しやすいよう歩いて行く方がいい、と彼は指摘した。
 
 やがてラブホテルに着くと、フロントは、相手が獅子堂さんだと分かると快く対応し、前回と同様のスイートルームを用意してくれた。
 
 部屋に着いてからの私たちは、極めて普通のひとときを過ごした。ルームサービスで簡単なご飯を頼み、一緒に食べて、別にいいと拒む彼を押し切り強引に彼の傷の治療をし、交代で風呂に入り。一通りのことを済ませると、いつかのように並んでベッドの上に腰掛けた。当時は互いにベッドの隅と隅に座っていたけれど、今は拳三つ分くらいの距離感で。
 
「……怪我の具合は、どうですか?」
「再三たいしたことない言うとるやろ。お前は?」
「私のほうは全然大丈夫です。……あと、改めてごめんなさい。私がいなければ、きっと獅子堂さんは一人で逃げられたんですよね」
「切り捨てんかったのはこっちや。お前のせいやない。むしろ、組同士のいざこざで危険こうむったんはお前の方やろ」
「……でも、獅子堂さんが悪いわけじゃないでしょう?」
「……フッ。これ以上、お前に何言っても無駄なんやろな。そう思うんなら、もうそれでええわ」
 
 最初は、そんな押し問答から始まった。意外と頑固な私の性質を分かってきたのか、途中で自ら折れてくれる彼。何気ないやり取りに自然と頬を緩ませている中、再び沈黙が降り落ちる。
 
「……前にここで、俺が極道に拾われたっちゅう話したことあったやろ」
 
 その声色で、その表情で。この切り出しが本題なのだろうと、私は何となく察した。彼と大事な話をするときは、いつもこの場所。なにか不思議な因果が働いているような気がした。

「……はい、覚えてます」
「その極道が、さっきの鶴野のカシラや」
「……カシラは、渡瀬の親父が率いる渡瀬組におってな。俺はカシラに拾われてから、渡瀬の親父と盃交わした。そこで "獅子堂" いう渡世名貰うて、ドン底におった過去全部捨てて、生まれ変わったんや」
「極道は、力のあるモンが強く在れる。まさに、力で生き抜いてきた俺に相応しい場所やった。身内も金も寝床もない俺でも、強ささえあればいくらでものし上がれる。一日生き抜くのでようやっとやなくて、テッペン目指して夢見れる。それが、俺にとっての極道の世界やった。……せやけど、ある日、鶴野のカシラは俺に持ちかけてきたんや。"親父が近江連合を解散させる計画を立てとる。お前も協力しろ。" てな」
「最初は何言うてるか分からへんかった。頭が真っ白になるっちゅうのはこないなことかと思った。そんとき、カシラに何言ってどないな顔してたか、よう覚えとらん。その日、寝るときになって始めて、カシラの言うたことについて考えた。せやけど、いつまで経っても理解は出来んかった。他でもないカシラが、親父が、そないな話持ち出してきたことも、俺から極道が喪われる未来のことも……何もかもな。そんで、ずっとそんなん考えとる内に、気づいたら朝になっとった」
「……それからのことや。俺がよう寝つけられなくなったんは」
「…………」
 
 欠けていた最後のピースが、ぴたりとはまるような感覚になった。彼は一から丁寧に話してくれた。新たな居場所を与えてくれた人が、その居場所を消さんとし、事もあろうかその協力を仰ってきた。その事実が、彼を不眠にまで陥らせた要因だったのだ。きっと、私には計り知れないような喪失感や、絶望や、恨みや、憤りや、哀しみや。様々な感情に苛まれていたに違いない。
 
 先ほどの鶴野さんとのやり取りを見る限り、現在も関係は良好だったように窺えた。それは、彼が未だに反論をしていないということ。いや、立場上、したくても出来ないのだろうか。それについて考えるだけでも悶々とするだろうに、鶴野さんの前ではひとまず受け入れた体で接していることは、かなりの心労になっているのではないだろうか。確かにこれはそう簡単に割り切れる問題ではないし、不眠を自己解決するのも難しいはずだ。
 
 どうしようもなく、胸が苦しくなって仕方がなかった。彼はきっと同情なんて求めていないだろうから、表に出さないように努めた。第三者の目から見れば、正直、どちらの意見が正しいかなんて分からなかった。でも、彼の置かれた境遇は、あまりにも辛いものがあると思った。
 
「……今はそのことについて、どう考えてるんですか? 獅子堂さんは、どうしようと思ってるんですか?」

 私は余計なことは口出しすべきではないと思い、比較的無難なことを尋ねる。

「……まだよう分かっとらん。極道に生まれ変わったときから、俺の生き甲斐はここにしかない。今でもそう思うとるが……最近少し考えとることはある」
 
 彼はそう答えると、一瞬こちらに目をやった。

「……極道やなくなる、俺ついてや。まぁ、全然想像出来てへんかったんやけどな。今日は進展があった。……お前と初めて会うたとき、喧嘩せんで男ら追い払えたんは、俺が極道やったからや。せやけど、今回お前が巻き込まれる羽目になったんも、俺が極道やったからやった。これが何を意味するか……その答えが出れば、別の道も見えてくる気がしとるんや」
「……そうですか」
 
 私が獅子堂さんを変えたいだなんて、思ってはいない。だって、私にはやっぱり、何が正しいかなんて判断できないから。でも、私と関わったことがきっかけで、少しでも彼の選択肢を増やせたのなら、寝れずに思い悩む時間を減らせたのなら、素直に良かったと思える。
 
「……私は獅子堂さんがどんな道を選ぼうとも、獅子堂さんの幸せを願ってます。それを、できるだけ獅子堂さんの近くで願えたら、とも。……だから、これからも、どうか傍にいさせてくれませんか……?」
 
 私の声は微かに震えていて、心許ないものだった。けれど、逸らさず彼の目を見て言い放った。私のこの思いが本物であることが、ちゃんと伝わるように。
 
 彼は僅かに瞠目した。ゆらりと揺れる瞳が、私を見つめる。どく、どく、と高鳴っていく心臓につられて、緊張が加速していく。やけに長く感じる数秒間。それに終止符を打ったのは、彼の方だった。

「相変わらずアホな女やな。……いや、こう言われたないんやったか」
 
 知っているようで、まだ知らない、彼の新たな表情。もっとしっかり見ていたいのに、少しずつ、近づいていく距離に。あまりに近すぎる、この距離に、よく見ることができない。
 
 するり。獅子堂さんの指が、私の髪に触れて。
 
「……ナマエ。ホンマ可愛ええ女やわ、お前は」
 
 私の唇は、彼の唇によって塞がれた。
 
 一度目は、柔らかく。二度目は、確かめるように。三度目以降は、求めるように、奪うように。私は彼と、幾度となく唇を重ねた。
 
 上唇を食んだ彼に、舌で歯列をなぞられれば、彼を受け入れるように口を開いていく。すると、すかさず彼の舌が私の口内に滑り込んできて。私の舌を舐め、吸い、絡め取る。こちら側からも彼の舌をちろりと舐めてみれば、彼の動きは激しさを増した。

 後頭部を抑えて動きを固定してくれている彼に合わせ、私も彼の背中に手を回し、必死にしがみつこうとする。しかし、私は彼の押しように耐えられず、上体が傾いていき、やがて、緩やかにベッドに背中を預けた。
 
 一度、離れる唇。吐き出した息が喉を通る、たったそれだけのことでも、快感を拾ってしまう。多幸感が、じわりじわりと胸に染み渡って、生理的な涙が滲みそうになった。私は彼の近づく予感に、再びゆっくりと瞳を閉じた。すると、ふと彼の手が私の背中に移動し、おもむろに上体を起こされる。思わずきょとんと彼を見るが、次には脇の下に手を添えられ、促されるまま彼の膝の上に座わらされ、何事もなかったかのように接吻が再開するから、疑問符が浮かんでしまう。彼を受け入れはしたものの動揺を隠せずにいると、彼はそんな私の様子を感じ取ったのか、おもむろに唇を離した。

「……寝る以外のことせぇへんのやろ。ベッドここ使うてたら、守れる保証あらへんからな」
 
 彼の湿った口元が、てらてらと光っている。先ほどまでこの薄くて綺麗な唇と、私の唇が重なっていたのかと。恍惚としてそんな事を考えながら、遅れて彼の言葉を咀嚼する。そして嚥下して、ああ、彼はこんなときでも私のことを考えてくれる人なんだ、と胸があたたかくなった。
 
「……その約束、もうなくしちゃいましょうか」
 
 今日、この日に至るまでの記憶が、次々と頭に流れ込んでくる。色々あった、本当に。でも今では、そのどれもが、彼にこの思いを抱くまでの過程だったのだと、そんな風に思える。
 
 「私、いつの間にか、獅子堂さんのこと、」
 
 その先は、がぶりと口を塞いだ彼によって、紡がれることはなかった。さきほどとは比にならないくらいの、呼吸もままならない口付け。がっつく、というのはこのような状態を指す言葉なのかもしれない。あまりの激しさに私が限界を迎えようとしていると、彼はそれを察したのか、ゆっくりと唇を解放してくれた。

「……先に言うたのは、お前の方やからな」

 飢えた獣のような欲情に燃える瞳に、下腹部がきゅう、と疼く。彼も私を欲してくれている。目に見えて分かるその事実が、たまらなく嬉しくて。
 
「……はい」
 
 私がそう頷くと、彼は再び深い口付けをし、私の服の中に手を入れ、腹部から胸元へと手を滑らせ、そして。

 薄暗い部屋の中、淡い光を放つスタンドライトに照らされながら、私と獅子堂さんの影は重なり合い、身も心もひとつになった。



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