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 エルは重たい足を引き摺っていた。たった六つのクラスしか存在しないというのに、その他施設の多さから、歩いて移動するには酷く草臥れてしまう程に長い自クラスへの道のりを。

 デルトニア暦 三一○○年 四月一日

 窓の外で風に舞いあげられるサクラが嫌という程に春を知らせてくる。
 エルはこの二○年の間、今日という日を来るな、来るなと願い続けてきた。願ったとて、都合よく時が止まることも、定められた運命が道を逸れることも有り得ないと分かってはいたが、それでも願わずにはいられなかったのだ。

「眠れもしなかったですね、最悪です。ああ、二○年振りの教官、ううん、嫌だ……」

 独り言をぽつぽつと長い廊下に落としながら、既に始業の鐘は鳴らされているというのにゆったりと歩を進めていく。

 エルの受け持つ「Wクラス」は非常に特殊なクラスであった。毎年生徒が入学する訳ではなく、今回のように数十年の間が開くことも珍しくはない。
 それでも基本は常に生徒を抱えていたはずだった。しかし二○年前、Wクラス第二四期生が全ロストという悲劇に見舞われ、今、クラスで待機しているであろう第二五期生が入学するまでの間、エルは生徒を持たない教官となってしまっていた。

「生徒なんて要らないのです。……まあ、しかし、現状手はひとつでも多く必要なのですが。分かっていますよ、わたしは教官です。教官は、大人しく教官をするですよ、全く、もう」

 聞き手のいない文句は虚しく廊下に響き自分へと返る。

 ひたすらに廊下を進み続け、そうしてあと数分で到着するであろう所まで来た。余計に足が重たくなる。
 久方振りの教官の任に荷を感じているわけではなかった。彼女の足に鉛を乗せるのは、もっと別の部分にある理由だ。


 ここを曲がれば、もう教室が見えてくる。その一歩を何とか踏み出した、その時だった。

「―――おぁ、っ!?」

 そんな、素っ頓狂な男の声が上がる。エルが足を踏み出したと同時に、曲がり角の向こうから誰かが勢いよく飛び出してきたのだ。
 エルはその男がこちらに向かって走ってくる足音をしっかり耳に捉えていた。しかし、だからと言って無理やり引き摺る足を止めてやるのも癪だった。そういうわけで、男が突っ込んでくるのも構わず進み、そして左手を突き出し男の体をピタリと止めてやったのだ。

「廊下は走るなと義務教育過程で教わらなかったですか、少年。これだから子供はキラ―――」

 左を向けば、見慣れた制服が見えた。随分と背が高く、エルの目線の高さでは彼の胸元にすら届かない。見下ろされている感覚に若干苛立ちを膨らませながら、エルは首を上へと向かせた。

 そして、呼吸が止まる。

「っす、すまん!怪我してへんか……?」

 その生徒はパチンと胸元で両手を鳴らし、申し訳なさそうに眉で八の字を描く。
 エルはそんな彼を見上げたまま、目を丸くさせていた。まるで、信じ難いものでも見たかのように。

「……あ、あの?」
「……っえ、あ、」

 言葉を発さないエルに、彼はおずおずと更に言葉を掛けた。それにより我に返ったエルは小さく咳払いをし、そして彼の横を抜け何事も無かったかのように教室へと向かう足を再開させる。

「……始業の鐘はとっくに鳴ったです。教室へ戻るですよ、トントン」
「え、?なんで俺の名前、」
「わたしは教官です。生徒の名前くらい、把握していて当然ですよ」
「……教官?」
「不満がありますか。後で聞くとします」
「っあ、ちょ……!」

 すたすたと先をゆくエルに、トントンと呼ばれた生徒は慌ててその小さな背を追った。

「俺、全然教官が来うへんから職員室に呼びに行け言われて教室出てきたんやけど……!」
「そうですか。教官ならここにいるです、手間が省けたですね。喜びなさい」
「いや、君どう見ても俺と同い年か、もっと下くらいに見えんねんけど……」
「教官が教官でないと疑いますか。まあ、よいです。どうせ他のやつらも同じことを言うですから」

 淡々と言葉を並べるエルに、トントンは酷く困惑させられていた。それも無理はない。エルが教官であることは事実だが、如何せん見目姿が若すぎる。十八、いや十六程度だろうか。

 エルはそんなトントンを気に留めず、歩きながら腕に抱えていた黒いファイルを開いた。それは生徒名簿である。

「―――悪夢ですか、これは」

 エルはここで"初めて"第二五期生の名簿に目を通した。そうして、そこに連なっていた名前にくしゃり、と表情を歪めた。